竹内街道物語



大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)(後の履中天皇)


日本書紀によれば、世界最大の古墳を築いた仁徳天皇が崩御した後、太子であった仁徳天皇の長男の去来穂別(いざほわけ)と、次男の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)との間に争いが生じます。これは、住吉仲皇子が去来穂別を寝取ってしまったこと端を発するのですが、この時、住吉仲皇子は去来穂別を焼き殺してしまおうとします。住吉仲皇子の兵が追いかける中、泥酔の去来穂別は馬にのって竹内街道をひた走ります。途中、飛鳥山の麓で、一人の少女が去来穂別を止めます。月明かりしかない夜道、山の麓で「当麻道を行け」と告げる少女は神秘的です。そして、去来穂別はその通りにして難を逃れるのです。
その後、去来穂別は、三男の端歯別皇子(みずはわけのみこ)を見方につけて、端歯別皇子に住吉仲皇子を殺させます。女性を原因とした骨肉の争いです。
小説では、日本書紀の記録に基づき話を組み立てていますが、これは史実であるとは思えません。仁徳天皇は、大阪は難波に都を作りましたが、去来穂別の都は大和です。そして、難波には近づこうとしませんでした。これは当時、河内と大和の王朝が並列していたことを示しており、河内は河内で新王朝が続き、大和は大和で古王朝がつづいていたのではないかと考えます。そして、この話は、仁徳天皇の後、河内と大和で争われたことを喩えで伝えられたのではないかと思うのです。
日本書紀に記載された非常に面白い話ですので、取り上げてみました。



飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)


雄略天皇は宋書倭国伝の中に、倭王「武」として紹介され、その上申書が残されていますが、勇猛果敢で文才のある「大王」と呼ばれるのに相応しい天皇であったと思います。埼玉の稲荷山で出た鉄剣の銘は、雄略天皇に仕えたことを誇る豪族のものでした。これほどの天皇でありましたが、一方で非常に猜疑心の強い天皇でもあったようです。日本書紀の記述からは、雄略天皇の前半は、とにかく、天皇の地位を脅かす親族の殺戮で埋め尽くされています。このため、雄略の子供の白髪皇子こと清寧天皇が亡くなると、天皇家の跡継ぎが途絶えてしまいました。
そこで、白羽の矢がたったのが、雄略天皇の従兄弟の子である飯豊青皇女です。いろんな逸話が残っているのですが、男性とは一度しか交わらなかったとも記録され、非常に男勝りな女性であったのではないかと思わせられます。彼女は、雄略天皇を恐れて隠れてしまった来目稚子と嶋郎の兄弟が見つかる迄、天皇に変わって日本の国を支えます。一部の記録には、「飯豊天皇」と記載されているものもありますが、当時、女帝という前例がなかったせいか、日本書紀や古事記は天皇としては扱っていません。私は、この女性の性格が好きで、また、その皇女の姿から垣間見える飯豊皇女を支えた大伴室屋大連の苦悩が非常に面白いと感じ、その内容を小説にしてみました。
皇女の宮も墓も、竹内街道の終点である葛城市にあります。



豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)(推古天皇)


日本初の女帝である推古天皇は、蘇我氏によって擁立され支えられたと言われています。この時代、日本書紀によるなら、間違いなく推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子の三頭政治がなされた時でありました。そして、非常にうまく機能していたとも言えるかもしれません。権力者馬子にとっては、目の上のたんこぶであった崇峻天皇を取り除き、最も、処しやすい推古天皇になったことが大きかったのかもしれません。
聖徳太子は、いたのかいないのか。偶像崇拝としての聖徳太子は、私もいなかったのではないかと思いますが、太子として厩戸皇子は存在していたことは間違いないと思います。そして、仏教を広めるという大事業を成した功労者であることも真実であると思います。
この3人にとっての最大の課題は、やはり遣隋使であっただろうと思います。隋の力を思い知らされたというのが正しい理解だと思います。日本書記は、精一杯見栄を張って書かれていますが、そんな中でも慌てふためいた様子が見て取れます。隋書倭国伝に至っては、小馬鹿にされているとしか思えない扱いが記載されています。
私は、この3人の人間模様がとても面白いと感じています。やり手のご主人から跡を継いだ女社長と、店を支える大番頭、そして、くそ生意気な女社長の甥っ子という図式が繰り広げられたのではないかと感じ、それを小説にしてみました。
推古天皇の夫である敏達天皇、聖徳太子のお父さんの用明天皇、聖徳太子、推古天皇の墓は、竹内街道が通る太子町にあります。



間人皇女(はしひとのひめみこ)


大化改新を行ったのは、中臣鎌足と中大兄皇子と習いました。そして、中大兄皇子は天智天皇となります。しかし、本当に中大兄皇子は改革の信念を持ち、乙巳の変を主導したのでしょうか。中大兄皇子の行動を追って幾つもの不可解な出来事がついてきます。しかし、行動は一見首尾一貫しているようにも見えるのですが、そこには、必ず中臣鎌足の影が存在します。影が見えないのは、唯一、白村江の戦いだけです。
もしかすると、私達は中大兄皇子について大きな誤解をしているのかもしれないと考えるようになってきました。中大兄皇子の行動の原点は、世の中を良くしたいという強い信念ではなかったように思えるのです。もしかすると、日本書紀の編纂者による意図的な記載にあるのかもしれませんが、やはり、何かが違います。真実は中臣鎌足の傀儡であったのではないかとさへ思えるのです。
一番印象的な行動は、難波宮を捨て孝徳天皇のみを残し、飛鳥へ戻るという暴挙にでることです。この時、母親の皇極天皇迄は理解できるとしても、孝徳天皇の皇后であった間人皇女が中大兄皇子と行動を共にしたやはりどうしても不思議に思うのです。そこで、間人皇女を通して中大兄皇子を描いてみたいと思うようになりました。間人皇女と中大兄皇子の間には何があったのでしょうか。解説では、安曇野に残る伝説も紹介しています。



中将姫(ちゅうじょうひめ)


これ迄登場してきた人物が、すべて皇族であったのに比較し、中将姫を取り上げることはいかがなものかと最初は躊躇しました。しかし、天皇家を凌駕するような藤原家の中では、やはり様々な人間関係が渦巻いていることは確かです。藤原四家の当主が天然痘で相次いで亡くなった後、突然見えて来た権力の座を前にした時、やはりそこには一族の中での醜い争いの姿が映し出されます。その代表的なものが、藤原仲麻呂の盛衰であり、時を同じくして語り継がれた中将姫の伝説であったのではないかと思うのです。
ここまで、中将姫だけが時代を経て迄も大衆芸能の中において受継がれて来ているのは、藤原家を捨てた女性として、また、皇后の地位を棒に振って尼僧になることを選んだ女性として、判官贔屓の大衆の指示を受けるためだと思われます。
どのような筋にしようかと悩みましたが、歴史探求社としては伝えられている史実に合致した形で話を進めてみようと決めました。そして、人間関係を嫌い仏の道にのみ自分の存在意義を見いだす女性の姿を描いてみたいと思うようになりました。ちょっと上から目線であった中将姫が、全てを許す心境の変化が見せることができればと考え書き進めました。伝わる話とは違うと思われるかもしれませんが、単なる判官贔屓のお話は既存の歌舞伎や能で楽しんでいただければと思います。
中将姫の当麻寺は竹内街道の終点のすぐ近くに存在しています。