発掘情報

舒明天皇は存在したかを考える 都塚古墳

都塚古墳の発見

1月15日に、奈良県立橿原考古学研究所は、奈良県明日香村川原の丘陵地にある小山田(こやまだ)遺跡で、7世紀中ごろに築かれた一辺50メートル以上の大型方墳の濠(ほり)が発見されたと報告しました。調査委の結果飛鳥時代最大級の古墳であり、都塚古墳と名付けられました。蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートルの方墳)を上回り、推古天皇陵とされる飛鳥時代最大の山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺61メートルの方墳)に匹敵する大きさです。このことから、舒明天皇の墓ではないかと最初は報道されました。
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発掘された溝は、ほぼ東西方向に約48メートルが確認されたようです。幅は最上部が約7メートル、底面が約3.9メートル。深さは約1メートル。北側ののり面には40センチ大の石英閃緑(せんりょく)岩(花こう岩)がびっしりと張り付けられ、底面には15〜30センチ大の石英閃緑岩が敷き詰められていました。また、南側ののり面は一辺数十センチの方形に加工した板石(厚さ5〜10センチ)が積まれていました。一番下に緑がかった結晶片岩が2段に、その上に赤みがかった室生(むろう)安山岩が階段状に8段積み上げられていたようです。
溝を造成した時の土の中から6世紀後半の土器類が出土したことや、板石積みに用いられた石の種類から6世紀末頃から7世紀の築造とみられています。また、墳丘には地震が原因とみられる地割れ跡が長さ4メートル以上にわたって残っていることも分かりました。

舒明天皇即位の不思議
舒明天皇の墓は改葬されて、現在、桜井市の段ノ塚古墳が治定されています。この段ノ塚古墳の場所は桜井市の「忍阪」と呼ばれる場所です。舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の名前がついた場所です。ちなみに、古事記では忍坂日子太子と書かれています。
この押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇の嫡子でありながら天皇になることはできませんでした。敏達天皇の次は用明天皇となり、仏教を重んじたことで蘇我氏が躍進し物部氏と逆転することになったものです。用明の後の、崇峻(すしゅん)、推古の3天皇がいずれも蝦夷の祖父、稲目(いなめ)の娘を母としました。推古天皇がなくなると、後継候補として、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子が皇位を争います。この時、大臣だった蘇我蝦夷の後押しを受けて田村皇子が629年に即位したとされています。蘇我氏の血縁者であるなら、山背大兄王が選ばれるはずですが、なぜか、蘇我蝦夷は人臣に計り血縁者でない田村皇子こと舒明天皇を選出したとされています。
どう考えても、非常に奇妙な選択です。日本書紀は推古天皇の遺言が曖昧であったことを告げます。それ自体不可思議な話です。加えて、当時の蝦夷にとって、他の臣の意見を聞き尊重しなければならない程追い詰められた、もしくは、譲らなければならない立場にあった形跡は全くありません。
何故血縁者でない人物を選出しなければならなかったのか。そうすることで、外戚としての力が弱まることは自明なはずです。私には、この舒明天皇ことを田村皇子が選出されたことが、全く理解できないのです。

舒明天皇の子供達が日本書紀を作る
舒明天皇は、中大兄皇子こと天智天皇と、その弟で日本の基礎を築いた天武天皇の父にあたる人です。まさに、舒明天皇の選出が、時代を大きく変える結果となったのです。
現に、舒明天皇が無くなった4年後、中大兄皇子が主導する大化改新、乙巳(いっし)の変が起こります。本来なら天皇の子供として皇位継承の可能性がある中大兄皇子に、「蘇我の血が入らないあなたは蝦夷がいる限り天皇になれない。」と中臣鎌足に囁かれ、まんまと乗せられてテロを起こしてしまいました。
舒明天皇の選出が、蘇我の時代を終わらせたのです。当時、舒明天皇とともに天皇の候補として名前のあがったのは山背大兄王(やましろのおおえのおう)です。彼は、聖徳太子の子供です。それまでの、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇は皆、欽明天皇の子供です。そして、この時候補に挙げられていたのは、その次の次の世代、即ち、敏達の孫と用明の孫なのです。順当に考えれば、敏達の子か用明の子が皇位を継承すべきです。
日本書紀をそのまま受け止めるなら、舒明天皇の選出は蘇我蝦夷の聖徳太子に対する対抗意識を感じさせる内容になっています。人々は聖徳太子への尊敬の念が強く、太子亡き今は子供の山背大兄王に期待を寄せた。だからこそ、敢えて蝦夷は独断で決済しないで、臣下に計り彼らの声を聞いて舒明天皇を選んだというものです。血の繋がりは無くても、自分の政権は盤石であると言わんばかりにです。
蝦夷の傲慢さが透けて見えるようなシナリオになっているのです。しかし、ここに昨今の「聖徳太子は存在しなかった」という説を当てはめるとどうなるのでしょうか。
舒明天皇の皇位継承のライバルである山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、存在していたとしても際立つ意味が全く無くなります。皇位は、欽明天皇の子供の世代から孫の世代へと繋がれば良いだけの話なのではないのでしょうか。そしてそこには、舒明天皇選出の正当性は全く存在しなくなってしまうのです。
つまり、舒明天皇とは本当は何者であったのかという新たな疑問が登場します。

本当の歴史は・・・・・
私は少々大胆な仮説を立てています。時代の流れは王統の交代が激しくなっていました。ある意味、戦国時代を迎えていたのではないかというものです。継体天皇が新たな王統を築いた後、百済の書にあるように継体天皇王朝はクーデターにより二人の王子ともに殺害され、欽明天皇の時代を迎えます。しかし、それも用明天皇の後、本当は推古ではなく崇峻天皇が立ち、そして蘇我馬子により殺害された。
そして、蘇我氏の王朝が開始されます。蘇我馬子の施策は大陸の政策を消化し日本ナイズさせたものでした。当時の日本にとっては、非常に革新的。これを蘇我の治世とすると、その治世を潰した中大兄皇子は悪者になります。それを避けるために聖徳太子が作り出されました。舒明天皇の事績は、百済大寺と百済宮の建立、それに、遣唐使の開始です。これらは、まさしく蘇我氏らしい施策ではないでしょうか。
また、持統天皇を正当化するためには女帝の前例も必要だった。そこで推古天皇が作り出されます。隋書倭国伝に記録されたアメノタリシヒコは、女帝ではなく男帝でした。こう考えていけば、辻褄が合うことが多いことも事実なのです。
天皇の父を持たない舒明天皇が生み出されたのも、天智天皇、そして天武天皇の系図を正統なものとするためと考えると非常に分かりやすいのです。天智天皇が定めた不改常典は現存しませんが、明記されていた内容はまさに自明です。「大王の位につくことができるのは大王の子供だけ」繰り返されるクーデター故に、作られた基本法であるのだと思います。しかし、この流れは天智の死後も続き壬申の乱を引き起こしました。
日本書紀では舒明天皇の死後4年後、可能性が無くなった中大兄皇子によって、当然のごとく乙巳(いっし)の変が起こり蘇我宗家が滅びます。実に、実に巧妙に作られた筋書きです。本来ならば、誰も疑うことのないストーリーなのですが、残酷にもキーパーソンであった聖徳太子の存在が否定されるに至り、作られた歴史は覆されてしまうことになりました。

舒明天皇の墓ではありえない
そうであるなら、今回発見された巨大な方墳は舒明天皇の墓ではありえません。なぜなら舒明天皇は存在しなかったのですから。蘇我氏の墓であったからこそ土砂に埋もれても修復されることは無かったのです。墓はきっと暴かれ何も残っていないかもしれません。しかし、舒明天皇の墓ではないのですから石棺や骨が出るかもしれません。発掘の報を楽しみに待ちたいと思います。

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縄文人物部氏の痕跡 天理市布留遺跡と西乗鞍古墳

西乗鞍古墳
2014年11月6日、天理市教育委員会により、天理市杣之内(そまのうち)町の西乗鞍(にしのりくら)古墳(全長約118メートル)の墳丘周辺で、南北の周濠(しゅうごう)と外堤が見つかったという発表がなされました。これまで、西側で深さ約1.3メートルの周濠と高さ約5メートルの外堤が確認されており、墳丘全体を取り囲んでいたのではないかと指摘されていたのですが、今回の報告でほぼ間違いなく、周濠に囲まれた非常に立派な前方後円墳であるということがわかったことになります。
奈良地図

奈良盆地に入ると、一番北に奈良市があります。その南になるのが天理市、その南になるのが桜井市です。桜井市は、皆様の好きな箸墓古墳や三輪山があるところ。桜井市の南が明日香村になります。御存知のように、平城京のある奈良市には元明天皇の時710年に遷都されます。それ以前は、持統天皇の藤原京ですから、現在の橿原市です。橿原市は桜井市の西です。その前は、飛鳥の中を点々としていました。つまり、天理市の西乗鞍古墳は、纒向遺跡の北側で平城京の南側にあることになります。飛鳥の時代には都は少しだけ南側にはずれますが、それでも飛鳥の都までは半日歩けば着ける距離です。言い方を変えるなら、卑弥呼の時代から約600年間の間、河内王朝の時代を除けば、政権中枢のごく近くに有った場所ということになります。ここに土地を持っていた豪族こそ、天皇家(大王家)特に、古王朝(纒向王朝)を真に助けた一族だったと言えると思います。
布留遺跡
杣之内(そまのうち)古墳群は、有名な山辺の道の西側に大きな古墳が並んでいます。この古墳群の北側が天理の町のはずれ、天理大学が広がる場所となります。そして、その北には、また石上・豊田古墳群が広がります。この古墳群は、5世紀から7世紀の古墳群です。そして、丁度この二つの古墳群に囲まれた地域が天理大学の有る場所ですが、ここにある遺跡を「布留遺跡」と呼んでいます。布留川が真ん中を流れ、その川の扇状地として広がる場所です。
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この遺跡は、とんでもなく古く、縄文時代の早期には既に多くの住居があったようで、旧石器時代の石器まで発掘されています。水が有るとともに、豊富な食料を提供してくれる土地であったのだろうと思われます。この南西にいくと、開けた平地となり、そこにあったのが弥生の大遺跡である唐古・鍵遺跡。南へいくと、纒向遺跡です。そう考えると、布留遺跡あたりが最初に縄文人が住み着いた場所で、その後、稲作文化が入るとともに平地へ展開していったのではないかという移り変わりの姿が見えてくるのです。
この地で発見されたものに、有名な「布留式土器」があります。土師器が使われ出して、まずは庄内式土器が使われるようになったと言われています。庄内式土器は、古墳が作られる以前の土器です。その後、布留式へと移っていきます。布留式は全国で見つかっています。これまで、古代史レポートでは、前方後円墳や三角縁神獣鏡の分布からヤマト政権の勢力域をお話していましたが、布留式土器の分布も、ヤマト政権の勢力域を示す重要な要素の一つなのです。
さて、ではこの布留遺跡のある場所に住んでいた一族とは誰だったのでしょうか。
石上神宮
答えは、物部氏です。
この布留遺跡の一番東の山の麓にあるのが、
石上神宮(いそのかみじんぐう)です。日本最古の神社のひとつとされています、物部氏の総氏神です。この神社は、大神神社と同じで拝殿はありますが、本殿はありませんでした。禁足地として立ち入ることができない地域とされていました。(今は作られています。)主祭神は、この禁足地に置かれていた布都御魂(ふつのみたま)と呼ばれる神剣です。(地名と同じ布留御魂が正式だという方もおられますが、布都と布留は使い分けておられるようですので、このレポートでは布都御魂とさせていただきます。)明治時代には禁足地の発掘が行われ、素鐶頭太刀(そかんとうのたち)が見つかっています。これが布都御魂(ふつのみたま)だと言われています。社伝によりますと、ご神体は、葦原中国の平定の際に使われた剣で、神武東征でも使われた剣とされています。それって、神話の世界じゃないの。との声が聞こえてきそうですが、それ程古い物だと理解してもらえればと思います。また、ここに収められている国宝の七支刀(しちしとう)があります。4世紀に百済が献上した物ではないかと言われている代物です。剣がご神体であるだけでなく、宝物としても保管されています。
ふつのみたま
多くの方が、石上神宮はヤマト政権の武器庫だったと習われたのではないかと思います。物部氏が管理を担当したために、ここに置かれたのかもしれませんが、武器に霊力をつけるためにここに保管し祈ったのではないかと考えます。
布留遺跡の存在は、物部氏が縄文人の一族であったこと、そして、天孫族と呼ばれる渡来人が日本に入ってくる以前にこの奈良の地に住み生活をしていた人々だったことを証明しています。布留遺跡が、何等時間の断絶も無く延々と続いている複合遺跡であることが何よりの証拠です。
その後、渡来人が大和に入って来たことは間違いありません。しかし、その時物部氏は争わず融合し暮らすようになったのだと考えます。神武東征が物語る神話では、物部氏の祖先は饒速日命(にぎはやひのみこと)となっており、饒速日命が恭順を示すことで神武天皇として即位することになっています。饒速日命は、神武天皇の前に天磐船(あめのいわふね)で大和入りをしたことになっています。しかし、物部氏は天磐船でやってきた渡来人ではないと考えます。神武東征が描いているのは、縄文人に対する弥生人の征圧です。
大和の地に入った渡来人が持ち込んだのは、間違いなく稲作です。その地の原人であった縄文人は狩猟を営みやすい山裾に住み、渡来人達は稲作を持込み平地を開拓して田畑としていったと考えられます。平地に住んだ弥生人の遺跡こそが、
唐古・鍵遺跡です。稲作が広がるにつれ、渡来系の人々は階層社会を生み出していくことになります。これが、纒向遺跡へと発展していき、ヤマト政権に形を変えていったに違いないのです。
古来より暮していた狩猟民族であった物部氏は、その技術を兵力として使うようになったことは明らかです。収穫後の米を守るために警備が必要となり、ヤマト政権は物部氏を警備の一族として活用するようになったのでしょう。これに伴い、ヤマト政権と物部氏は主従関係ができあがり、ヤマト政権を武力の面で助けるようになっていったのだと考えられます。
西山古墳
杣之内古墳群の中に「西山古墳」があります。183メートルの日本最大の前方後方墳です。築造されたのは、古墳時代前期。すなわち、箸墓古墳が作られた頃か、少し後です。私は、前方後方墳は武力の長(いわゆる、将軍)の墓であると言い続けていますが、この西山古墳こそが、それを裏付けていると考えているのです。前方後方墳を狗奴国の墓だと言っている方々は西山古墳の存在自体をどう説明されるのでしょうか。
西山古墳の後、杣之内古墳群には前方後方墳は作られず、前方後円墳へと姿を変えます。非常に早い時期に、武装集団を卒業し天皇家と同じ祭祀を司る一族へと変質していったのかもしれません。今回報告された西乗鞍古墳(前方後円墳)は、杣之内古墳群(4〜7世紀前半)で最大の古墳です。墳丘長は118メートル。出土した須恵器や円筒埴輪(はにわ)などから、築造時期については5世紀末頃(古墳時代中期末)とした。天皇陵には及ばないまでも、非常に立派な古墳を作り上げていました。
5世紀末と言えば、倭の五王「武」の時、雄略天皇の時代です。阿閇臣国見(あべのおみくにみ)は斎宮であった雄略の皇女を陥れようと嘘をつき、皇女は無実を訴え自殺します。嘘がばれたとき、助からないと考えた阿閇臣が逃げ込んだのは他でもない、石上神宮でした。西乗鞍古墳が築造された頃、物部氏は天皇に対抗できるだけの力を有していたに違いないのです。
物部氏が縄文人であったという説は大胆な説ではありますが、そう考えると納得のできる話は沢山あります。まず、天照大神を信奉していなかったこと。すなわち、太陽信仰を持っていたのではなく、全てに精霊が宿ると言う八百万の神の信仰を行っていました。蘇我氏が仏教を推し進める中、それを反対したのは精霊を祀る一族であったからです。これは、石上神宮が、鏡でなく剣をご神体としていることにも表れています。
物部氏は、ヤマト政権の重鎮であったことは間違いありませんが、例えば和珥氏、蘇我氏、大伴氏に比較して天皇家に出した妃の数は明らかに少ないことが上げられます。もちろん、大物主命や、事代主命を物部一族と考えると別ですが、例えそれを入れたとしても、神武(大物主)、綏靖(事代主)、安寧(事代主)、孝霊(磯城縣主)、孝元(磯城縣主)、開化(孝元と同じ)までで、全てが欠史八代の天皇です。
歴史上、天皇の妃に物部の名前で出てくるのはたった2名で、景行天皇の時の物部胆咋宿禰女である五十琴姫命、崇峻天皇の時の物部守屋の娘布都姫だけです。景行天皇はご存知のとおり、信じられない程多くの妃がいたことになっている一人ですし、崇峻天皇は蘇我氏に殺されてしまっており血が継承されたわけではありません。また、どちらの記録も、先代旧事本紀に記載されているだけの内容です。正直、これほどの家柄ながら天皇家の中で血が入っている人が誰もいないというのが現実です。すなわち、名目上大事にされたが、同じ一族になるような交わりがもたれなかった一族とも言えると考えます。ここにもまた、渡来人でないが故に血が混ざることが嫌われたのかもしれないと思わされる痕跡が残っているのです。

高句麗からやってきた鉱山技師達の跡 丹波市山田大山古墳群

「丹波」という名前を聞くと皆さんは何を連想されるでしょうか?「丹波王国?」と感じられた人はかなりの古代史通です。丹波王国は丹後半島を中心に発達したと考えられていますから、まさに日本海沿岸です。袁祁(おけ、顕宗天皇)、億計(おけ、仁賢天皇)が隠れていた場所か?と思われる人もいらっしゃるかもしれません。それも丹波国ですが、やはり丹波王国があったと思われる丹後半島の方で、その後播磨に移ったとされています。(私の著書「竹内街道物語」では、小説ですので播磨で見つかったことに成っています。)丹波王国は日本海側から播磨迄広がっていたとも考えられるのです。

山田大山古墳群

2014年8月7日、兵庫県教育委員会は、兵庫県丹波市春日町山田の山田大山古墳群で、県内最古級となる6世紀初め(古墳時代後期)の横穴式石室が見つかったと発表しました。また、渡来系の人が造ったとされる「T字形」をしており、この形としては県内5例目で、最も古いものだとも報告されました。
委託され調査したのは、県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部ですが、彼らからは「横穴式石室の県内導入期(6世紀前半)に、明確なT字形が見つかったのは初めて。当時の状況を知る上で貴重な資料」との談話が出されました。6月下旬からの発掘調査で、この石室がある5号墳を新たに発見したそうです。5号墳の墳丘は直径約8メートルで、石室には、棺がある玄室の入り口に長さ約1.3メートルの羨道と呼ばれる通路が付いているそうです。また、石室からは須恵器7点などが見つかったとのことです。被葬者は集落程度を治めていた渡来系の人ではないかという感想も話されました。

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この報道を見た時の私の感想は、「へーここでも。」というものでした。T字形である石室というのを、あちこちで見るにつけ、私には一つのつながりが見えてきました。
まずは、少し場所を説明したいと思います。丹波と言っても、京都府ではありません。京都府の丹後半島から南へ下ってくると、福知山市があります。この福知山市の南に接するのが丹波市。お隣は篠山市、南は西脇市です。
丹波市春日町の「春日」は、古代の郷名の「春部(かすかべ)郷」に由来するのだと言われています。小学校の名前は、春日部小学校と言い、「かすかべ」の音が残ります。この地を領有していたのは、春部氏で、春部氏は和珥氏(わにうじ)の一族であるとされています。祖先は、日本書紀では、神功皇后に仕えた将軍で武振熊命(たけふるくまのみこと)として登場します。三韓征伐の後に凱旋してきた神功皇后に対し、反乱を起こしたのが忍熊王です。そしてその忍熊王を破ったのが、武振熊命でした。彼は、和珥氏の祖であるとともに、春日氏、真野氏、壬生氏の祖であるとされています。武振熊命は、第5代の孝昭天皇に繋がります。ちなみに、孝昭天皇は欠史八代の一人です。

山尾幸久氏は、日本古代王権形成史論の中で、和珥氏とは2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団であったとしています。日本海側から、広まり瀬戸内海側の播磨地域へ、そして、これまでも度々ご紹介してきた南琵琶湖から山城の地へ、そして大和へと拡大していった一族であったようです。

5号墳
今回の古墳の所在地名である「春日町」の名前から、埋葬者は和珥氏(わにうじ)の一族であり、元々朝鮮系鍛冶集団であった一族なのだろうということが推測できるのです。そして、今回発見された「T字形」石室により、和珥氏一族であったこと、朝鮮系であったことなどが、裏付けをされたと言っても良いと思います。それ程、意義深い発見だったということです。
以前、人々の文化風習の中で、頑に守り続けられるものが埋葬方法であるということをお話しました。死後、人々は「鬼」になると考えられました。だからこそ、死んだ人は「鬼籍に入る」という言い方をします。中国から伝わった考え方ですが、古来よりそう考えられてきました。ちなみに、閻魔大王がもっている閻魔帳とは、鬼籍に入った人達の戸籍謄本のことです。
魏志倭人伝では卑弥呼は「鬼道」を操り、人々を惑わすと書かれていました。「鬼道」とは、死者の霊魂を操る術なのではないかと思います。今も、イタコという職業が残りますが、霊が乗り移ることだと考えています。神様への「祝詞(のりと)」の「のり」は乗り移るの「のり」なのではないかと考えたりもします。この辺は、もう少し勉強が必要な場所なのです。
少し、横道にそれましたが、従って、死者の弔い方を見ると、どこからやって来た人なのかという痕跡を見ることができるのです。だからこそ、古墳は大切なのです。そして、死者をくるんだ棺や、その棺を安置した石室は、そこに埋葬されている人がどのような部族の人であったかを証明してくれる物なのです。

横穴式石室自体が作られ始めたのは、古墳時代も後期になってからです。石室を作る文化は、高句麗から始まった埋葬方法です。この方法が、5世紀には百済に伝わったことが分かっています。伽耶地方にも、5世紀頃の墓に石室が見られています。
日本でも、福岡市の前方後円墳の老司古墳(ろうじこふん)には横穴式石室が確認されていますが、老司古墳は4世紀後半に作られたのではないかと言われています。多分、これが一番古いものだと思われます。5世紀の古墳になると、北九州には多く見られるようになり、6世紀になり全国的にひろまったようです。
T字型石室
今回の発見は、6世紀初め、それもT字型でした。つまり、羨道を通って石室に入ると、中に横に広い形の遺体を安置する玄室があったということになります。一般的には、玄室は縦に長いのです。この横に長い石室は、韓国でも京畿道、つまりソウルの南東で見られる石室の作り方なのです。漢江(ハンガン)流域にある梅竜里(メリョンリ)にあるヨンガンゴル古墳は、T字型の横穴式石室を持つことが知られています。
つまり、渡来系と言っても、百済や、新羅、伽耶諸国の人々ではなく、高句麗系の人々だということがわかるのです。
同じT字型の石室は、兵庫県内には4つ見つかっていたと思います。姫路に1つ、ご紹介した私の生まれた朝来市に1つ、神戸に1つ、そして、今回見つかった丹波市の隣、篠山市にある稲荷山古墳もT字型石室でした。日本では、約90基が確認されています。浜松市でも見つかっていますし、石川県の羽咋市でも見つかっています。長崎県、徳島県などでも見つかっています。一番多いのは和歌山県です。
同じ一族であるなら、ある地域に定住していいはずですが、なぜ、分散して日本中に散らばっているのでしょうか。それ程迄に、多くの人々が渡って来たということなのでしょうか。
好太王の碑文に残された、高句麗と倭の対決は4世紀末から5世紀の頭のことです。その後、高句麗は、平壌城に遷都し百済を追い込みます。5世紀末には、百済が新羅を手を結び、今度は高句麗を追い込みます。考えられるとすると、丁度その頃、漢江流域の梅竜里で古墳を作っていた一族が百済新羅に追い込まれ、倭へと移動したのではないでしょうか。逃げて移動したのか、はたまた、倭から呼ばれたのか。その辺りのこと迄はよくわかりません。
対馬の厳原町と言っても、対馬の市役所のある中心地ではなく、島の反対側の西側になりますが、佐須(さす)川という短い川がありますが、その流域に矢立山古墳があります。この古墳がT字型の石室を持っています。ここの古墳は、7世紀後半まで追葬という形で使用され続けたことがわかっています。刀装具などが見つかっており、住み着いた頃は有力な一族であったと思われますが、その後は発展することはなかったようです。近くに金田山という名前の付いた山が有ることから、鍛冶に適するような鉱石が出たのかなと推測しています。
浜松市北区にある恩塚山古墳は、静岡で唯一のT字型を持つ古墳です。そして、この地にあったのが、久根鉱山。この鉱山は、昭和45年に閉山になりましたが、それまでづっと続いてきました。近くには、黒姫鉱山、峰の沢鉱山など廃坑になってしまった鉱山跡が沢山残ります。
石川県羽咋市の柴垣ところ塚古墳もT字型を持つ古墳です。ここには、銅を産出した沢口鉱山や、金・銀を産出した富来鉱山がありました。現在は、どちらも閉山しています。
石川県では、他に能登島に蝦夷穴古墳があり、そこにもT字型をした石室のある古墳である須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)が存在します。ここには、燐鉱石が採掘されました。大きな鉱床が海中にあったため、鉱床を取り囲むように堰堤を築き堰堤内の海水をポンプで干拓した上で露天掘りをして掘り出していました。もちろん、古墳時代にはそういう採掘方法ではなかったと思います。
今回の丹波市では、氷上町三原という場所に黒見鉱山と呼ばれる鉱山がありました。銅、銀、硫化鉄を産したようで、近くの生野銀山の鉱床がつながっていたようです。明治頃迄は盛んに採掘されていました。だからこそ、ここに春日氏が住み着いたのではないかと考えるのです。
つまり、鉱物あるところに、必ずT字型古墳が存在しているのです。山尾幸久氏の推測は非常に正しかったことが、これらの一つ一つの発見によって証明されているのです。和珥氏というのは間違いなく、鉱物資源を追い求めた山岳民族だったのだと思います。そして、高句麗からやってきて、鉱物資源を探すために日本中に散らばったのではないかと考えるのです。
鉱山の近くにある、6世紀から7世紀の古墳にはT字型の石室が作られている可能性が非常に多いのです。また、逆にT字型の石室が見つかるのであれば、近くに鉱物資源が眠っているとも言えると思います。和珥氏の本貫は、奈良県と京都府の境。ここにもまた、鉱物が眠っていたのだと思われます。鉄や銅を供給できる一族は、農耕の生産性を上げるため、そして武力の強化に書かせない一族であったはずです。だからこそ、第5代の孝昭天皇に繋がる血筋を描いてもらえる程、重宝されたのだと思います。鉱物を見つける、もしくは、見分ける技術を持った一族の力を改めて感じた発見だと言えると思います。

文化の最先端を走っていた常世の国 茨城県瑞龍遺跡

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ランク
ブランド総合研究所という名前のマーケティング会社がやっている地域ブランド調査というものがあります。その地域の観光やイメージで判断して、魅力度ランキングなどというものを作っているのですが、目的はあくまで、「その結果を売る」と言うランキング商売です。ですから、そんな結果に乗せられてどうのこうのということ自体無意味なのですが、人口減少の日本においてはマイナスイメージが定着してしまうことは地域の衰退を意味してしまいます。ですから、注意することが必要なのですが、2013年、2014年と都道府県ランキングで2年連続最下位となったのが残念ながら茨城県でした。現代の茨城県は、誤ったイメージが先行してしまっている結果だと思いますが、古代における茨城県は驚くべき魅力的な地域であったのです。
常陸国
茨城県は、昔、常陸国(ひたちのくに)と言いました。この国府がおかれていたのが、現在の石岡市です。石岡市には、鹿の子遺跡と呼ばれる奈良時代末から平安時代前半にかけての遺跡があります。常磐自動車道を建設の時に発見された遺跡なのですが、建物跡は、溝で区画された中から、竪穴式住居後69軒、連房式竪穴遺構5棟、掘立柱建物跡31棟、工房跡19基などが発見されました。また、この調査で土器、墨書土器、鉄・銅製品、瓦、漆紙文書など多量の遺物が出土しました。これにより、「地下の正倉院」と呼ばれることになったほどです。特に漆紙文書は、内容も出挙帳、人口集計文書、兵士自備戎具の簡閲簿など全国で初めて発見されたもので注目を集めました。
この漆紙文書から逆算で推計すると、当時、常陸国には約22万人の人が住んでいたことなどが確認されています。当時の日本の人口が、約560万人と推計されていることから考えると、その4%が常陸国に住んでいたことになります。とてつもない密集地とは言いませんが、非常に多くの人が暮らしていた当時の日本の中でも有数の場所であったということがわかります。

人口密度

これは、奈良時代にはじまったことではないのです。弥生時代の発見された集落の数から推計された人口調査があるのですが、それによると、現在の茨城県は東国の中では飛び抜けて人口の多い地域になるのです。東国では茨城県から群馬県そして、長野へと人口集中地域がちらばります。
この人口推計の結果を裏付けているのではないかと考えられるのが、巨大な前方後円墳の存在です。東国で一番大きな古墳は、何度か説明させていただきました群馬県の太田天神山古墳です。そして、二番目に大きな古墳が、茨城県石岡市にある舟塚山古墳です。墳丘長が182メートルもある大古墳です。巨大な古墳を作る一族が住んでいたことの意味は、その土地が非常に豊かな土地であったこと。きっと、稲作もさかんであったのでしょうし、また、非常に大きな武力を持っていたのだと思います。
その武力は、何に活用されたのでしょうか。石岡市の「鹿の子遺跡」で注目したいのは、数々の工房跡です。その記録や、出土物から、ここが武器製造工場であったことがわかっています。奈良時代のことですから、当然、大和政権の配下にいるのですが、ここで武器を造って何をしていたのかと考えると、そこには蝦夷討伐しかありえないということがわかります。例えば、「潮来(いたこ)」という町があります。橋幸夫の歌で有名な街ですが、水郷の町としても有名です。しかし、潮来はどうやっても、「いたこ」とは読めません。ここは、昔「いたく」と言ったのだそうです。いたくは、「痛い」「処(く)」から来ているそうです。非常に多くの人々を殺した場所だそうで、ヤマト政権と地元の人との戦いが繰り広げられた場所であったそうです。この「いたく」はアイヌ語だとも言われています。

すなわち、地名に残るように常陸国は蝦夷討伐の最前線であった場所であり、その歴史が「鹿の子」での武力の製造地として役割を担い、その上で武力そのものの供給地へと変わっていったのだと理解することもできます。九州に防人が設置されましたが、その防人についたのは、東国の兵であったとされています。東国というと非常に広い範囲をさしますが、私は、この常陸国の人々だったのではないかと考えているのです。
「常陸」の名前の由来は、常陸国風土記には2つの説がかかれています。ひとつは、道路があちこち整備されており、それを直道(ひたみち)と言ったことから、名称にしたというのがひとつ。もうひとつの伝承が、ヤマトタケルが、蝦夷討伐をにやってきたとき、新治国(茨城県の西に有った国)の国造である比奈良珠命
(ひならすのみこと)に井戸を掘らせ、その水で手を洗った時に、衣の袖を「浸した」からだと言います。衣袖漬(ころもでひたち)の国とも呼ばれているとも書いています。どちらかというと、後の説明の方が好きですが、どう考えても両方ともこじつけだと思われます。
本当のところは、やっぱり、もっとも東に有り、日が昇る国であったから「日起ち」の国であったのだと思われます。それ以外には考えられません。日が昇る国と言って風土記に書いて報告できなかったところに、常陸のヤマト政権への遠慮が見えるような気がします。
注目したいのは、常陸国が「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで『常世の国』のようだ」と書かれていることです。常世の国とは、永久に変わらない神の領域のことです。現世に対する常世ですから、いわゆる理想郷、仏教用語では極楽ということになると思います。
弥生時代の遺跡分布でもわかるとおり、稲作が盛んで、食べる以上の収穫があったのではないかと考えられます。また、霞ヶ浦は、今は淡水化されてしまっていますが、昔は汽水湖であったことが記録されており、その昔は、太平洋につながる入り江だったのではないかと考えます。そうであるなら、最高の自然条件を持つ地域であったことは確かなのです。
このような豊かな土地を放っておくはずは無く、誰が最初に征服したのかが気になるところです。「国造本紀」によると、「建許侶命(たけころのみこと、多祁許呂命)」は、茨城国造の祖で、成務天皇の時に石城国造(いわき市)に任じられたと書かれています。また、初代の茨城国造は、第15代応神天皇の時代に天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫である「筑紫刀禰(つくしとね)」を国造に定めたことに始まるとされています。常陸国風土記では筑紫刀禰の子、8人のうち1人は筑波使主として茨城郡湯座連の初祖になったとも記録されています。少し、整理しますと、天津彦根命の子が建許侶命。その子が筑紫刀禰で、その子が筑波使主ということになるでしょうか。
これをどのように理解するかですが、建許侶命という有力な人物は蝦夷討伐に多大なる貢献をした人なのではないかと考えます。天津彦根命は、天照大神とスサノオ命のせ誓約によって生まれた子です。すなわち、天孫族と、現地の豪族の間に生まれた子ということでしょうか。筑紫刀禰という名前が、九州からやってきた人物を連想させることも確かです。「筑波山」という名も、筑紫と関係あるのではないかと思います。筑波山は、別名「紫峰」とも呼ばれます。筑紫の文字が隠れているのです。
九州から東征してきた天孫族が、ヤマトに都を築くとともに、日本列島全土を支配しようと東へ東へと進んだのではないでしょうか。その中の重鎮の一人、建許侶命は東国征伐を任されたのではないでしょうか。東北へ歩みを続ける建許侶命は、自分の子をその土地土地の国司として配置ししていったのではないかと思われます。その子供の一人、九州から呼ばれた、筑紫刀禰と呼ばれる人物は、この豊かな地を支配していた蝦夷を討伐し、全てを自分の傘下に組み入れることに成功したのかもしれません。

神武東征がヤマトへの征服で終わること無く、東へ東へと続けられた様子を残しているように思うのです。

ひるくながひ3
2014年2月19日、茨城県教育財団は非常に面白い報告をしました。常陸太田市瑞龍町の瑞龍遺跡の発掘調査で、平安時代の竪穴建物跡から、国字「ひるくながひ」がヘラで刻まれた土器の底面が出土したと言うのです。「ひるくながひ」の文字は「見」と、「見」をひっくり返した字を組み合わせた字。(国字は漢字にならって日本で作られた文字をいう。)同財団によると、この国字が刻まれた土器の出土は県内で初めてだそうです。
ひるくながひ2
「ひるくながひ」っていったい何?とお思いでしょうが、男女の交合を意味する字なのです。記事に有ります通り、平安時代の貴族の隠語なのです。もっと簡単に言いますと、「69」という隠語をご存知かと思いますが、昔、少なくとも平安時代頃は、数字の「6」のかわりに、「見」という字を用いていたということです。もちろん、そのような漢字は、漢字を造った国中国には存在せず、日本で造られた字なのです。だから「国字」という言い方をします。国字は沢山ありますが、日本人らしい遊び心をもった知恵が溢れていて、少し品がないですが、私はなかなか良いセンスだと思っているのです。
瑞龍遺跡で出土した土器には、ひるくながひの横に「女」という漢字が書かれていました。どういう世界なんだと思ってしまうのですが、これを土器に刻んだ人は、その土器を何に使おうとしていたのか、興味をそそられる出土品であることは確かです。
常陸太田市瑞龍町というのは、昔の久慈郡にあたり、常陸国の中においても決して開けた場所ではありませんでした。そのような中においても、国字を生み出すような、もしくは、伝えるような都人が住んでいたわけですから、非常に不思議な土地柄であることがお分かりいただけるのではないかと思います。
常世の国と表現される、食料の豊かな国。そして、そこには、弥生人が入ってくる以前から多くの縄文人が暮らしていた土地でした。渡来系のヤマトにより征服されてしまった後も、縄文人のもっていた狩猟技術が兵力として活用されたのだと思われます。また、それと同時に、日本の東の常世の国の中では、非常に高い文化を育む素地も存在していたようです。商売用に創り出されたランキングに踊らされること無く、古代より発展した茨城を誇りをもって愛していっていただければと思います。

後漢の王霊帝の末裔が支えた蘇我氏の世 新沢千塚古墳群

奈良県橿原市は、日本初代の天皇とされる神武天皇を祀る橿原神宮があります。
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その北には、神武天皇陵がありますが、その2つの間に分け入るかのように大和三山の一つの畝傍山(うねびやま)があります。古事記には、神武天皇が作った宮は「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と書かれていましたので、畝傍山の近くだろうということでいろいろ調査され、明治時代に今の橿原神宮のあった場所が選定されました。また、神武天皇の墓は、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は畝傍山の北方の白檮(かし)の尾の上に在る也、とのことですから、これまたいろいろと検討されて、ミサンザイと呼ばれていた墓が選定され整備されました。
さて、この畝傍山の西南の丘に、一辺が2キロメートル四方の古墳地帯があります。これが、「新沢千塚古墳群」です。「千塚」という名前が示す通り、そこは古くからの群集墳があった場所ですが、現在確認されているだけで、600基の古墳が存在します。ほとんどが、土饅頭と言われる直径10メートルから15メートルの円墳です。最初の古墳は、4世紀末に作られたようですが、多くが5世紀中旬から6世紀末までの間に築造されたものです。藤原京の造営時に、残念ながら一部削られて潰されてしまったものもあるとされています。私が知っている限りにおいて、「新沢千塚古墳群」は、日本で最大の群集墳だと思います。
その中の一つの126号墳は、5世紀後半の築造とされる一辺が20メートル前後の方墳です。ここからは、大量の装飾品以外に、日本史上初の火熨斗(ひのし)、つまり、アイロンが出土しました。また、西域から新羅経由でもたらされたと見られる希少なローマンガラス製品が出土しました。
そして、2014年7月。このローマンガラス製品を東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らが蛍光X線分析を行った結果、出土した円形切子(きりこ)ガラス括碗(くびれわん、口径約8センチ、高さ約7センチ)の化学組成は、ササン朝ペルシャ(226651年、現在のイラン・イラクなど)の王宮遺跡で見つかったガラス片(5〜7世紀)とほぼ同じことが判明しました。
ペルシャガラス

これにより、当初、新羅と非常に強い関係のある人間が埋葬されていたと考えられていましたが、そんなものではない。非常に由緒正しき権力者か、権力者の家系に育ったで有ろう人が埋葬されているということがわかったのです。
では、その埋葬者とは一体誰なのでしょうか。一辺が
20メートルの方墳は、天皇の墓ではありません。方墳をつくることができるだけの有力者であり、かつ、群集墳を構成するだけの一族であること。加えて、天皇に匹敵する程の宝物を手に入れられるような人でなければなりません。そのような人がいるのでしょうか。
この新沢千塚古墳群の東には、桝山古墳(ますやまこふん)があります。崇神天皇の子供である倭彦命(やまとひこのみこと)の墓とされています。日本書紀の中では、倭彦命が死んだ時、殉死する家臣を生き埋めにしたら、数日間土の中から泣き叫ぶ声がしたため、以降、殉死を禁じたとされる話がでてきます。宮内庁の管理になっていますが、殉死の跡があったのかどうか非常に興味のある墓ではあります。
しかし、この古墳は、5世紀前半に作られた、一辺が約90メートルの日本最大の方墳でした。「でした」という過去形なのは、幕末に陵墓の補修という名目で、この方墳を前方後円墳に無理矢理かえてしまったのです。ですから、航空写真でみると、奇麗な前方後円墳の形をしています。良かれと思って、やったのでしょうが、「一番やってはいけないことをやってしまった」ようです。嘆かわしい限りです。
第一、5世紀に築造された古墳であるなら、崇神天皇の時代からは大きくずれています。倭彦命が実在していたとしても、その墓ではないのです。やはり、ここも新沢千塚古墳群と同じ一族の人の墓であるのではないでしょうか。
この新沢千塚古墳群の近くには、継体天皇の子供の宣化天皇の墓があります。兄の安閑天皇の墓は、大阪の古市古墳群の中にあり非常に不思議な気がするのですが、宣化天皇の宮とされる檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)は明日香村ですから、さほど離れていませんので、ありうるかなとも考えます。もし、宣化天皇であるとするなら、この新沢千塚古墳群は、それを支えた大伴金村の一族の墓であった可能性は大いにあります。出土する豪華な副葬品からも、ここを大伴氏の群集墳と言われる方は多いようです。しかし、どうして大伴氏がササン朝ペルシャの碗を手にすることができたのでしょうか。それを説明する理屈はなかなかつけられなにのではないでしょうか。
大伴金村
そもそも、大伴金村は、欽明天皇によって、百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚させられたとき、摂津国の住吉郡に籠ってしまいます。また、住吉郡にある帝塚山古墳は、有名は大伴金村の墓とされています。大伴氏の本貫は、天香具山の北側で、三輪山の西の地域でした。大王家に接するように領地を持っていました。新沢千塚古墳群や、桝山古墳、宣化天皇陵の土地は、大伴氏ではなく蘇我氏の領地です。もし、その土地の支配者から考えるのであれば、大伴氏ではなく、蘇我氏であってしかるべきです。
ただ、蘇我氏の墳墓は現在の明日香村に展開しています。そこで考えられるのが、乙巳の変の時、蘇我邸を守っており最後迄蘇我氏のために戦おうとした東漢氏(やまとのあやうじ)です。日本書紀の応神天皇の段に、「倭漢直の祖の阿智使主(あちのおみ)、其の子の都加使主(つかのおみ)は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」と書かれています。そして、東漢氏は大和国高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだとされています。檜隈寺(ひのくまでら)跡からみると、北西の方角に3キロぐらい離れた場所に新沢千塚古墳群が存在します。東漢氏の子孫は、日本全国に広がりましたが、宗家はこの地で代々高市郡を治めていたと考えられます。自国から多くの人を呼び寄せ、ヤマト政権の基盤作りに多いに貢献した人々でありました。
続日本紀によりますと、東漢氏出身の下総守(しもうさのかみ)坂上苅田麻呂(さかのうえの かりたまろ)が言ったこととして、「阿知使主(あちのおみ)は後漢の皇帝であった霊帝の曾孫であり、帯方郡からやってきた」と記録されています。後漢は霊帝がなくなると、子供の劉弁へ、このとき異母弟の劉協は渤海王に封じられます。劉協は、この後直に「献帝(けんてい)」となり後漢の皇帝となりますが、群雄割拠の時代へと突入しご存知の方も多い「三国志」の世界が展開します。
霊帝の曾孫とは、誰の子供であったのかを指しているのかわかりませんが、帯方郡から来たというのであれば、劉協が渤海王の時の子供なのかもしれないと考えます。いずれにしろ、中国は動乱の時代に入りますので、日本に多くの人々が移って来る良いタイミングであったことも確かだと思います。私は、これは事実ではないのかとも感じるのです。百済や新羅、高句麗と言わず、帯方郡からやってきたというところにも、真実の香りがして仕方がないのです。阿知使主の直系の子孫に対し、天武天皇は「忌寸(いみき)」の姓を与えています。これは、八色の姓で上から四番目のものです。ここからは、想像の域を出ないのですが、続日本紀の記載から見るにつけ、私は、阿知使主は帯方郡の王家(王という言葉は適切ではないですが)であったのではないかと推測するものです。
つまり、「三国志」の英雄からはじかれた一族が、日本で蘇我氏を盛り立て新たな国づくりをしていたというのが事実なのではないかと考えるのです。そうであればこそ、その後無謀にも中国(隋)と対等につきあおうとした聖徳太子が作ったと言われる書状「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という言葉に、繋がっているのではないかと思うのです。中国の皇帝にへりくだる筋合いなどないのであるという根拠がここに存在しているのです。
私の整理としては桝山古墳は後漢の王霊帝の子孫である阿知使主(あちのおみ)、そしてササン朝ペルシャのガラスが見つかった
126号墳は、その子供であった都加使主(つかのおみ)なのではないかと推測するのです。東漢

日本人のルーツは南にあったのか 沖縄南城サキタリ洞

サキタリ洞
沖縄県立博物館・美術館は2月15日、南城市のサキタリ洞遺跡から貝で作られた鋭利な道具や装飾品、人骨など39点が出土したと発表しました。同じ地層にあった木炭を放射性炭素年代測定した結果、国内最古となる2万3千〜2万年前(後期旧石器時代)のものと判明したと報告がありました。
沖縄県の那覇市おもろまちにある沖縄県立博物館・美術館に行かれた方は目にされたと思いますが、沖縄には「港川人(みなとがわじん)」と呼ばれる古代人が住んでいたとされています。現在の八重瀬町字長毛の海岸は、昔、港川と呼ばれた場所で、
47年前、その石切り場で約17000年から8000年前頃の物と思われる人骨が発見されました。男性の身長は155センチ程度、女性の身長はそれより10センチ程度低かったと見られています。胴長短足の日本人体型をしていたようです。また、当然ながら、顎がしっかりしていて硬い物を食べていたと考えられています。

港川人

今回のニュースの2万3千年前とか、港川人の1万7千年前とか言われると、想像もつかない古さと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、最も古い人類はサヘラントロプスと呼ばれる700万年前にアフリカ中部、現在のチャド共和国に生息していた集団がいたようです。700万年ですからね、最早何がなんだか想像もつきませんが、チャドでは、「トゥーマイ」と呼ばれているのだそうです。現地語で「生命の希望」という意味なのだそうです。自分達が人類の祖であったかもしれないというのは、とてつもなく誇らしいことなのかもしれません。
人類が「ヒト」になるのは、それから長ーい長ーい年月が必要だったようです。人間は、学名が「ホモ・サピエンス」と言うようですが、この「ヒト」もやっぱりアフリカで発生したようです。但し、場所は東アフリカ、今のエチオピアだったようです。ちなみに、「ホモ・サピエンス」とは「知恵のある人」という意味なのだそうです。ホモ・サピエンスの出現は約16万年前です。「ホモ・サピエンス・イダルトゥ」と言うようですが、発見したのが日本人だと知って驚きました。「イダルトゥ」は、年長者という意味だそうです。16万年前の人だから年長者.......人類学というのは、奥深いものなのでしょうか、どうも、この言葉や数字の感覚についていけません。
この16万年前の「ホモ・サピエンス・イダルトゥ」が、10万年程前世界に飛び出していったと言われています。そして、世界中のあちらこちらで住み着いたとされているのです。この世界に散らばったホモ・サピエンスの一部が、港川人であったのであろうとされているのですが、その港川人が所謂日本の祖先である縄文人になったのかというのが、研究者達の大きな課題であるのです。

ワジャク人
港川人と骨格や顔面をよく調べてみると、下顎がかなりほっそりしていることが分かってきました。縄文人の特徴は、横に広い顔なのですが、港川人はどちらかというと、オーストラリアの先住民やニューギニアの集団に近いと言われるようになりました。ワジャク人(インドネシアジャワ島)にも近いと言われています。ただ、骨格だけでそのような結論に達してもいいのかという議論はあります。今は、港川人が縄文人になったのではない、もしくは、日本人の原型となったのではないという意見が大勢を占めています。三内丸山遺跡が示すように、日本の縄文人はもしかすると、北回りで降りて来たのかもしれません。常識的に考えたとして、寒い国から暖かい国へ降りていこうとはするでしょうが、暖かい国から寒い国へ向かおうとはしないのではないのでしょうか。もちろん、先史時代や縄文時代の気候が現在と同じであったとは思えませんし、縄文時代には海進が起こっていましたから今よりはもっともっと暖かかったのだということは分かります。
では、港川人はどうなったのでしょうか?全ての港川人が集団で南へと移動していったということではないと思います。やはり、その地に残った人々も入れば、北や南へ渡っていった人達もいたのではないでしょうか。遺伝により伝えられた骨格が、それぞれの人のルーツを物語っているのかもしれません。顔の広いあなたは、北からの縄文人かもしれません。目の細いあなたは朝鮮半島からかもしれません。そして、顎の細いあなたは、港川人であったのかもしれないのです。
今回見つかった、ガンガラーの谷というのは、鍾乳洞が崩れてできた場所だということです。石灰岩に守られていたせいで、2万年も前の骨が貝器が保存されていたのだと思われます。沖縄の他の場所や、本土においてももちろん、人は住み生活していたのでしょうが、2万年も前の物が保存されている可能性は極々わずかであるため、今後も発見される期待は出来ないと思います。
それだけに、港川人が縄文人の祖先であろうとなかろうと、2万年前の人類の暮らしが垣間見えるわけですから、慎重に発掘していってもらいたいと思うのです。同じ場所から、県内では最古となる9千年前の「押引文土器」が出土したという報道もありました。貝や石器のみでなく、土器等の加工物が人類の知恵の歩みを教えてくれるかもしれません。
港川人が縄文人でなかったとしても、2万年以上も前に、沖縄の地で住んでいた人々が存在し、その人々が貝を使って道具を作って暮らしていた。加えて、装飾品を作り、身に付けて飾っていたというのはまぎれも無い事実なわけです。ホモ・サピエンスが「知恵」を持っ者として、どうやって「知恵」を使っていったのかは非常に興味のある話です。自分達の中に港川人の血が受け継がれているのかどうかも大きな感心事なのかもしれませんが、血は受継がれていなくとも、知恵は受継がれているのかもしれないのです。発掘調査の結果が教えてくれる事は、まだまだ沢山あるのです。

邪馬台国畿内説を補強する発見 奈良唐古・鍵遺跡

奈良県田原本町教育委員会は11月15日、唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)で、弥生時代中期ごろ(紀元前2世紀ごろ)の北部九州の土器が見つかったと発表しました。弥生時代の北部九州の土器が見つかるのは近畿では初めてのことです。
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この破片は、集落の最も内側にある大環濠(幅10メートル)の下層から1988年に出土した土器を整理中に見つけたもののようです。甕(かめ)の口縁部の一部で、縦5・3センチ、横約13センチ、厚さ6〜8ミリ。元の大きさは口径36センチ、高さ40センチ強とみられています。
口縁部は赤い彩色が施され、外側に向けて直角に折り曲げられていました。この特徴が北部九州・筑前地域の「須玖(すぐ)式」土器と一致することから注目されました。筑前地域から運ばれてきた可能性が高く、同時に出土した地元産の土器による推定年代も北部九州の土器の年代と矛盾しなかったということです。
魏志倭人伝の中に出てくる「奴国」の地が福岡県春日市周辺に拡がる須玖岡本遺跡だと言われています。非常に高い工業力と進歩した文明は他の地域の追随を許さない地域でした。魏志倭人伝に書かれた戸数は、2万戸。九州の地域の中では、最も大きな国でした。
この国から、東に徒歩で進んだところに隣の不弥国がありました。そこから、海を渡って水行20日で投馬国、そして、水行10日陸行1月で邪馬台国に着くと書かれていました。未だに、邪馬台国九州説を非常に強く押される方がおられますが、残念ながら大和説は揺るがないと考えられます。そのひとつとして大きな意味をなすのが、今回の発見です。
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「須玖式土器」は、弥生時代中期の土器様式です。須玖岡本遺跡、そして、その南の地域から大量に出土しています。弥生時代の前期に比較すると、非常にシンプルになってきているところに特徴があります。弥生前期に櫛目で付けられた模様はなくなり、へらで研磨し「丹塗り」と言って、全体を赤く塗っています。非常に柔らかい丸みを帯びた曲線をしています。後期になると、ここに直線的な模様が描かれ装飾性を帯びてきます。
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唐古・鍵遺跡は、邪馬台国の時代には廃れ始めていた遺跡だと考えられます。弥生時代、今から2000年以上も前、奈良盆地の中で最大の集落として発達し、環濠が作られると共に、物見櫓も作られたと考えられます。出土した土器に、物見櫓の絵が描かれており、櫓の上の四隅の先端には、くるくると巻かれた「渦巻き」ような絵が描かれていました。実は、この絵と同じ形をした建物の絵が、中国は明の時代の墓に描かれていました。また、建物の柱の間隔が1階よりも、2階の方が狭いので、実現するためには木にホゾを空け組み合わせていく必要があり、このことから「実在したものではない」と言われる方も多いのですが、では、実在していなかったとするなら、どうやって知り得たのかという疑問もわきあがります。
この遺跡に住んでいた人々が中心となり、纏向遺跡の方に移動して、そこに祭祀を行う宮殿が作られ邪馬台国が作られたと考えられます。この内容は、「魏志倭人伝を探る」の中で詳細に紹介させていただいています。
唐古・鍵遺跡では、俗に言う弥生前期のような土器が出土していました。櫛目を使って、とにかく全体に柄を入れてみましたという感じの土器です。北九州に比較すると、大幅に遅れていたと言っても過言では無いと思います。数百年程度の遅れがあったのかもしれません。
また、この遺跡では、これまでに、吉備の土器は出土していましたが、北九州の土器は見つかっていませんでした。このため、唐古・鍵の文化圏は、吉備迄であり、北九州とは異なっていると考えられていました。これに対して、纏向遺跡では、尾張の物が多いですが、全国から集まった土器を見ることができていました。このことから、九州との交流も纏向に移った後に始まったと考えられていました。
一方で、私には唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の関連性が非常に疑問でした。唐古・鍵をたたんで、なぜ、山裾の纏向に移動する必要があったのか。伝染病でも発生したなら別ですが、唐古・鍵遺跡は非常に大きな遺跡を形成していたためです。私の考えは、伊都国の東遷があったというものです。どのように考えても、伊都国は倭の中心でした。「一大率」が置かれるような要地から、どうやって大和へ中心を移すことになったのかは、大きな疑問でした。その回答は、太陽信仰にあったのではないかと行き着きました。だからこそ、東へ、東へと向かい、瀬戸内海を終点迄進み、内陸に入って来たのだというのが、私の理解でした。「卑弥呼」という名前が示すとおり、「日巫女」であったからこそ、この地迄やって来たと考えていました。そこには、神武天皇の東征が残すような、伊都国による征圧があったのだろうというのが私の考えでした。
今回の発掘は、未だ、ひとつの破片が出ただけですから確定はできませんが、少なくとも奴国と、唐古・鍵遺跡とが卑弥呼以前から交流があったことを物語っています。これは、非常に画期的なことであり、そうであるなら、平和裏の内に「太陽信仰」が畿内の地域へと伝わってきたとも考えられます。征圧により唐古・鍵が、纏向に移ったのではなく、神を慕って纏向に人々が移住したのかもしれません。そして、唐古・鍵遺跡より、もっと東に、つまり、大和最大の環濠集落の太陽が昇る山裾に、祭祀の場と太陽の昇る神聖な山を定めた理由が納得できるからです。
文化は間違いなく西からやって来たのです。その時期は、私達がこれまで理解していたよりも、もっともっと早い時期であったのかもしれません。

日本の歴史が凝縮した「醉象」の発掘 奈良興福寺

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奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)は10月24日、奈良市登大路(のぼりおおじ)町の興福寺旧境内から、平安時代の将棋の駒「酔象(すいぞう)」が見つかったと発表しました。一緒に出土した木簡に「承徳二年」(1098年)とあり酔象では国内最古となるそうです。
発掘現場は奈良県庁東側の観光駐車場で、平安時代から興福寺の子院・観禅院があった場所。ごみを埋めたらしい井戸跡(深さ約3.7メートル)から、土器や瓦、木簡とともに将棋の駒4点が見つかったそうです。「酔象」「桂馬」「歩兵」各1点と不明の駒1点で、「酔象」は現代の将棋の駒に近い五角形でした。木製で一部破損していますが、縦25ミリ、横15ミリ、厚さ2ミリ、裏面に墨の跡はなかったと報道されています。消えてしまったのでしょうか。「桂馬」「歩兵」の裏面には「金」と書かれていたようです。
将棋というと、囲碁と並んで日本の伝統的知的ゲームと思われている方も多いと思います。日本の将棋人口は、少し前になりますが、約1000万人と言われていました。つまり、日本人の10人に一人が将棋をたしなむわけです。今、日本で一番強いのは誰かと言われると、羽生善治かもしれません。名人位を続けている森内俊之、竜王位を手放さない渡辺明も強いですね。日本には、現在7つのタイトルがあります。毎日新聞社と朝日新聞社が主催する名人戦が一番古いタイトルです。持ち時間9時間で2日間かけて戦う頭脳戦ですが、7番勝負ですから、体力も必要です。まぐれでタイトルをとることはありえないのです。優勝賞金が一番高額なのは読売新聞社が主催する竜王戦です。優勝賞金はなんと、4200万円。トップ棋士になると年間1億以上を稼ぐことも夢では有りません。4段以上になると日本将棋連盟の正会員になれますが、現在、日本には222人しかいません。
私達がやる将棋は、「本将棋」と呼ばれる物です。81マスの将棋盤を使い、お互い、役割(動き)の違う、金、銀、桂馬、香車、歩、それに飛車、角をもって相手の王朝を穫りにいきます。手持ちの駒20枚を使って、相手の王将を穫った方が勝ちになります。今では、もう指されることはないようですが、将棋には、本将棋以外にも、大将棋と言って、225マスの将棋盤と130枚の駒を使うもの、中将棋と言って144マスの将棋盤と92枚の駒を使うもの、また、小将棋と言って、将棋盤は本将棋と同じですが、駒を42枚使うものもあります。
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福井県では、小将棋の伝統が守られており、朝倉将棋と呼ばれて今でも大会が行われています。2枚多い駒は何かというと、「象」と書かれた「醉象」です。この「醉象」を、2列目の角や飛車の並びに、王の真ん前に置いて始めます。「すいぞう」と言うのですが、王が全方向に1つづつ動けるのに対して、真後ろだけは動けず、他は全方向に1つづつ動くことができます。相手の陣地に入ると、成り駒になりますが、「醉象」が成るのは「太子」なのです。太子に成ると、王と同じ動きができるようになります。この、「醉象」が今回、興福寺の旧境内で発掘されたものなのです。
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私は、この将棋というゲーム程、日本の文化、そして考え方を表している物はないと思っているのです。将棋に似たゲームで、西洋にはチェスがあります。最も大きな違いは何かというと、将棋は穫った駒を持ち駒として、自分の兵として使うことができるところです。それ以外は、ほとんど同じです。チェスも将棋も、インドのチャトランガと言われるゲームが元になっているからとされています。チャトランガは、チャトル・アンガで、チャトルが4、アンガがパーツです。駒は、象、馬、車、歩兵の4つで戦います。
日本でいつ本将棋が始まったのか、また、いつ伝わったのかは謎であり、まだ、解明されていません。ただ、
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チャトランガもチェスと同じで、持ち駒を使うということがありませんから、直接チャトランガが伝わったという物ではないようです。中国には、「象棋」と書いてシャンチーという将棋に似たゲームがあります。違うのは、駒が丸いのと、線の交点に駒を並べます。駒には、歩の代わりに卒が居て、一つ飛ばしに前列に並びます。飛車、角の位置に砲があります。王ではなく、将軍の将であり、その隣に、金の代わりに士がいます。これはこれで、非常にわかりやすい。王様が戦の最前線に出て戦うという発想はなく、戦う王様は将軍なのです。
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砲の前に、卒が居ないのも、なるほどと思わせます。韓国にいくと、この中国の象棋と全く同じ物が有り、これを「将棋」と書いてチャンギと発音します。王の代わりに、楚と漢があります。先手が楚を持ち、後手が漢です。なんとなく、三国志っぽいですよね。そして、楚と漢は最初宮廷の中にいるのです。中国のシャンチーが、相手陣地で成り駒に成るのに対して、韓国は成りません。どこ迄行っても、兵は強くならないのです。
こうやって見てみると、日本の将棋は実によくできています。これは、日本の文化そのものが反映されたためではないかと考えるのです。王を中心として、戦場で戦うのは多分古墳時代から、王が力で勝ち取るようになったからではないかと思うのです。また、一旦征服してしまえば、その兵は自分の兵として使えるという世界に類を見ない発想は、まさしく、日本の歴史そのものではないかと思うのです。継体天皇がヤマト政権を征服した時、当時の大臣、大連はそのまま残し、体制を引き継いで政権をとりました。そして、彼らに命じて磐井の乱の鎮圧を行ったのです。
私は、今回見つかった「醉象」という駒に日本らしさが凝縮しているような気がします。「象」という駒ですから、日本に存在したとは思えませんが、まず、王の前に居て王を守ります。後ろに下がれないのは、王に取って代わることが許されない証です。相手陣地に攻め込むと、太子となります。太子となると、王とまったく同じ動きができるようになります。これぞ、日本の制度そのものではないでしょうか。天智天皇は、皇太子のまま百済と戦いを行い、近江に都を移しました。太子は、敵陣に入ってこそ王と同じ力を発揮できるようになるのです。
今回の「醉象」は、中将棋の駒だと考えられているようです。私は、小将棋ではないかと考えています。日本の将棋が確立したのは、なんとなく、天智天皇や天武天皇の頃なのではないのかなと想像するのですが、これは、多分違います。一般に言われている通り、平安時代、実際の戦がなくなって世の中が安定し、日本独自の文化が花咲いた頃作られた物と考える方が、確かに説得力があります。しかし、その駒の持つ意味は、それ以前の日本の歴史が反映されているに違いないと思うのです。

甘樫丘で新たに建物跡発見、蘇我氏の汚名は晴れたのか

大化改新
中学校だったと思いますが、歴史の時間に聖徳太子を勉強した後、大化改新を学びました。崇峻天皇を殺害するなど、治世を我が物として好き放題したのが蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子。その入鹿を滅ぼし、治世の改革を断行したのが天智天皇になった中大兄皇子と中臣鎌足だったと教わりました。当時はテレビで水戸黄門が人気だったのですが、蘇我蝦夷・入鹿と悪代官のイメージが被さり、「悪いやっちゃなー」と感じたのを、未だに覚えています。それから、40年。私の中では、今や全く違ったイメージを持つ、日本の基礎を築くのに貢献した最大級の功労者の一人と写るようになりました。逆に、中大兄皇子と中臣鎌足を非常に愚かな指導者達と受け取るようになってしまっています。これはもしかすると、間違った理解なのかもしれませんが。
激動の7世紀。アジアが覇権争いで大きく揺れ動いた中、日本において仏教の導入により大きな思想の転換をはかり、シャーマニズムとの決別を行うとともに、隋や唐との国交を回復し、現代で言うところの文明開化を成し遂げた一族が蘇我氏であると言えると思います。何と言っても、中国と対等外交を行おうとしたその姿勢は、アジアの他国に真似のできなかった偉業なのです。また、大王家の安定のために、屯倉と呼ばれる全国に散らばった直営地を経営したのも蘇我氏です。渡来人の知識を重んじ、東漢氏などとともに、国家経営を支えた人物であったというのが私の評価です。
今回、新しく見つかった建物跡は明日香村の甘樫丘です。奈良文化財研究所の報告によれば、奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、新たに7世紀半ばごろの2棟の建物跡が見つかったと発表されました。2棟の建物跡が確認されたのは、邸宅跡の中心部とみられる場所の北約100m地点。1棟は東西4.5m、南北3.9m。柱穴の配列から高床式の倉庫跡などとみられるとのことです。別の1棟の規模は東西5.4m、南北3m。建物の性格は不明とされています。敷地内では、谷を最大で5.5m以上も埋め立てる大規模な造成工事がされており、飛鳥盆地を見下ろす丘を広範囲に邸宅として利用していた可能性も考えられるとコメントされています。
645年6月12日蘇我入鹿は、中大兄皇子に斬り殺されます。翌13日、父であった蝦夷は自分の館に火を放ち自殺したと日本書紀に書かれていました。この場所が甘樫丘です。蝦夷の家は丘の上、入鹿の家は谷にあったとも記載されています。この甘樫丘は、長い時間をかけて調査が続けられています。1994年度の発掘調査では、7世紀中葉の焼土層が確認され、大量の土器片や焼けた壁土、炭化した木材などがみつかっていました。これにより、日本書紀の記述が正しかったことが判明したのです。今回の発見は、蘇我氏の館の規模が、単なる邸宅レベルではなく、広範囲に渡る物だったということが判明したことに意味があります。

明日香村位置
ただ、私は、この邸宅と言われた場所が、単純な邸宅ではなかったのではないかと思っています。推古天皇の時、まさしく賢臣蘇我馬子の代ですが、この時、宮は小墾田宮(おはりだのみや)でした。この後、舒明天皇になると宮は飛鳥岡本宮に、皇極天皇は飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)へと移ります。小墾田宮は、甘樫丘の北西になり、岡本宮や板蓋宮は甘樫丘の南東になります。明日香村は南と東が山です。敵が攻めて来るとすると、北側か西側からです。甘樫丘があることで、岡本宮や板蓋宮は敵に宮をさらさずに済むのです。つまり、甘樫丘は砦の役割を果たすことができるのです。丘の上に住むというのは、見晴らしは良いですが、水の問題、また、宮へ出仕するのに厳しい上り下りが待っています。決して便利な場所ではないのです。そのような場所に、好き放題できる権力者が住むでしょうか。蘇我蝦夷の邸宅があった甘樫丘というのは、敵に対して宮を守るための見張り台であり、防御用の砦であったのではないかと考えるのです。馬子や蝦夷は、そこまで考えて、宮を設計し防備を固めたのではないでしょうか。今回は高床式の倉庫がひとつあったようですが、武器庫がなにかであったというような遺物が出てこないかと期待して見ているのです。明日香村
蘇我氏の大きな謎の一つは、蘇我稲目の代にいきなり、国政に登場してくることです。教科書には、蘇我氏の系図として、遡っていくと入鹿ー蝦夷ー馬子ー稲目ー高麗ー韓子ー満智ー石川宿禰ー武内宿禰と書かれています。高麗、韓子などがあり渡来人ではないのかと言う説もあります。「家諜」という家の系図にあたる書が、逸文という形で残っている物があります。「紀氏」の系図は、蘇我氏と同じ武内宿禰を祖とすることから、蘇我氏の系図も書かれています。その中には「馬背宿禰亦曰高麗」と書かれています。つまり、稲目のお父さんの本当の名前は馬背であり、高麗とも呼ばれたということなのです。「馬子」の名前はお爺さん譲りなのかと理解したのですが、どうして「高麗」と呼ばれたかを調べると、お母さんが高麗毘賣(こまひめ)なんです。高句麗の姫を妻に迎えていたんです。だからこそ、力が持て7世紀に国政の中心に躍り出ることができたのです。
今回の発掘結果だけでは、まだまだ不十分ではありますが、蘇我氏が汚名を晴らす日が来るのも、そう遠くないと思われるのです。

名門一族巨勢氏の墓発見 奈良県市尾天満古墳

奈良県高取町教育委員会は、同町市尾で7世紀前半の古墳が見つかったと発表しました。直径約24メートルの円墳ですが、墳丘は一部が壊されており、直径は一回り大きい約30メートルだった可能性があるそうです。高さは、5メートル。横穴式石室の一部も出土しました。内部から出土した須恵器の甕(かめ)から築造時期が特定されました。
高取町は、奈良県高市郡の中にある町です。現在、高市郡は、この高取町と明日香村の一町一村しかありませんが、橿原市(耳成を除く)や、大和高田市の一部も昔は高市郡でした。平安時代に作られた辞書である、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には、高市郡にあった郷の名前が記載されています。巨勢(こせ)、波多、久米等、古代史の中で活躍する一族の名前が見て取れます。延喜式に掲載されている神社の数は、なんと54座。高市郡は、古代日本を動かした有力豪族達が集っていた重要な場所だったのです。
今回見つかった古墳が見つかった一帯は、一帯は飛鳥時代、蘇我氏らと並ぶ権勢を誇り、大化改新で活躍した大豪族・巨勢(こせ)氏の本拠地とされています。このことから、町教委は被葬者が一族の有力者だった可能性が高いと見ています。巨勢氏と言っても、ピンとこない方も多いかもしれません。奈良の三輪山大神神社の宮司は、代々巨勢氏であったと思います。継体天皇の擁立、乙巳の変、壬申の乱等、古代史の大事件には必ず登場する一族です。日本の創始以来続く、名門豪族の一つなのです。

巨勢氏
今回の古墳が発見された市尾には、他にも大きな古墳が存在します。墳長63メートルの前方後円墳である市尾墓山古墳は、2段築成ながら、周濠を持ち、葺き石がなされ、円筒埴輪が並べられた非常に立派な古墳です。築造は6世紀前半ではないかとされています。その横には、全長44メートルの宮塚古墳があります。こちらも前方後円墳で、6世紀の前半だとされています。
継体天皇の擁立にあたっては、大伴金村が中心となり、群臣を説得したようになっていますが、日本書紀は、この時の大連を大伴金村、大臣を巨勢男人(おひと)だったと記載しています。男人は、この後、磐井の乱でも活躍し、安閑天皇の妃に娘を入れます。巨勢氏全盛と言っても良い頃であり、市尾墓山古墳は、巨勢男人の墓なのかもしれません。
今回ニュースとなったのは、7世紀前半の古墳が見つかったためです。7世紀になると、大きな古墳は作られなくなり、群集墳に移行していくのですが、30メートルの円墳であるとするならば、7世紀としては非常に立派な古墳となります。乙巳の変の時、活躍した人物に巨勢徳多(とこた)がいます。蘇我入鹿が暗殺された後、蘇我氏はその復讐のために立ち上がろうとします。中心は、東漢氏でした。その東漢氏をなだめて兵を引かせたのが、巨勢徳多でした。中大兄皇子側に真っ先についた蘇我氏側の重臣です。彼は、左大臣に迄昇進しました。7世紀前半であるなら、時期的には微妙ですが、巨勢徳多の父である巨勢胡人の可能性は充分にあります。
巨勢氏の本拠地が、あたかも高取町市尾あたりのように報道されていますが、少し南側、御所市古瀬が本貫だという説があります。市尾と御所市古瀬は、それ程離れていません。近鉄吉野線でいうと、市尾駅の次が葛駅、その次が吉野口駅です。吉野口は御所市古瀬にあたります。市尾の北側を通って、近鉄や
JR沿いに曽我川(蘇我氏の名前が残っています。)というのが流れます。巨勢というのは許勢とも書きますが、「こせ」は小瀬なんだろうと考えます。地形から来ている名前だと思います。小さな瀬、つまり川があったんだろうと思いますが、この名前から推測すると、市尾ではなく、吉野口駅あたりから奥に入った場所であったのではないかと考えます。但し、名前に「巨勢」という力のある字を充てた頃には、市尾周辺の開けた場所迄を領地にしていたことは充分可能性がある話です。
水泥古墳
この、御所市古瀬には、水泥(みどろ)古墳という古墳があります。北古墳と南古墳の2つがあるのですが、「今木の双墓」とも言われている古墳です。日本書紀皇極天皇の条に、「国中の民や、百八十部曲を徴発して、前もって双墓を今来(いまき)に造り、そのひとつを大陵とよんで大臣の墓とし、もうひとつを小陵とよんで入鹿臣の墓とした。」と記載されています。即ち、蘇我蝦夷・入鹿の墓だと、昔から信じ込まれてきました。だからこそ「今木の双墓」と呼ばれて来たのです。石棺の縄掛け部分に、蓮の花の模様があり、仏教を推進した蘇我氏ならではの石棺だと騒ぎが大きくなりました。しかしながら、築造時期はどう見ても、6世紀後半から7世紀初頭の築造とされています。蘇我蝦夷が亡くなるのは、乙巳の変ですから645年です。年代が合いません。私は、この古墳は、巨勢氏の墓なのではないかと考えていました。「今木の双墓」は別の場所にあると思います。
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高市郡の盟主は、確かに、巨勢氏もそうですが、何と言っても、蘇我氏であったことも確かです。この高市郡の中での序列は、そのまま国勢に反映されていったようです。記紀によれば、武内宿禰(たけうちのすくね)という人物が国の大きな出来事があると、度々登場してきます。記述を信じるなら、約300年ぐらいの間、国政を支えた賢臣であったことになります。昔はお金(札)の顔であり、皆が知っていましたが、最近は福沢諭吉や、野口秀雄に取って代わられてしまいました。この武内宿禰の子供が、波多八代宿禰、巨勢小柄宿禰、蘇我石川宿禰、平群木菟宿禰、紀角宿禰、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰です。波多、巨勢、蘇我、久米が勢揃いしている上に、高市郡の隣の葛城、その北の平群、そして南の紀の国の名前が入ります。実の子であったかどうかは別にして、武内宿禰がどの地域を基盤にした人物であったのか、そして、本当の親族ではないにしても豪族達の繋がりを読み取ることができるのです。

謎多き地から出土した謎を呼ぶ短剣 滋賀県上御殿遺跡

継体天皇誕生
現代に繋がる天皇の祖は、継体天皇であるという人は沢山います。新王朝と言われる継体王朝は、武烈天皇崩御の後、「日嗣なし」と言われる状況の中、大伴金村が中心となり「近淡海国」から応神天皇5世の袁本杼命(をほどのみこと)を迎えて、仁賢天皇の娘で武烈天皇の妹である手白髪命を娶らせて天皇としたと、古事記は記紀は記しています。「万世一系」を貫く天皇家の最大の危機であったことは間違いなく、慎重な上にも慎重に系譜を伝える日本書紀迄もが応神天皇から5代目という皇族とは思われない一族からの天皇を伝えています。この継体天皇の出身地だろうと言われている「近淡海国」の中の「三尾之別業」と言われた場所が、現在の滋賀県高島市安曇川町三尾里です。北に2km程行くと高台に、宮内庁が彦主人王の墓と言う「田中王塚古墳」があります。また南に500m程行くと鴨川を越えたところに、鴨稲荷山古墳があります。この古墳からは、金銅製の冠や沓が出土しました。両方の古墳とも、継体天皇の父彦主人王の墓の可能性があると言われている古墳です。
今回、8月9日の新聞紙面を賑わした「国内初の双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣の鋳型が見つかった」と報道された場所が、この滋賀県高島市安曇川町三尾里にある上御殿遺跡です。上御殿遺跡は、古墳時代から室町時代迄続く複合遺跡で、渡来系の人々が持ち込んだとされる建築様式の建物跡が見つかり注目されていた場所でした。この近辺には、上御殿のみでなく、御殿川、下御殿などの名前が残るだけに、継体天皇が生まれた場所であるのかもしれないと考えられてきました。
一方、今回の発掘報道は、それとは別のところに関心が高まりました。その土地から、弥生以前のものと思われる青銅器の鋳型が発掘されたためです。しかも、その鋳型が、これまで見たことも無いような短剣の形をしていたために大きな騒動となりました。形を検証する中で、「オルドス青銅器」の中で似たような形があったということになったものですから、話はどんどん膨らんでいったのだと推測します。
オルドス青銅器分布
オルドス青銅器は、内モンゴル地方、分かりやすく言えばモンゴル国の周囲で、万里の長城が築かれた北側に紀元前6世紀から紀元前1世紀にかけて、非常に進んだ青銅器文化が発達しました。この中で作られた短剣に似ているとなったことから、「春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の中国北方騎馬民族に使われていた」という報道につながりました。ご存知のように、青銅器は朝鮮半島を経由して弥生時代に日本に伝えられたと考えられていました。それが、銅剣であり銅矛、銅鐸等、日本仕様に変化していきました。古代、文化は全て朝鮮半島経由で伝えられたというのが定説になっていました。
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しかし、近年、稲作の伝播を考えた時、これは朝鮮半島から伝えられたのではなく、中国、それも揚子江の下流域から直接伝わったのではないかと考えられるようになりました。稲だけが伝えられても、稲作はできないことから、そこには民族の移動があったと考えられているのです。その上に、春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の青銅器が伝来していたとなったために、朝鮮半島を経由して文化が伝わる以前に、日本は中国から文化が伝わっていた、それも、近江であることから鯖街道を通って伝えられたのではないのか、と繋がり、「中国大陸から日本海を渡って上陸した新ルートの可能性」という非常に仰々しい報道に結びついていきました。
北九州地方からはじまり、文化は西から東へと伝わったというのが歴史の常識です。しかし、それでは説明しきれない文化の流れがあり、畿内で発達した文化は北九州から伝わったのではなく、若狭や敦賀から琵琶湖を経由して南下していたのではないかと考える人が多くなってきました。だからこそ、今回の「オルドス式短剣」が、とんでもなく注目を浴びることになりました。しかし、報道を見て首をかしげた方も多々いらっしゃったのではないかと思います。滋賀県文化財保護協会の発表した年代は、「弥生中期から古墳前期(紀元前350年~紀元300年)」なんと、650年も幅を持たせた内容でした。はっきり言うと、「出土はしたが、全くわからない」というのが現実なのです。
問題を複雑にさせているのが、この地の地名です。継体天皇と関係があるという「三尾野」の前に、「安曇川町」という名前が付いています。安曇川は琵琶湖に注ぐ川としては2番目に大きい川なのですが、この大きな川に「安曇」の名前が付きました。安曇一族は、海人であったというのが定説ですが、その出身は「呉」の王族であったと言われています。中国が春秋戦国時代に勃興した「呉」国は、「越」国に滅ぼされます。その時、海を渡って日本に定住したのが「安曇」氏だと言われています。この説は、全く信憑性がないわけではありません。中国の正史の一つ梁書倭国伝は、「倭者自云太伯之後」で始まります。これは、「倭の者は、自分達は太伯の後裔であると言う」です。太伯は「呉」の祖とされる人物です。同様の文章は魏略の逸文にも残るとされています。つまり、古来より、それは、奴国が金印を授かった時から、その人を中国の都に連れて行った人の中に、実際、「呉」の末裔がいたのではないかと考えられるのです。彼らは、中国に渡る海の道を知っていた、そして、交易を続けていたのではないかと推測されるのです。安曇一族であったかどうかはわかりませんが、「呉」の後裔であるなら稲作を伝えたことも説明ができます。
オルドス青銅器か
では、継体天皇は安曇一族だったのかという話に迄飛躍していきそうですが、残念ながら、そうはならないと思います。それは、出土した鋳型自体が「オルドス式短剣」ではないためです。オルドス青銅器文化は、非常に芸術的な発展を遂げた文化です。短剣と一言で言いますが、その柄には様々な動物が細工されているのが普通です。また、柄の部分は、実用性を勘案し通常は握りやすい工夫がされています。今回の鋳型で作られる短剣には、それらのものが何もありません。「双環柄頭」すなわち、柄の先端に丸い輪が二つついているのですが、輪がついているだけで、それが装飾を施した結果ではないのです。握りの部分も単純な文様が刻まれているだけ、発掘される「オルドス」のものと較べると、大人と子供の差が存在します。見る限りにおいて、単純な短剣の鋳型にすぎません。弥生の末期、ここに住み着いた人々が、青銅器を加工する技術を持っていたことは注目すべき内容ですが、それ以上膨らませる内容ではないのです。
ただ、この高島市には、この安曇川の扇状地の端に、熊野本遺跡が存在します。3世紀初頭に作られた前方後方墳や円墳もさることながら、非常に大量の鉄が出土しました。鉄器の工房跡ではないかと見られている遺跡が存在します。間違いなく、渡来人が住み鉄生産を伝え、供給地として発達した場所であったと考えられます。だからこそ、福井の三尾氏が別邸を構えて管理しようとしたのではないでしょうか。そして、その地を傘下にいれていた三尾氏に支えられた継体天皇が存在したのだと思われます。



国内最古の分銅が出土、賢者の石を計ったのか? 大阪府亀井遺跡

亀井遺跡
昔、大阪平野には河内湖と呼ばれる巨大な湖がありました。この河内湖南岸域の沖積低地に立地する集落遺跡が、亀井遺跡です。多くの集落の遺跡では、時期を追って土地利用のあり方が変化していくために、集落は移動していくのですが、この亀井遺跡は同じ場所で集落が固定化されているとともに、居住域が小さくなっていっていると発表されています。その場所が重要な役割を担うとともに、単なる農耕地ではなく、何らかの食料がとれる貴重な場所であったことがわかります。
今回67日の奈良文化財研究所の発表は、亀井遺跡の場所的な優位性ではなく、その文明・文化の高さを証明したものとして注目されるものでした。1981年に大阪府八尾市にある亀井遺跡で出土した弥生時代前期末(約2400年前)の石製品11点が、天秤用の分銅とみられるとの発表がなされたのです。
分銅は長さ3〜8センチ、直径1〜
4.5センチの円柱形で、全体が丁寧に磨かれていました。最軽量は8.7グラム、ほかは、17.6グラム、34.5グラム等、最軽量の2、4、8、16倍となる値に近い。最重量は、32倍の280グラムだったと報告されました。
何よりも驚かされたのが、量を計るための単位を持っていたということです。紀元前200年頃、大国中国の秦の始皇帝は天下統一に際して、文字と計測単位の統一を計りました。「度量衡」という言葉を聞かれたことがあるかもしれませんが、長さの度、容積の量、重さの衡を総称した言葉です。秦の始皇帝の頃の一単位の重さは、16.14グラムでした。そして、今回の発見により分かった単位は、その約半分ぐらいの大きさが一単位です。弥生時代前期末というと、この秦の始皇帝よりも古い、中国では周の時代の話になります。
この時代に、10グラムに満たない重さの調合を行う必要があった、もしくは取引があったというのは驚異的な発見であると思うのです。それも、2の累乗の重りを作っていたことにも文化の高さが伺えます。最重量のものが32倍、つまり2の5乗であるわけですから、0乗の1と合わせて6個の分銅ということになります。そして、この6個で1から32迄の全ての数が計れることになります。11点あったということは、多分、2セットあったのではないかと思います。2セットあれば、計る方に重りを足すことができますから、足し算で重さを計るだけでなく、引き算で重さも計ることができるわけです。


では、このような細かで精密な単位を用いて、当時の人々は何を計ったのだろうかという大きな謎にぶち当たります。当時、すでに貴金属にあたる物が取引されたのでしょうか。それとも、合金等を作る技術があったのでしょうか。謎は深まるばかりです。
賢者の石
報道によれば、一緒に見つかった石杵(いしぎね)に赤色顔料「水銀朱」が付着していたことから、顔料の重さを量ったのではないかというコメントが書かれていました。魏志倭人伝の記述の中に、倭には「丹有」と記述されていました。古来「丹(に)」と呼ばれたのは、硫化水銀の鉱物です。よく、古墳の内壁や石棺に赤色の彩色がされていますが、この赤色を生む原料が、「水銀朱」と呼ばれる鉱物です。三重県、奈良県、徳島県、それに九州で産出されました。丹生と呼ばれた地名や鉱山跡が残っています。江戸時代になるとベンガラ(酸化鉄)が用いられるようにもなりましたが、朱色と言えば、古代より水銀朱が使われてきました。非常に貴重な顔料であったので、確かに「丹」を計って物々交換に使ったのかもしれません。
ヨーロッパでは、この水銀朱を賢者の石と呼びました。錬金術師達が、金を生み出すための触媒として使ったことは非常に有名です。彼らは、赤い色ではなく、水銀のほうに関心があったようです。日本では、この水銀を不老長寿の薬であると考えていました。これは中国から伝わった考えだと思いますが、道教では、不老不死の薬を飲んで仙人になるという考えから、この薬を作る方法を煉丹術と呼んでいました。水銀がなぜ、不老不死の薬と思われたのかわかりませんが、常温で凝固しない金属ですから、その不思議さに魅かれていったのかもしれません。もしくは、赤い色が血の色に通じると考えたのかもしれません。

弥生時代、それも前期の頃の人々にとって、不老不死という発想や水銀朱から水銀を抽出するというような実験が行われたとは思えません。しかし、朱を塗ることで、悪魔を避けることができる、もしくは、災いから免れることができるという発想は、祭祀に使われた痕跡や顔面に塗られたペイントなどからも知ることができます。言うなれば、不老不死とは言わない迄も、魔除けの貴重な薬であったわけです。こう考えてくると、あくまで貴重な丹の分量を計ることを主目的として分銅が使われたのかもしれませんが、現代の我々が発想もできないような、なんらかの薬品の調合に使われていたのかもしれないのです。

国内最古の木製仮面が出土 奈良県大福遺跡

纒向遺跡は、ご存知の通り大和政権誕生の地です。魏志倭人伝に記された邪馬台国のあった場所としての有力候補地でもあります。そして、私もその考えに賛同している一人です。
大福遺跡
この纒向遺跡の南側には、この遺跡に併設するように、東西約700m、南北約400mの範囲で弥生時代前期から後期にかけての複合遺跡である「芝遺跡」が存在します。この芝遺跡からは、弥生時代中期の土器棺墓・方形周溝墓・竪穴住居・井堰・木製農具・鋤・鍬・銅鐸形土製品などが出土しています。そして、芝遺跡の南西側に存在しているのが、大福遺跡です。
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大福遺跡は、この西側にあった橿原市の坪井遺跡とも接していて、近年はひとつの同じ遺跡であると見なされ坪井・大福遺跡と呼ばれています。こちらの遺跡からは、環濠と思われる大溝や土坑、井戸、墓地群などの遺構が確認されており、弥生時代前期末の木棺墓も人骨が入った形で見つかりました。大量に出土した土器の中には、人物などが描かれた線刻画土器、有柄式銅剣(ゆうへいしきどうけん)を模してつくられた木製の柄頭(つかがしら)など非常に貴重な遺物も見つかっています。弊社の出版物の中では、纒向遺跡は奈良県田原本町にある唐古・鍵遺跡からの発展形であると記載していますが、坪井・大福遺跡も唐古・鍵遺跡に負けないだけの規模を誇る遺跡であり、纒向遺跡が多くの集落の中に生まれた祭祀都市であったことを物語るものでもあります。
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5月30日に発表された桜井市纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第1号」に掲載された内容によると、桜井市の大福遺跡の溝から出土した木製品は、弥生時代終わり〜古墳時代初期(2世紀後半頃)の木製仮面の一部である可能性が高いと報告されています。木製品はコウヤマキ製で、長さ23.4センチ、最大幅7センチ、厚さ約5ミリ。大福遺跡の北東約3キロの纒向遺跡では、古墳時代初期(3世紀前半)の木製仮面が出土していますが、大福遺跡の物はそれをさかのぼる国内最古例となります。
今回報告された最古の木製仮面は、5年前に出土したものです。纒向遺跡で見つかっている木製仮面は、3世紀前半の土器とともに土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.5cmのものでした。アカガシ製の広鍬を転用して作られたもので、口は鍬の柄孔をそのまま利用しており、両目部分は新たに穿孔し、高く削り残した鼻には鼻孔の表現もありました。 また、眉毛は線刻によって表現されていました。一方の、今回の仮面は、それに較べると非常にシンプルなものです。表面に人工的な色もなければ、線刻模様もありません。ただ、目の部分に穴があけられており、顔に装着するためのひもを通す穴とみられる穴が耳に近い箇所に空けられているというものです。これを木製仮面であると言い切る迄にはかなり悩み抜かれたのではないかと推測します。
仮面という表現を使っていますが、「お面」とは違うのでしょうか。

西洋では、仮面というとマスクのことだと思いますが、あくまで顔を隠し正体がばれないようにするものとして使われてきました。仮面舞踏会などは、典型的な物かと思います。一方、日本のお面は意味合いが全く異なります。日本の伝統芸能の「能」には、能面と呼ばれる物があります。鬼神、老人、男、女それに霊があり、それを示すために能面をつけます。テレビや舞台でよく目にするものでは、おかめや、ひょっとこのお面があります。これらも、それぞれの性格・人格を示すのに使われるのだと思います。天狗の面や、鬼の面も、それをかぶることで、天狗や鬼に扮するためのものです。日本を含むアジアにおいて面はその物になるための道具であるのです。これは、西洋の仮面と大きく異なった文化のひとつなのではないでしょうか。面をつけることで、いつしか、踊り手もしくは役者に、その神であり霊が乗り移ってくると信じられていたのではないでしょうか。
日本において、古来より使われて来た面とは、顔を隠す「仮面」ではなかったのだと思います。そのものになりきるための「お面」であったのではないでしょうか。そして、太古の時代には御霊を呼び込むための道具であったと思うのです。

八角形の世界 牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳
奈良県明日香村教育委員会は、牽牛子塚古墳について、発掘調査報告書を発表・発売しました。牽牛子塚古墳は、対辺の長さは約22メートル、高さは4・5メートル以上で、7世紀の天皇の墓に特徴的な八角形をした八角墳です。この報告書によれば、築造には延べ1万7000人、完成までには約2万人の労働者が携わったと推計されています。この数字を用いて、マスコミ各社は、「被葬者の権威を示すもので、斉明天皇の墓説を補強するものとなった。」とし、牽牛子塚古墳こそが、斉明天皇の墓であると報道しています。
斉明天皇は、中大兄皇子の母親。645年の乙巳の変の時の天皇(この時は、皇極天皇)であり、その後、孝徳天皇が死ぬと重祚し、斉明天皇となった人です。中大兄皇子を太子のままにし、嫌な役回りを一身に引き受けていたような親ばか振りを見せていたかと思えば、土木工事がなによりも好きで、659年には石と水の都を造り「狂心の渠(たぶれごころのみぞ )」と揶揄された人でもあります。土木工事好きの彼女だからこそ、延べ2万人を用いて自分の墓を築いたのではないかと言われる人もあるのかもしれませんが、日本書紀には、まったく逆の記載が残っています。天智天皇は斉明天皇の命令を守り「大工事はしなかった」と記載されているのです。この記載が事実であるとするなら、大工事を必要とした牽牛子塚古墳は、斉明天皇の墓ではないということになります。現在、宮内庁は奈良県高市郡にある車木ケンノウ古墳が、斉明天皇の墓であると治定しています。車木ケンノウ古墳は、45mの円墳です。
野口王墓古墳
今回の報告書の中で、八角墳について論じる一環として、野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)の全体構造について宮内庁がまとめた論文が掲載されました。宮内庁が管理する天皇陵の調査記録を外部の報告書に掲載するのは初めてのことであり、こちらもニュースになりました。
しかし、この宮内庁の報告で、野口王墓が八角墳であることがはっきりしました。これで、斉明天皇から見れば、夫の舒明天皇が八角墳、その子の中大兄皇子こと天智天皇が八角墳、弟の大海人皇子こと天武天皇が八角墳ということがわかりました。ここで、斉明天皇だけが家族の中でたったひとり円墳というのは、どう考えてもおかしい話です。牽牛子塚古墳はこの意味からも斉明天皇の墓であると思われます。中大兄皇子の妹であった間人皇女(はしひとのすめらみこ)は、斉明天皇に合葬されたとされています。牽牛子塚古墳も最初は、円墳とされていました。車木ケンノウ古墳をきちんと調べて、牽牛子塚古墳と比較することも大切なのではないかと思います。
この八角墳は、舒明天皇が最初です。
どうして、八角墳になったかを考えてみたいと思います。八角墳は道教思想に基づく物であるというのが、定説のようになっています。推古天皇が崩御した後、天皇の後継者は田村皇子(舒明天皇)と山背大兄皇子(聖徳太子の子)でした。時の治世者であった蘇我蝦夷は群臣にはかって田村皇子を選択します。蘇我蝦夷は、敢えて蘇我氏の血の入らない舒明天皇を選択したのです。ご存知のように、蘇我氏と聖徳太子は仏教推進派でした。用明天皇以降、国は仏教に邁進します。遣隋使、遣唐使が送られ、盛んに中国の知識や文化が取り入れられたのもこの頃です。中国においては、隋の時代には、仏教と道教は儒教とともに重んじられました。仏、道、儒の順でしたが、唐の高祖になると道教を国教とし仏教には否定的になりました。これは、仏教が民衆から財貨を取り上げる量が多く、世の腐敗に繋がると判断されたからだとされています。この考え方は、則天武后迄続きました。先進の中国が仏教を排し道教へと傾いていること。加えて、舒明天皇にとっては、対抗する山背大兄皇子に抗するためにも、仏教でなく道教を重んじる必要があったのではないかと推測します。蘇我=仏教という世の認識があったでしょうから、舒明天皇のみでなく、蘇我を敵視した中大兄皇子が道教思想を取り入れようとしたことは非常に理解できることなのです。つまり、八角墳の登場には、反蘇我の影がちらついているのです。
道教の影響により八角墳になったと考えると、反蘇我氏のようなものとの関連が見えてきます。しかし、本当に道教の影響からなのでしょうか。
占いの中に、八卦(はっけ)があります。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の八卦です。相撲では、行司が「はっけよい」と言います。これは、「八卦よい」です。この八卦は、易経(えききょう)の中で定義されています。易経は、儒教の教典のひとつで、古代中国の哲学書と言いますか、森羅万象を全て包含する広大な思想体系を表した本です。易経があって、儒教や道教がそれを取り込んでいったと考える方が正しいのかもしれません。
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八卦では、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の8つに、方位や自然、家族や、体の部位を当てはめて運勢や吉凶を占います。その中でも方位学は、大きく展開していきます。東西南北にその中間を足して、八方位として捉えられるようになります。八極や、八柱という概念が生まれ、近代のことだとは思いますが宇宙観迄も巻き込んでいくようになります。八が全ての方向を示すという考え方は、古代から延々とあったのだろうと思われます。日本書紀ができたのは、天武、持統の頃ですから、そこには、墓に使われた八が多用されます。大八島国であった日本、八咫烏に導かれた神武天皇、三種の神器は、八咫鏡、八十握剣、八坂瓊勾玉。全部八です。八幡神、八百万の神々、八は宇宙を支配する数字なのかもしれません。現在でも、天皇が即位される時入られる高御座や、皇后が入られる御帳台は、どちらも八角形なのです。
この八角形の中心に眠ることは、宇宙の中心に眠ることにつながるのです。

白村江の戦いに翻弄された一族 大野城市王城山遺跡

新羅土器
5月15日福岡県大野城市教育委員会の発表によれば、東部の乙金山の麓にある王城山遺跡で6世紀から7世紀中頃の新羅土器2点が新たに出土しました。これで、同遺跡の新羅土器の出土は、全部で8点となり、日本最多となりました。発掘されたのは、高さ17センチ程の壷の半分と、液体を入れる容器の瓶(へい)の破片になります。壷には、新羅土器の特徴であるスタンプ円文がと、ヘラで書いた三角形文を見ることができます。この土器は、7世紀前半から中頃のものとされています。発掘場所は、円墳の入り口で、打ち割ったような状態で発見されたことから、墓前祭祀で使われたのではないかと見られています。
大野城市
大野城市と言えば、「水城(みずき)」のあるところです。ご存知のように、日本は663年に白村江の戦いで、百済を救うため唐・新羅の連合軍と戦いますが大敗します。中大兄皇子は、唐・新羅が日本に攻め込んでくることを想定して、664年に水城を、そして665年には大野城を、この大野城市に築城します。そして、667年には都を近江大津宮に移しています。
この後、668年には唐は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を全て征服します。冊封(さくほう;宗主国と朝貢国との関係、主従関係)を受け従った新羅は、その後、唐に反旗を翻したり冊封を願い出たりしながらも、675年には朝鮮半島を統一する大国となっていきます。
今回発掘された新羅土器は7世紀中旬のもの。
白村江の戦いが行われる前のものです。もちろん、土器はその後何年も使われることも考えられますので、一概に白村江の戦いの前であるとは決めつけられませんが、同様に出土した土器類が全て6世紀から7世紀中旬迄のものですので、作られて時間をおかずに祭祀に使われたのではないかと考えられます。
土器が作られた頃の新羅は、百済に攻め込まれ唐への援助を求めるもののなかなか協力が得られず、四苦八苦していました。新羅が力をもってくるのは、金春秋(後の、武烈王)による活躍迄待たなければなりません。
土器が出土した王城山遺跡の近くには、窯が発掘されています。須恵器を焼いた跡が見つかっており、この地域に多くの新羅からの渡来者が住んでいたことがわかります。日本書紀には、649年朝貢の使者として金多遂が新羅からやってきたことが記されています。反新羅の機運は高まるものの、国内では打倒新羅のような行動は、まだ、起きていなかったことがわかります。
しかし、白村江の戦いを境にして、彼らの立場はどのように変わったのでしょうか。安定した生活をおくることができたのか、または、敵国奴として迫害にあったのか、はたまた、戦勝国側として大きな権力を得ていったのか。場所が水城や大野城の近くだっただけに、残された彼らがたどったのは、過酷な
運命であったのではないかと思われるのです。
大野城市の乙金地区の遺跡発掘調査では、古墳時代の集落跡は発見されていますが、奈良時代には小規模な集落跡となり、平安時代の跡はよくわかっていないとのことでした。12世紀末以降になると、水田跡や再び集落跡が出現しています。ぽっかりあいた期間、乙金に住んでいた新羅の人々は全国に活躍の地を求めて散らばっていったのでしょうか。もしかすると、白村江の戦いの直後に滅ぼされてしまったのかもしれません。
ただ、7世紀末から8世紀になると日本中のあちこちで、新羅人が活躍し、日本の建国に大きく寄与していくことは事実です。ここで出土した同じ図柄の土器が、どこかで出土しないかを楽しみにしていたいと思います。

古代の道はロマンに続く 「中ツ道」遺構の発掘

中ツ道の発掘
奈良県立橿原考古学研究所が5月11日に発表した内容によると、奈良盆地を南北に縦断する古代の幹線道路の一つ、中ツ道(なかつみち)の路面跡が、藤原京跡(同県橿原市)の北端から北約10キロの地点の奈良県天理市喜殿町で見つかりました。新たに見つかったのは道路部分の東端一部(南北約15メートル、最大幅3メートル)で、それに沿うように側溝(幅約2・2メートル、深さ約70センチ)も確認されました。合わせて、等間隔にあいた8つの穴も確認されましたが、用途はわかっていません。
奈良盆地には、南北に古代の幹道として、「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の3本の直線道路が4里の間隔(約2.1キロ)で並行し、藤原京と平城京を結んでいたとされています。これを大和三道と言います。東西には、摂津や河内からつづいてくる道として、一番北側には平城京へそのまま入っていく暗越の道。真ん中には龍田道が法隆寺の近くに入り、その後東西にまっすぐになる北の横大路、一番南には、大津道や丹比道(竹内街道)と繋がる横大路と呼ばれた道が整備されていたとされています。
南北の3本の道のうち、最も活用されたと思われるのが、一番西側にある「下ツ道」です。ちょうど奈良盆地の中央を南北に走る道であり、平城京の中では朱雀大路となる、まさしく本道とも言える道です。道路の規模は34.5メートル、路面幅は18メートルあったといわれる道で非常に大きな道路でした。
一方、最も東側にあった「上ツ道」は、箸墓古墳や西山古墳を結ぶ道です。江戸時代には、上街道と呼ばれていました。この道も長く使われた道です。今も伊勢街道とも呼ばれて活用されています。この道の東にも、有名な山辺の道と言われる道が今でも残っています。ハイキングコースですので、歩かれた方も多いと思いますが、所謂山道のひとつです。

大和三道
今回、遺構の発見された「中ツ道」は、幻の道と言われていました。ほとんど形跡が残らず、「存在したと言われている」という表現で示されてきました。平城京は、東に小さな出っ張りを持ち東大寺迄続いていたのですが、その出っ張りの西側の端が、この「中ツ道」になります。そこから、真っすぐに南に下る道です。西名阪自動車道の東側を通り、今回の発掘があった天理市喜殿町を県道51号線と隣り合うように走っていたと思われます。近鉄前栽駅の東を抜け、村屋神社、竹田神社を抜けて、大和三山のひとつ香具山にぶつかります。しかし、ここでで終わるのではなく、蘇我氏の甘樫丘の東を抜け、飛鳥寺の真横を通り抜け、飛鳥板蓋宮の西側を抜け橘寺の近く、即ち、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)迄続きます。飛鳥板蓋宮は皇極天皇が営んだ皇居で、乙巳の変の舞台です。飛鳥浄御原宮は、天武天皇と持統天皇が営んだ宮です。つまり、この中ツ道は、平城京が築かれる前迄は、最も重要な道であったのです。
この道がいつ頃作られたかは定かでは有りません。孝徳天皇の時、653年に「処処の大道を脩治る」と日本書紀に書かれていますから、この時作られたのかもしれませんが、孝徳天皇は難波に目が向いていましたから、大和三道が作られたどうかはわかりません。
672年の壬申の乱の時、大和の戦場として「将軍(吹負(ふけい))が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々やってきた。そこで、軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配備した。」という記述があります。従って、この時には、できていたと考えることができます。もしかすると、天智天皇に呼ばれた大海人皇子が、近江の宮を脱出し、吉野に逃げ込む時もこの道を使ったのかもしれません。
そして、持統天皇が遷都したのが、日本史上最初で最大の条坊制(じょうぼうせい)を布いた都城である、藤原京です。横大路、下ツ道、中ツ道の間に藤原宮を置き、25平方キロメートルを越える巨大な宮でした。(平安京や、平城京より大きいものでした。)この藤原京に遷都したのが、694年。そして、平城京への遷都が710年。つまり、藤原京迄に整備された、大和三道を真っすぐ平城京へと延ばすという大工事が行われたのです。
藤原京に作られた建物は、未だ新しいままでしたので、建物を解体し、瓦や柱等の木材、それに敷石も平城京に運び再利用されることになりました。この時、中ツ道は、当初16mであった道幅が約28m (一説によると23m)まで拡張されることになりました。
今回発掘された報告によると、路面は、粘土を平らにならした上に砂混じりの土(厚さ約10センチ)を突き固めていたとされています。平城京の築造にあたっては、運搬用の台車が、何度も何度も、まさしく砂煙を巻き上げて、藤原京から資材を運んでいったことと思われます。通行量も、想像を絶するような量であったのではないでしょうか。この結果、藤原京側には、ほとんど建物が残らなくなったのではないかと思われます。
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平城京の築造が終わると、この道はそれ程活用されなくなっていきます。但し、平安時代に吉野詣で流行すると再び活気を取り戻します。藤原道長もこの道を経て吉野へ向かったと御堂関白記には記されています。
平安時代の末には、水害によりこの道は埋没してしまったと言われています。1000年以上の歴史を経て見つかった、古代の歴史を刻んだ道の発掘は、太古の昔に起こった出来事を彷彿させ、大いなるロマンを感じさせてくれるのです。

木簡が語る天智天皇への和珥氏の画策 近江国府跡

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4月24日に大津市教育委員会は、近江国府跡の菅池遺跡で見つかった木片2本が、近江国府が作られたとされる8世紀よりも前の、7世紀中頃のものである可能性が高いと発表しました。木片を奈良文化財研究所(奈良市)に依頼し赤外線撮影で調査したところ、大きい方には両面に「命」「何」「久」などの文字が確認でき、文意は不明だが何らかの文書に用いた可能性が高く、小さい方は、片面に「皮」のほか、「乎」や「尓」と見える文字があり、万葉仮名で歌を記した可能性があるとのことです。非常に文化的に進んだ建物もしくは、組織がこの地に存在したことを示す物ですが、記載された文章はともかく、近江地方の謎の解明に一石を投じていることは確かです。
近江国府がおかれたのは、8世紀中頃のこととされています。794年には、平安京ができます。平安京に隣接する近江国府の位置づけは益々重要度を増したことと思われます。北陸や東国から都を入る関所のような役目をもったのかもしれません。歴代の近江守の中に藤原仲麻呂の名前があります。それだけでも、存在の重要性は窺い知れます。条理の跡や、倉庫群の跡、廃寺の跡等、次々と出てくる遺跡の数々は、その大きさや立派さにも驚かされます。8町四方あったとか、9町四方あったなどと(一町は109m)発掘の度に国府の大きさも大きくなっていっています。
この、木片が7世紀中頃というのは、かなりドキドキする年代なのです。
663年白村江の戦いに負けた天智天皇が、667年に遷都したのが近江大津宮でした。こうるさい者共が多かった飛鳥を離れたいという意識があったのかもしれませんが、どう考えても一番大きな要因は、唐が瀬戸内海から攻めて来ても、琵琶湖を使って逃げることができるという交通の要地であったためだと思われます。頭の中では、琵琶湖の北岸から敦賀を抜け、日本海を北に登ろうと考えたのかもしれません。しかしながら、なぜに大津でなければならなかったのかという本当の理由は、全くわかっていないのです。木片の年代が、この近江大津宮の設置よりも前であることから、この地を治めていた有力氏族が天智天皇を助け、自らの地に都を持ってくるようにしむけたとも考えられるからです。
近江の南を治めていたのは誰だったのでしょうか。
琵琶湖遺跡
琵琶湖の西側と言えば、新王朝を作った人と言われている継体天皇の出生地になります。継体天皇は、近江国高嶋郡三尾野で誕生したとされています。現在の高島市があるところですが、この地には、この継体天皇の出自の謎を解く非常に興味深い古墳が発掘されています。鴨稲荷山古墳です。全長45mの前方後円墳ですが、副葬品たるや金銅冠、沓(くつ)、魚佩(ぎょはい)、金製耳飾、鏡、玉類、環頭大刀(かんとうたち)、鹿装大刀(ろくそうたち)、刀子(とうす)、鉄斧(てっぷ)というとてつもなく豪華な品々が現れました。解くに金銅冠が新羅のものであったことから、新羅の王族がここに住んでいたと考えられるようになっています。この古墳の築造年代が6世紀の前半です。継体天皇と重なるだけに継体天皇の親族なのかという期待が膨らみます。継体天皇は、記紀に応神天皇の5世であると書かれていました。応神天皇も新羅の血をひくものではないかというのは、「隠された系図」に書かせていただいた通りです。敦賀から、余呉湖、そして琵琶湖西岸は新羅系の渡来人の住み着いた場所であったのかもしれません。
一方、東側は天智天皇の時に、さかんに百済からの移民を住まわせた場所です。日本書紀にも、神崎郡や蒲生郡の文字が見えます。琵琶湖を挟んで東西向き合うように百済と新羅があったのでしょうか。
一方、近江大津宮や近江国府の置かれた南側には、和珥氏(わにうじ)の痕跡が色濃く残ります。全長72mの前方後円墳である和爾大塚山古墳は、4世紀末には作られていたようです。この古墳の近くの出身者が、遣隋使の小野妹子です。この小野妹子も和珥氏になります。また、応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母は、和珥氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘でした。
やはり、木片の持ち主は和珥氏だったのでしょうか。そして和珥氏の画策により、近江大津宮ができたのでしょうか。

遂に出た!古墳時代の馬具一式出土 福岡県古賀市 

 福岡県古賀市教育委員会は、4月18日古賀市の谷山北地区遺跡で、6世紀末〜7世紀初頭に築造されたと考えられている船原(ふなばる)古墳(直径20メートルの円墳)に隣接した穴から、同じ時期の金銅製の馬具が一式そろって見つかったと報告しました。馬具埋納坑は7世紀初頭前後に築かれた船原古墳の5メートル隣に存在し、長さ5.2メートル、幅0.8メートル、深さ0.7メートルほどの長細い穴であり、その中に馬具がまとめて納められていた。
 鉄製の壺鐙(つぼあぶみ)や輪鐙(わあぶみ)、金銅張りの鞍(くら)、ひもを連結する辻金具(つじかなぐ)や引手(ひって)、雲珠(うず)や杏葉(ぎょうよう)、鈴などの装飾品のほか、馬用の冑(かぶと)や甲(よろい)ではないかと見られる鉄製品も多数ある。鞍や鐙の数から2セット以上の可能性もあるということです。

 新聞等の各種報道では、藤の木古墳をはじめとしてほとんど例のない出土であり、国宝にならぶ優品だとか、葬送儀礼を解明する手がかりとなるなどの報道がされていますが、その程度の発見ではないのです。この発見には古代の秘密が隠されているのかもしれません。

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 まず、発掘された品々は次々と解析されており、その豪華さならびに意匠の複雑さは他に類を見ない程際立ったものとなっています。左の写真は出土した馬具の中で九州歴史資料館が復元した馬の背につける歩揺付き金具と呼ばれる物です。また、金銅装心葉形杏葉は、馬の尻や胸に回したベルトから吊り下げる飾りですが、CTスキャンの結果そこには鳳凰が描かれていました。奈良にある藤の木古墳は、6世紀後半に作られた全長50メートルの円墳です。ここからも同様に金銅製の多くの馬具が出土しましたが、その鞍金具に彫り込まれていた鳳凰は、船原古墳でみつかった杏葉の鳳凰と同じ人のデザインであると考えられる程非常によく似ています。藤の木古墳で見つかった鞍の形は、中国北部の遊牧騎馬民族の物だと言われています。また、藤の木古墳の被葬者は、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宣化天皇の皇子の宅部皇子ではないかと推測されています。
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 問題は、6世紀の末から7世紀にかけて、この船原古墳に埋葬された人物が、どうして天皇家の皇子と同じ程度か、それ以上の副葬品を持つことができたのかということです。船原古墳は、船原古墳群とされており、現存する3号墳以外に2基の古墳があったとされています。単独の古墳でないことから、それ程古くはなくともこの地域を収めていた有力な豪族の墓であったと言うことができます。
 そもそも、古賀市とはどのような役割を持つまちであったのでしょうか。著書「魏志倭人伝を探る」の中で、この古賀市から宗像市一帯を『不弥国』として紹介させていただきました。そこで紹介させていただいているのは、古河市青柳町の弥生遺跡である
馬渡・束ヶ浦遺跡です。今回の対象古墳のある谷山は、そこから数百mの地点になります。
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 そして、不弥国は多岐の港であるとともに、これより西の勢力から北九州にできた伊都国連合を守る防波堤の役割をした地であったと紹介させていただきました。加えて、この地は朝鮮半島の伽羅(金官伽耶、狗邪韓国)からの武力をもった一族の侵略により勢力を奪われ、海上交通の支配権を奪われ、伊都国連合は大和から切り離されて衰退したことを説明させていただきました。また、その一族が宗像一族としてこの地に根付いたこともです。
 壱岐の島の都の、原の辻遺跡が忽然と消え、その後に中心地を移し非常に多くの古墳が作られたのも、同じ部族による侵略であったとも説明させていただいています。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を証明する資料が、壱岐と宗像には残っていると説明させていただきました。
 この地は古来より、航路や港を支配してきただけに、朝鮮半島と密接な関係にあり重要な外交の地でもあったのです。

 時は、6世紀末。朝鮮半島が大きく揺れ動いた時期でもあります。日本書紀には「任那日本府」が新羅によって滅ぼされたとの記述がありあす。任那日本府の存在は議論のあるところですが、そこで起こっていたのは新羅の伸張と、倭(ヤマト政権)の影響力の追い出しでした。私は、少なくとも新羅により朝鮮半島との外交権が奪われたのだと考えています。
 推古天皇の時代となり、蘇我氏、聖徳太子との三頭政治が始まります。推古天皇8年(600)任那救援を掲げて、朝鮮半島に出兵します。征討大将軍は境部摩理勢(さかいべのまりせ)でした。蘇我一派のヤマト政権の重鎮です。6つの城を陥落させ、難波吉士神(なにわのきしみわ)が新羅におくられます。この後、任那と新羅は倭に朝貢をはじめたと記されています。しかし、現実は厳しく、倭が退いた後、新羅は再び任那に侵攻します。
 推古10年(602)、再び新羅討伐が計画されます。今度の征討大将軍は来目皇子です。蘇我一派から聖徳太子の弟に変わりました。2万5千という大軍を率いて筑紫国に至り、島郡に入ります。島郡は糸島半島。旧伊都国の北にあたります。日本書紀によれば、来目皇子が病気になってしまい、延期となります。2万5千の大軍はどうなったのでしょうか。推古11年(603)来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されます。妻の舎人皇女が死んだからと当麻皇子は大和に戻り、結局新羅討伐は行われなくなります。

 NHKの番組では、この新羅と倭との外交を取り持ったのがこの船原古墳の被葬者であったのではないかとしています。同様の内容は、福岡大の桃崎教授も言われており「被葬者は糟屋(かすやの)屯倉(みやけ)にも関与していた有力者だろう。一触即発だった日本と新羅の間で奔走した対外交渉の窓口役だったため、新羅関連の馬具もあったのではないか」とコメントされています。船原古墳の西に、大型建物跡が確認された鹿部田渕(ししぶたぶち)遺跡があり、528年の磐井の乱により、筑紫君葛子(磐井の子供)が献上した糟屋屯倉があったのではないかと言われていることを念頭において話ておられます。
 私の考えは、少し異なります。528年の磐井の乱がそうであったように、やはり新羅の影響は、遠いヤマト以上に北九州地域に及んでいたのだと思います。日本を唐と対等の国にしようと考えていたのは聖徳太子でなく蘇我氏だと考えますが、蘇我氏は蕃国とし扱っている新羅が倭の領土を侵すなどということを許せなかったのでしょうが、聖徳太子一派は親新羅派であったのではないかと思うのです。病気だとか、妻が死んだという理由で新羅討伐を辞めたというのは、元々新羅など討つつもりはなかったのではないかと考えるからです。
 大和政権のものとなった糟屋屯倉のすぐ外側の地を治めていた人、それは、筑紫君葛子に使えていた重鎮であったはずだと考えるのです。新羅に通じていた人、という以上に新羅の駐日大使的な役割を担っていた人物ではないかと考えるのです。だからこそ、新羅の代表者として、倭の皇子に負けないだけの副葬品があった。そして、新羅のあった慶州にあるのと同じ20メートル程度の円墳に埋められたと考えるのが良いのではないでしょうか。

 時代とともに、新羅の痕跡は跡形も無く消されていったのだと思いますが、任那日本府にあたるような北九州新羅府のような跡が見つかるのではないかと期待しているのです。

平城京の中に壊された古墳群を発見

奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が3月25日発表した内容によりますと、JR奈良駅の近くで、4世紀後半~5世紀後半(古墳時代前期末~中期後半)の推定全長約80センチの船形埴輪やや鳥、家などをかたどった埴輪など計12種類の土器や、復元すると高さ約75センチ、直径約55センチになる円筒棺が数百点見つかったそうです。周辺に未知の古墳群が存在したが、平城京の造営時に壊された可能性があると報告されています。
平城京
場所は、JR奈良駅から北へ1Km程いったところです。左の図を見てもらうとわかる通り、左京からはみ出して作られた外京と呼ばれる中での発見でしたから、平城京の造営時に壊されたというふうに発表されました。
確かに、そうではあるのですが、今回の発掘現場の数百メートル程東南方向に開化天皇陵とされている念仏寺古墳があります。開化天皇は、欠史八代の一人第九代の天皇で、次が実在した最初の天皇と言われる崇神天皇です。この念仏寺古墳は、5世紀末から6世紀の古墳と言われていますから、例え存在していても開化天皇などであるはずはないのですが、場所が春日率川坂上に該当するということで、この前方後円墳が開化天皇とされています。
江戸時代の治定後、この古墳を整備して前方後円墳の形に整え直したのですが、ここは一般の人の墓地として使われていたという悲しい現実を持つ古墳なのです。もちろん、前方後円墳であったのですが。
実は、何年か前この念仏山古墳の南側でも土器片が見つかり、その時もこの近くに別の古墳があったのではないかと言われました。
従って、コメントが出ています通り多分この地は、大和政権にいた上級官吏の墓地であったと思われるのですが、平城京の造営のために潰されたのだと考えられるのです。

そうであるとすると、問題は、開化天皇陵とされている念仏山古墳だけが、なぜ残されたのかという新たな疑問が生じるのです。
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大和の北東部は、元来和珥氏(わにうじ)の土地でした。多分、大和東南部にあった古墳群(箸墓、崇神天皇陵、垂仁天皇陵等)が一杯になった後、大和王家は和珥氏に依頼して、墳墓を大和の北側に作ってもらっていたのではないでしょうか。和珥氏は大王家の古墳の築造を肩代わりすることにより、力をつけた豪族であると思われます。ご存知のように、多くの大王の妃を出している家なのです。そして、和珥氏が築いた古墳群こそが、現在残る佐紀盾並古墳群(さきたてなみ)なのです。この佐紀盾並古墳群は、平城宮に接するように北に広がっている古墳群です。
従って、念仏山古墳は和珥氏の頭領の墓であったのではないかと想像するのです。それを知りながら、日本書紀の編纂時に存在しなかった開化天皇の陵として扱ってもらったのではないでしょうか。常に大王の側に居て、崇神天皇の時の彦国葺(ひこくにぶく)や、神功皇后の時の武振熊(たけふるくま)。また、独自の『和邇氏系図』等を残す実にしたたかな一族なのです。

大和は大和政権が始まった時、日本で最大の穀倉地帯であったのだと思われます。大和川の支流が、大和盆地にくまなく行き渡り、稲作には最高の環境を作り出していたと思われます。2週間前、御所市の中西遺跡のお話を紹介させていただきましたが、日本の中心が大和でなければならなかった大きな理由は、稲作の生産力にあったのだと思われます。
その稲作地を破壊して迄、古墳を作るという考えも習慣も、大和政権には存在していませんでした。大和盆地の中において、稲作に影響を及ぼさない土地は、和珥氏の持つ佐紀地域以外あり得なかったと言っても良いかと思います。
平城京の北側には、佐紀盾並古墳群が広がり、その北側には今は、京阪奈の新興住宅地が広がります。しかし、この地域には川がないのです。もっと北に行って木津川に辿り着く迄川がありません。使えない土地であった場所に、古代の人々は古墳群を作っていたのです。一時期、古墳の壕が灌漑用水に使われたのではないかという議論がありましたが、この土地では、その可能性もあったかもしれません。
平城京自体も、近くに大きな川がなかったことが衰退の原因だと言われています。物資の運搬があまりに不便であったことと、衛生上非常に問題があったからです。
生者より死者に重きを置くという非合理な考え方は、古代にはありませんでした。死者が眠る地には、その地なりの意味があったのです。


大和に王朝ができた理由 中西遺跡の調査

スクリーンショット 2013-03-22 19.47.003月14日、橿原考古学研究所と京都大学大学院農学研究科は、御所市にある中西遺跡・秋津遺跡で見つかった水田後の調査結果を発表しましたこの遺跡では、2万5000平方メートルに約2000枚の水田跡が見つかっています。2万5000平方メートルの水田跡の遺跡は、多分、日本最大のものだと思います。少し前になりますが、滋賀県の守山市で服部遺跡が、確か、約2万平方メートルの水田跡が発見されて騒がれました。今回の中西遺跡は、それを上回る大きさを持ちます。
今回調査が行われたのは、奈良県御所市。紀伊国から紀ノ川を遡って大和へ入るその入り口にある町です。
ご存じの通り、葛城氏の地元です。中西遺跡のすぐ南にある丘の上には、宮山古墳があります。室大墓とか、室宮山とも呼ばれるこの古墳は全長238メートルの大前方後円墳です。葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓ではないかと言われています。西暦400年頃に造られた古墳ですから、今から1600年程前になります。
今回調査された遺跡は、そんなものではない。弥生時代前期ですから、紀元前400年頃、つまり、2400年程前の遺跡になります。
日本において最初に王朝が造られた地が大和であることは、疑いのないところ。九州王朝という説を唱える方もいらっしゃいますが、古代日本の政権の中心が大和であったことは紛れもない事実です。
その大きな疑問の一つが、「なぜ大和なのか?」というものでした。不思議だとは思われませんか?
確かに日本列島の真ん中あたりにありますが、古代において大和の位置はそれ程大きな意味があるとは思えません。大和盆地自体が、敵から身を守るための自然が生んだ堅牢な要塞であったとも思えません。
人が生活していくためには、水が必要です。水のないところに人は住めません。個人的には、守山市の服部遺跡が語るように巨大な淡水湖である琵琶湖こそ、天からの恵み以外の何物でも無いのでは無いか。と思うのですが、国は大和からはじまりました。大和川の水系が、毛細血管のように拡がる大和盆地は、確かに住みよい場所であったのかもしれません。しかし、それでもなお、なぜ大和でなければならなかったのか?という疑問は解決してくれるものではありませんでした。
今回の遺跡調査は、その問題を少し解決してくれたようにも思えます。
2400年前の時点において、非常に多くの試行錯誤の後が見つかったためです。3mx4m程度の田の大きさ。畦の工夫。水を張るための工夫。取水方法の工夫。200年間の間に、水田の形が変化していっていることがわかります。この土地で行われた工夫や改良は、当然、大和盆地一帯に素早く広がったのでしょうし、もしくは、他で成功されたことが持ち込まれた結果の改良なのかもしれません。
単に水田を造る。米を収穫できる。というのではなく、この地では間違いなく生産性が追求されるとともに、収穫量を増やすための工夫がされ続けたのだと考えられます。つまり、
どの地域よりも大穀倉地帯として発達したのではないかとも考えられるのです。
先進の文化や技術の窓口であり、鉄という宝を支配できた北九州に対し、どこよりも大きな穀倉地帯を持つ大和という図式だったのかもしれません。
それにより、驚異的な人口集中を生み出したとも考えられます。魏志倭人伝に言うところの、奴国2万戸に対し、邪馬台国7万戸。それが、国の中心となった源ではなかったかと再認識をした調査報告でした。
葛城氏という一族が、巨大な力を持ったのも、武力ではなく食料生産の力だったのかもしれません。

神武東征はあったのか? 和歌山和田遺跡の発掘

古代の謎の筆頭とも言うべき、「神武東征」。神武天皇こと神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)は、兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに、葦原中国を治めるために東へと向かいます。宇佐、筑紫を経た後、瀬戸内海を東へ進み、阿岐、吉備を経て大阪に辿り着きます。難波の地で上陸しようとすると、待ち構えていた長髄彦(ながすねひこ)の軍勢が待ち構えていました。長髄彦の放った矢が兄の五瀬命にあたります。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と進言し、難波の地を離れ紀伊半島を回ります。しかし、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で、射られたときの傷が悪化し死んでしまいます。古事記は、五瀬命を、紀国竈山(かまやま)で亡くなり、竈山に陵が築かれたと記しています。
竈山神社
この神武東征は、日本の国の成り立ちを考える上で、非常に重要な話です。出発点が日向の高千穂であることの議論、筑紫を回った理由、阿岐や吉備との関係、この後に上陸する熊野の意味等、謎の宝庫のようなお話です。それ以上に、そもそも本当に神武東征が行われたのであろうかという疑問は、誰しもが持つ謎のひとつです。
五瀬命の墓
五瀬命を葬ったとされる和歌山市和田には、竈山神社(かまやまじんじゃ)があります。祭神は、彦五瀬命。そして本殿の裏に彦五瀬命のものとされる墓が存在しています。
この和歌山市和田で、発掘調査を続ける和歌山県文化財センターが2月9日に、和田遺跡の一般公開を実施しました。和田遺跡は、弥生時代から鎌倉時代迄続く、複合遺跡であり各時代の集落の存在が確認されています。今回は、弥生時代から古墳時代にかけての素掘りの井戸跡や、土器片等が発掘され公開されました。
和田遺跡これが出土すれば、というような期待の品があるわけではありません。しかし、神武東征につながるようななにかが出てくれば、という期待が膨らむ発掘なのです。神武東征の道程において、宮跡や史跡地とされる場所はたくさんありますが、考古学資料として取り上げられるような場所はほとんどありません。五瀬命という代表者の一人を紀国に埋葬したとする記述は、大いに注目されるものです。今回の土器片と井戸跡だけでは、そこに人が住んでいたことしかわかりません。大規模集落であったという跡もなく、正直期待はずれではありました。しかし、この発掘、場所を拡げてでも続けてもらいたいと考えます。本当にこの地に五瀬命を埋葬したとするなら、この地にも神武東征軍が陣をひくだけの大きな村があり、また、この時渡された遺品が残るはずなのです。それは、九州の土器であるのか、阿岐や吉備の土器であるのかはわかりませんが。今度の展開を大いに注目したい発掘調査です。

大化の改新の歴史ロマン 槻の木の広場の発掘

明日香村大字飛鳥において、飛鳥寺西方遺跡の範囲確認調査をしていた明日香村教育委員会から、今回の発掘調査により広い範囲の石敷が確認されたので2月2日に現地で調査見学会を行うとの報道がありました。
「たかが石敷」ではあるのですが、実はこの石敷、歴史ロマンたっぷりの発掘作業だったのです。
飛鳥寺は蘇我氏の氏寺で、元は法興寺と呼ばれていました。
同じく明日香村にある豊浦寺(尼寺)と並んで日本最古の本格的寺院です。本尊は「飛鳥大仏」と通称される鞍作鳥の作とされる釈迦如来像があり、この寺の創立者は蘇我馬子です。釈迦如来像の造立にあたっては、高麗国の大興王から黄金三百両が贈られたことも、日本書紀に記録があります。飛鳥寺は、587年(用明天皇2年)に蘇我馬子により建立の発願がなされ、596年(推古天皇4年)に完成し、馬子の子供である善徳が寺司となるとともに高句麗僧の恵慈と、百済僧の恵聡の二人が住んだとも記録されています。当時、蘇我馬子は排仏派の物部守屋と壮絶な争いを繰り広げており、この法興寺も、物部守屋への戦勝祈念のために建立したとされています。
最終的には、物部氏に勝った蘇我氏は、その後天下を我が物とする勢いを見せますが、法興寺建立の約50年後の645年。歴史的なクーデターである、「乙巳の変」で惨殺されてしまいます。そして政治改革である「大化の改新」が始まるのです。
今、飛鳥寺の西門を出て西へ100m程行くと、田んぼの中に五輪塔が立っています。この五輪塔は、蘇我入鹿の首塚と呼ばれています。今回の発掘調査は、この五輪塔の丁度西側でした。飛鳥寺の南側には、乙巳の変の舞台となった皇極天皇の飛鳥板蓋宮がありました。
日本書紀によれば、乙巳の変の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足となっています。日本書記は、この二人の出会いに想いを込めて、次のように記載します。
『蘇我入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家をかすめようとする企てを抱いていることに憤った中臣鎌足は、王家の人々に接触して企てを成し遂げる明主を求めた。そして、心を中大兄に寄せたが、離れていて近づきがたく、自分の心底を打ち明けることができなかった。たまたま、中大兄が
法興寺の槻の木の下で、蹴鞠を催しされたときの仲間に加わって、中大兄の皮靴が、蹴られた鞠と一緒に脱げ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪(ひざまず)いて恭(うやうや)しくたてまつった。中大兄もこれに対して跪き、恭しくうけとられた。これから親しみ合われ、一緒に心中を明かし合ってかくすところがなかった。』
実に、ロマン漂う記載内容だと思われませんか。まるで、恋人同士の出会いのような三文小説ばりの説明です。私は、飛鳥寺に行った時、槻の木はどこだと探したのですが、それらしき木は、見当たりませんでした。狭い境内でしたが、「ここで蹴鞠をしたのか?」と、嘘くさいと思ったものです。
しかし、この舞台である「法興寺の槻の木の下」が今回の発掘場所なのです。名付けて、「槻の木の広場」。日本書紀には、もう一回、この槻の木の下の記述が出てきます。大化の改新を進める中で、孝徳天皇が即位します。
『十九日、天皇・皇祖母尊・皇太子は、
大槻の木の下群臣を召し集めて盟約をさせられた。天神地祇に告げて「天は覆い地は載す、その変わらないように帝道はただ一つである。それなのに末世道おとろえ君臣の秩序も失われてしまった。さいわい天はわが手をお借りになり、暴虐の物を誅滅した。今、共に心の誠をあらわしてお誓いします。今から後、君に二つの政無く、臣下は朝に二心を抱かない。もしこの盟に背いたなら、天変地異おこり鬼や人がこれをこらすでしょう。それは日月のようにはっきりしたことです」と誓った。』
この誓いの言葉を見る限り、クーデターの首謀者は孝徳天皇こと軽皇子であったのではないかと思われますが、まーそれは置いておいて、天皇との盟約の地も、やはりこの「槻の木の広場」であったのです。
調査では、石敷の広場の中に、直径2~3メートルの穴も2個見つかったとされています。残念ながら、槻(ケヤキ)の木があったわけではないようです。私は、高い棒が建てられていたのではないかと思います。しかし、この「槻の木の広場」は、神聖で特別な場所であったのではないでしょうか。だからこそ、この地で中心人物は出会い、そして、この地で盟約も行われたのだと思います。そんな場所の姿の一端が見えたのが、今回の発掘でした。
盟約をした孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮に移りますが、最後は、皇太子である中大兄皇子が、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子をひきいて大和に戻ってしまいます。孝徳天皇は、一人残され病気になって死んでしまうのです。
時代は盛者必衰を繰り返しながら、どんどん流れていきます。もしかすると、孝徳天皇は最後に、槻の木の広場を思い出していたかもしれません。

槻の木の広場発掘の共同ニュースの映像です。

福岡・元岡古墳群から出土の銘文大刀は金象嵌

1月22日に福岡市埋蔵文化財調査課が、昨年元岡古墳で見つかった銘文入りの大刀は、金で象嵌されたものであったと発表しました。
彫った文字に金属を埋め込む技法を「象嵌(ぞうがん)」と言います。
銘文大刀
これまで、出土した銘文入りの大刀は、この元岡古墳からのものを含めて7例ありますが、その中で金の象嵌のものは、奈良県天理市の東大寺山古墳(4世紀末に築造)から出土した大刀で、180年代に作られたもの。埼玉県行田市の稲荷山古墳(5世紀後半に築造)から出た有名な鉄剣で、「辛亥」年で、471年。そして、この元岡古墳から出土した大刀で、「庚寅」年の(570年か?)3例しかありません。当時、金、銀、銅という金属が、どのように区別され使われていたかはわかりませんが、少なくもの金の象嵌であったことにより、埋葬されていた人物が、かなりの有力者であったことは確実です。
元岡古墳出土の大刀の銘文は「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」で最後の文字は判読しにくい文字ですが、「練」であろうと言われています。「12回練って作った」と言う意味にとらえられています。
金の象嵌であったことは、確かに貴重は発見ですが、私は、この古墳の持つ意味のほうに興味があります。この元岡古墳は5基の古墳がある古墳群です。福岡市の西区になりますが、糸島半島の中にある古墳です。糸島半島は、古代はその付け根の部分がもっと切り込まれた海であったとされており、元岡古墳の南側は海であったのではないかと思われます。魏志倭人伝の時代であれば、南に伊都国、南東に奴国の港を持つ要の地のひとつです。
元岡古墳
九州大学の移転に伴い発掘が進みましたが、平成22年には元岡古墳で最大の墳墓が発掘され、装飾付圭頭大刀(ソウショクツキケイトウタチ)など刀5振と馬具が発掘され、有力な武人であったことが確認されています。また、その墳墓は方墳でした。今回の大刀の出て来た墳墓も、円墳ではなく、多角形をしているとされています。どこの民族であったのかと非常に興味を魅く古墳群なのです。
庚寅年が570年とされたのは、墳墓自体が7世紀初頭の築造であること。加えて、553年に百済から暦博士を招聘したとされることから、庚寅の銘により、570年が選定されました。ただ、この570年頃というのは、北九州地域にとっては激動の時代でもあります。
527年の磐井の乱により、ようやく大和朝廷が北九州を平定しおえたであろう後、562年に大伽耶が新羅に滅ぼされ、伽耶が新羅の一部になります。これに伴い、この北九州の地は伽耶からの多くの渡来者が住み着くことになったことだろうと思われます。
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602年には、来目皇子が新羅討伐のために2万5千の兵を率いてこの地に来たはずです。しかし、筑紫で病気になり死亡したとされています。大和朝廷にとっては、不安定な地盤の上に、新羅に対抗する前線基地を設けなければならなかった時代です。この時、大和朝廷から金の象嵌で銘文を刻まれた大刀を譲り受けた人物とは誰だったのでしょうか。
大刀の出土とともに、銅鈴が出土しました。出土した中では最大のものとされています。馬に付ける鈴ですが、これは伽耶地方の風習です。大和朝廷は北九州の平定を、伽耶から逃れて来た部族に委ねたのかもしれません。

異議あり!大和政権とは無関係 新潟県胎内市城の山古墳の「盤龍鏡」

胎内市場所
1月15日に、新潟県胎内市教育委員会は、新潟県胎内市の城(じょう)の山古墳から出土した銅鏡は、1世紀から3世紀頃迄に中国で作られたであろう「盤龍鏡」であったと発表するとともに、「大和政権経由で持ち込まれたもの」という見解を発表し、「これにより大和政権の影響が及んだ北限が変わる」とコメントしています。城の山古墳の発掘は、昨年4月中旬より第6次調査として実施されていました。9月には、一般公開がなされました。その成果のひとつとして発表されたものです。

城の山古墳

城の山古墳は、新潟県胎内市で見つかった古墳です。前期古墳とされ、4世紀前半の築造だろうと言われています。形は円墳ですが、奇麗な円ではなく楕円状であったようです。東西に41メートル、南北に35メートルです。墳丘の高さは5メートル。頂部には祠があったそうです、棺は、木棺ですが畿内で使われている高野槙ではないそうです。赤色顔料が大量に用いられていた跡があったと言います。
副葬品は翡翠製の勾玉が1点、緑色凝灰岩製の管玉が8点、ガラス製小玉が113点、大刀1点、剣1点、鉄製刀子1点、 鉇1点、鉄斧2点、他にも鉄製品があったようです。副葬品からすれば、確かに畿内や九州で見つかっている前期古墳の内容に似ていることは確かです。これら以外に、弓2張、靫(ゆき)1点も出ています。

ヤマト政権の新潟進出の時期

まず、新潟県胎内市について考えてみたいと思います。胎内市は、新潟県の日本海に面したまちです。阿賀野川の大きな平野に広がる新潟市があり、その
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北に新発田市、そして胎内市です。胎内市の北側には荒川がながれます。その北が村上市になります。
弥生時代、新潟県においては、それ程稲作が盛んであったとは思われないのですが、阿賀野市や五泉市の山裾には高地性集落跡が見られます。高地性集落は「倭国大乱」に備えて築かれた村であったとされていますが、新潟にも領地をめぐった権力争いがまきおこっていたことが推測されます。加えて、非常におもしろいのは、新潟県新潟市の南赤坂遺跡で、ここからは続縄文土器が30も出土しました。北海道で見られるのと同じ型の土器であり、ここから北は北方民族の土地であったことを物語っています。
この南赤坂遺跡の近くでは、同じ新潟市の菖蒲塚古墳(あやめづかこふん)があります。全長53メートルの前方後円墳で、5世紀前半に築造されたものです。副葬品には3種の神器が収められていました。出て来た鏡は、23センチ以上もある新潟県最大の鏡です。つまり、5世紀頃に新潟市に本格的な前方後円墳が築かれ、ここではじめてヤマト政権の影響下に入ったことがわかります。5世紀になって、ようやく新潟平野あたりで北方文化とぶつかり合う境界線が作られたことがわかります。
日本書紀の中に、大化3年(647)「渟足柵(ぬたりのさく)を造り柵戸を置く」という記述が出てきます。最北端の城柵が作られるわけですが、この渟足柵がおかれたのは、沼垂町(ぬったりまち)のあったとされる新潟市東区王瀬です。これが7世紀のことです。時代は大化の改新です。この時、はじめてヤマト政権は新潟市迄を征圧したわけです。さて、胎内市はそこから20kmは北にあります。もし、胎内市迄勢力が及んでいたとするなら、どうして、最初の城柵はもっと北に作られなかったのでしょうか。

盤龍鏡の意味するも

「盤龍鏡」は、その名の通り、鏡の背に龍の絵を描いた中国製の鏡です。中国では後漢の時代から晋の時代にかけて(5世紀前半頃)四川省を中心として多くがつくられました。しかし、「盤龍鏡」と呼ばれる鏡自体の製造が晋の時代に終わったわけではなく、その後も龍の絵が描かれている鏡は中国で作られ続けています。国立博物館に保存されている国の重要文化財に指定されている「盤龍鏡」は、8世紀唐の時代に作られた物であり、八花形で躍動する龍が描かれている、素晴らしい芸術作品です。これは、遣唐使によりもたらされたとされています。共同通信から配信された「盤流鏡」の写真から見る限りにおいて、鏡は平縁ですし、形状や図柄も佐賀県唐津市の久里双水古墳から出土した盤龍鏡と非常に似た物であると思われます。(写真左が城の山古墳、右が久里双水古墳)久里双水古墳は3世紀末から4世紀に作られた、最も古い前方後円墳のひとつです。邪馬台国の時代では、末盧国に比定される場所に作られたものです。

城の山古墳出土「盤龍鏡」
久里双水古墳出土「盤龍鏡」

今回見つかったものは、後漢か魏の時代のものであり、非常に貴重な発見でした。見つかったのか、城の山古墳であったことが重要性を高めました。渟足柵(ぬたりのさく)を越えた場所に、4世紀前半にどうやって鏡がたどりついたのかが問題なのです。写真で見ていただけるように、方や新潟の北側、方や九州は佐賀県です。現在、胎内市教育委員会ではヤマト政権から直接もらったという説を唱えられているようです。シンポジウムなどでは、大阪大の福永伸哉教授(考古学)もその考え方です。ヤマト政権にとっては遠路はるばる朝貢してきたことが誉れであり、城の山古墳の埋葬者にとってみれば、ヤマト政権の威をかざすことができるWIN-WINの関係にあったのだと言われています。4世紀前半のヤマト政権が新潟の北から来た有力者や、北九州の豪族を傘下につけて渡すことが可能なのでしょうか。厚遇したとするなら、どうしてヤマト政権の印とも言える「三角縁神獣鏡」ではなかったのでしょうか。

「盤流鏡」を授けたのはヤマト以外の豪族

私が面白いと感じたのは、矢を入れる箱の靫(ゆき)が一緒に埋葬されていることです。靫(ゆき)が一緒に埋葬されることは珍しいのです。滋賀県東近江市の雪野山古墳は、全長70メートルの前方後円墳です。ここには、靫(ゆき)が埋葬されていました(右写真)。築造時期は、城の山古墳と同じ頃の古墳です。雪野山古墳からは、3面の三角縁神獣鏡が出土しています。非常に強いヤマト政権との結びつきをもっていたことがわかります。
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私は、4世紀前半であるなら畿内にも、北陸も福井・石川あたりには力のある豪族達が存在していたと考えます。彼らが、ヤマト政権下と親しくしていたことは間違いないのかもしれません。石川県羽咋郡にある徳田燈明山古墳は、4世紀初頭に作られた前方後円墳です。前方後円墳がヤマトが認めた墓であるなら、既に石川県には存在していました。私は、彼らがヤマト政権の組織下にあったとは思いませんが、交流をもっていたからこそ同じ形体の墓を築造したことは確かだと思います。そして、このような有力豪族が従えていた、地域の有力者達がいたのだと思います。そうであってはじめて、高地性集落の存在につながります。ヤマトが攻め込んで来たから、高地性集落を形成したのではありません。有力豪族に抑えられた胎内地域の有力者が、城の山の埋葬者なのではないでしょうか。彼が、雪野山古墳や徳田燈明山古墳の埋葬者に使えていたかどうかはわかりません。
可能性としては、北陸の有力豪族からもらったのが盤龍鏡や、剣、弓、そして靫であったと考えるのです。だからこそ、城の山は前方後円墳ではなく、かつ、三角縁神獣鏡でもなかった。本当にヤマトとWIN-WINの関係を築ける程、厚遇したのであれば、三角縁神獣鏡が渡され前方後円墳が作られていたはずです。

最後に

4世紀の前半は崇神天皇の頃です。崇神天皇は日本を平定するために、四道将軍を派遣します。北陸平定には、大彦命を使わせました。息子の建沼河別命(たけぬなかわのみこと)は東海道の平定に向かいます。父が北陸、息子が東海道ですから北陸平定はかなり難しいものだったんだろうと想像できます。どんどん進んでいく二人が出会った場所は、福島県の会津であったと記載されていました。北陸から会津に抜ける道は2つ。魚沼から抜けるJR只見線が走る道と、新潟五泉市からJR磐越西線が走る道です。胎内から西へ抜ける道は、南陽市か米沢市へまで行ってしまいます。
4世紀前半に、城の山古墳とヤマト政権を直接結ぶのは、やっぱり無理があるのです。
(2014年1月29日 メルマガに呼応して更新)

追記

2014年11月12日、胎内市教育委員会は「城の山古墳」が前方後円墳であったという会見をしました。真実であるなら、新潟県内で最大の前方後円墳となるばかりでなく、それが4世紀前半に構築されていたという衝撃的な報告となります。推計されている前方部分が非常に歪な方形であることも気になります。メルマガでコメントを出させていただきましたが、慎重な発掘と考察を望みたいと思います。真実であるなら、本当に4世紀前半なのかという検証もお願いしたいと思います。(2014年11月15日追記)

日本最大の弥生遺跡発掘 高知県南国市田村遺跡

高知県南国市にある田村遺跡群での発掘で、12月15日に現地説明会が催されました。今回の対象は、これまで調査された田村城跡を含む田村遺跡群の北側になる田村北遺跡と呼ばれる場所となります。
田村城は、室町時代の土佐の守護所のおかれた場所ですが、室町時代に開拓された場所ではなく、弥生時代から連綿と続いている土佐の中心地であります。
田村遺跡群は、高知龍馬空港の建設に伴い調査され有名になりました。弥生時代の遺跡の規模としては非常に大きく注目されていましたが、今回の発掘を含めて出土した竪穴建物跡は合わせて、なんと500 棟近くとなりました。これは、これ迄発掘された弥生遺跡の中で、日本最大の遺跡となります。

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高知県教育委員会の発表資料によりますと、「今回出土した主な遺構には竪穴建物跡、掘立柱建物跡、溝跡、溝状土坑があります。出土した土器等から年代をみると、弥生時代の中期末頃(紀元前 1 世紀) に大きなピークがあり、今回も調査区東半ではほぼ全面に遺構が展開しています.
今次調査範囲の西端部であるI区では、後期終末(紀元 2 世紀頃)の竪穴建物跡が 2 棟出土しました。多数の地元産土器の中に近畿地方産の土器が含ま れており、遠隔地との交流がうかがわれます。
今回の調査成果を既往の成果と併せると、遺構が散在する中期中頃までの景観 から、中期末の大集落、そして後期後半には急激に減少に向かい、終末期には少数の住居が周辺部のみに営まれるという経緯をたどったことがわかります。中期末頃の当地で、列島規模でみても大きな集落が展開した理由は何か、また、その 集落が終末期になるとなぜかつて栄えた地区の中心を避けるように営まれたのか、 発掘調査の成果は私たちに問題を投げかけています。」としています。

歴史探求社解説

発表にもありましたように、非常に面白いのは、紀元前 1 世紀にピークを迎え、紀元 2 世紀頃に急激に減少していることです。すなわち、邪馬台国が魏志倭人伝に報告された倭国の大乱の時代に、集落は縮小に向かっているという事実です。
南国市は高知市の隣にある、大きな平野を有する地です。しかし、高知県の県境が示すように、非常に険しい山地に囲まれており、陸路を通って他国が攻め込んでくることはほとんどできない地となっています。発達した北九州や朝鮮半島からの船は、穏やかな瀬戸内海航路を通って畿内に来ていたと考えられていました。もしくは、出雲を経由して若狭から入って来たと言われています。四国の太平洋側を通る航路は、これまで考えられていませんでしたが、鹿児島、もしくは、宮崎を経由して、高知、紀伊半島南端へと進む航路が確立していたのではないかとも思わせる発掘です。ひいては、中国江南地方との強いつながりがあったのではないかと想像させるものです。また、2世紀の土器に畿内の土器が混じっていることと、かつ、集落の縮小を合わせて考えますと、やはり、畿内勢力による侵略征圧があったのではないかと思わせる内容です。
今後の発掘物に、注目したいと思います。

小札甲を身に着けた男性人骨発掘

毎日新聞 2012年12月10日 20時40分(最終更新 12月10日 21時56分)
毎日新聞の報道が、やはり一番詳しいので、まずは、その報道をそのまま紹介させていただきます。写真は、FNNの報道から抜き取りました。
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 群馬県埋蔵文化財調査事業団は10日、同県渋川市の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、6世紀初頭(古墳時代後期)の火山灰の地層から、よろいを身に着けた成人男性の人骨が見つかったと発表した。古墳時代のよろいが副葬品ではなく、人が実際に装着した状態で出土したのは全国初という。近くの榛名(はるな)山二ツ岳の噴火で火砕流に巻き込まれたとみられ、同事業団は「当時の生活や習俗、災害について知ることができる貴重な手がかりとなる」としている。
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 金井東裏遺跡は榛名山の北東約9キロ。同事業団が国道バイパス建設工事に伴い発掘調査したところ、人骨は幅約2メートル、深さ約1メートルの溝の中で、後頭部や腰骨以外のほぼ全身の骨が残った状態で見つかった。よろいは背中側が露出しており、高さ60センチ、幅50センチ。多くの小鉄板が重なり合っており、長方形の鉄板を革ひもでくみ上げた「小札(こざね)甲(よろい)」と判断した。
 榛名山の方向を向き、膝を折った状態でうつぶせに倒れていたことから、同事業団は
火山から逃げようとしたのではなく、山の怒りを静めるため、よろいを着て儀式を執り行っていた可能性もある」と推測する。
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 また当時、小札甲を作る工房は近畿にしか見つかっておらず、県内でも小札甲が副葬品として出土しているのは支配者層の古墳に限られていることから、「大和王権とつながりが深い、政を担うような首長など地位のある人物だったのではないか」とみている。同遺跡の西側にある同時代の金井丸山古墳からは、副葬品として鉄剣3点が出土しており、男性と関連がある可能性があるという。 このほか、近くから生後数カ月の乳児の頭骨や鉄製の矢じり十数点も見つかった。複数の人が火砕流に巻き込まれたとみられる。
 榛名山の周辺では、金井東裏遺跡から約1キロ離れた国指定史跡の黒井峯(くろいみね)遺跡と、約4キロ離れた県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡が、同じく6世紀に榛名山の噴火で埋没しており、両遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれている。【奥山はるな、庄司哲也、塩田彩】



歴史探求社解説

報道を聞いて、まず、群馬県埋蔵文化財調査事業団の方の推測に驚きました。どうして、こうも貧困な発想しか出てこないのか。噴火した火山を前に火山灰を被りながら、山の怒りを鎮めるために、鎧を着て儀式を行っていた等あるはずがないでしょう。鎧を着たのは、火山弾から身を守るためであったでしょうが、飛んでくる火山弾から身を守ろうと伏したところを火砕流に巻き込まれたと考えるのが普通なのではないのでしょうか。シャーマンでもない、一介の兵士が噴火した火山の山の怒りを鎮める儀式を行う等、ありえない話です。
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金井丸山古墳は、5世紀末から6世紀と推定される古墳です。榛名山の噴火記録は、6世紀初頭と中頃ですので、もちろん時代としては6世紀初頭、継体天皇の御代であったと思われます。継体は近江からきた皇統としては非常に薄い天皇と考えられています。さきたま古墳で出土した鉄剣に刻まれていた文字は、5世紀中頃の雄略天皇の存在と大和朝廷の力が関東迄及んでいることをしめすものでしたので、関東地方の北側迄大和朝廷の力が及んでいることには驚きませんが、この発見により大きな物証となることは間違いありません。ちなみに、小札甲(こざねよろい)の発祥は、朝鮮半島になります。参考迄に小札甲(こざねよろい)の図を添付しておきます。

最古の平仮名土器発見

毎日新聞 2012年11月28日 20時55分(最終更新 11月28日 22時41分)他
ほどんどの新聞でトップニュースのひとつとして取り上げられていましたが、毎日新聞の記事がももっとも詳細であったので、以下にそのまま転記させていただきます。
Pasted Graphic
 
Pasted Graphic 1
右大臣も務めた平安時代前期の有力貴族、藤原良相(よしみ)(813~67)の邸宅跡(京都市中京区)から、最古級の平仮名が大量に書かれた9世紀後半の土器が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が28日発表した。平仮名はこれまで、9世紀中ごろから古今和歌集が編さんされた頃(905年)に完成したとされてきたが、わずかな資料しかなく、今回の発見は成立過程の空白を埋める画期的なものという。
 佛教大キャンパス建設に伴う昨年の調査で、平安京跡にある邸宅の池跡から9世紀後半のものとみられる墨書の土器約90点が見つかり、うち約20点に平仮名が書かれていた。下層の井戸跡からは、約10点の木簡や檜扇(ひおうぎ)の断片も見つかった。
 専門家が平仮名の解読を試みたところ、土師器(はじき)の皿や高坏(たかつき)から「かつらきへ」「ひとにくしとお(も)はれ」などの文字が読み取れた。「かつらきへ」は神楽歌の一節の可能性があり、「ひとにくし……」は枕草子(11世紀初め)や蜻蛉(かげろう)日記(10世紀後半)にも登場する表現という。
 皿1枚に約40文字もあったり、高坏の脚部分に1~2ミリ角の細かい文字がびっしり書かれたりしていた。筆跡が違う文字もあり、複数の人物が書いたとみられる。墨の保存状態は良く、筆の運びも鮮明に残っていた。だが後世の平仮名とは崩し方が異なり、ほとんどの文字は解読できなかった。
 檜扇類には、「奈※波都(なにはつ)」など当時の手習いに使われた和歌の冒頭などが万葉仮名で記されていた。
 平仮名の成立過程の資料として「藤原有年申文(ふじわらのありとしもうしぶみ)」(867年)がある。讃岐の国司が都に提出した文書の一部で、草書をさらに崩した漢字を仮名のように使用したもので、「草仮名(そうがな)」と呼ばれる。こうした例は9世紀後半の赤田(あかんだ)遺跡(富山県射水市)の土器にも見られる。
 今回発見された文字は草仮名よりはるかに洗練され、4文字程度を流れるように続けて書く「連綿体(れんめんたい)」を取り入れるなど、後世の書法に匹敵する完成度という。
 藤原良相は、皇族以外で初めて摂政となった藤原良房(よしふさ)の弟。漢文や仏教に造詣の深い教養人だったといわれる。豪壮な邸宅は「百花亭」と呼ばれ、清和天皇も訪れて桜の宴を開いたとされる。


歴史探求社解説

平仮名の歴史は大変古いものですが、現在のように使われるようになったのは、近年のことです。48文字(現在、小学校で習うのは46文字)の平仮名が決められたのも明治33年。まだ、100年ちょっとしか経っていません。もちろん、万葉仮名から始まり、日本人は言葉の音が等しい漢字を当てはめ文章として残しました。最古の歴史書である古事記が漢字を音としてのみ使われた最古の書です。その後、音にあてはめられた漢字の草書体がすすみ、平仮名ができあがりました。日本は中国との関係が強く、また、文化は中国が遥かに進んでいたことから、漢字文化が根付き漢字の使用が重んじられていましたが、平安時代になり、日本が独自の文学(和歌、日記、物語など)が発達するに伴い、漢字から脱し、平仮名の使用が普及しました。女性がこの文字を使って、多くの文章を残したことから女手などと呼ばれ、「男子たるもの・・・」の考えを持つ人々にはなかなか受け入れられませんでした。漢字の草書体がすすんでできた文字だけに、丸みや流れがあって世界的にみても、非常に美しい文字だと思います。平仮名が残されている遺物、また、歴史に関しては、新聞記事が詳しいので、ここでは省略させていただきます。
今回の発掘で注目したい点は、写真で見る限り「かわらけ」のようなものや、高杯に書かれていることで、有力貴族の人達の優雅な生活を覗き見ることができるようです。かわらけは、盃として使われたとするなら、盃の裏に歌や文章を書いて渡し、そこに酒を注いだのかもしれません。飲干した後、裏返せば恋の歌が書かれていたとするなら、酒の味も格別であったのではないかと思われます。