創られた日本史


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創られた日本史の中では、日本書紀に書かれた嘘を深く掘り下げて、真実の歴史はどのようなものであったかを示しています。持統天皇を生み出すための、藤原不比等による日本史の改竄は目に余るのですが、ここでは、そこから派生した、いくつかの話題をご紹介しさせていただきたいと思います。









聖徳太子


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聖徳太子は、皇太子であり摂政であったというのが、日本書紀の記述です。しかし、「摂政」とは、年少の皇帝を助けるために年長者が政治を代行することを言います。ですから、聖徳太子に対して摂政という言葉を充てること自体が間違っているのです。では、なぜ「摂政」になったのか。それは、聖徳太子の時代、摂政として活躍した人物がいて、そのことを記録した史書が存在したからです。では、だれが摂政であったかというと、間違いなく蘇我馬子です。そして、その時だれが大王であったのかというと、それは、推古天皇ではなく聖徳太子に他ならないのです。彼こそが、裴世清が面会した「アメノタリシヒコ」であったのです。
では、なぜ、彼が大王であったと言えるのか。「創られた日本史」の中では3つの証拠をあげています。一つは法隆寺夢殿の秘仏救世観音、一つは伊予 湯岡碑、そして、一つは唐本御影と呼ばれる聖徳太子を描いた肖像画です(右上の図)。この中に大王の証拠があるのですが、一万円札に転写された時には、意図的にその証拠が消されてしまったのです。関心のある方は、是非とも本を手にとって一緒に考えて見てください。



大化改新



「大化改新」は、今や存在しなかったと思われている方々が多いようですが、実際には大きな行政改革が実施されていたようです。ただし、それを実行したのは、中大兄皇子でもなければ、中臣鎌足でもありません。中臣鎌足は、出世意欲の強い神官に過ぎず、中大兄皇子に巧みにすり寄って中大兄皇子を焚き付けて、乙巳の変を実施し、蘇我入鹿を暗殺してしまった「悪人」と言ってもいいのかもしれません。
死の直前に、その功績に対して「藤原」の姓を賜ったように日本書紀には記述されていますが、それは、真っ赤な嘘。
「帝王編年記」の十巻には、次のように書かれているのです。
「その時大織冠(中臣鎌足)、我れ若しこの願いを遂がば、大中臣を改めて藤原姓を賜らんことを欲す。故は何となれば、藤花盛りの下にて皇子と談義するに依りてなり。本位の如く入鹿を誅し、天智天皇即位の後に大織冠ついに藤原姓を賜る。」
私には、これこそが真実であったように思います。葛城、平群、巨勢、蘇我等、大臣は皆自分の土地の地名を名前としている一族です。鎌足もまた、中臣から自らの地名を冠する大臣になりたかったのです。その地名が「藤原」です。残念ながら、彼には公地公民制の理想など語れるわけはないのです。公地公民制の理想を掲げたのは蘇我氏です。
中大兄皇子に近づいたのは、中大兄皇子に、「あなたは大王になれますよ」と持ちかけたからです。最初に、軽皇子こと孝徳天皇に持ちかけますが、軽皇子には相手にしてもらえませんでした。そこで、中大兄皇子に近づいたのです。

普通に考えるなら、中大兄皇子はお父さんが舒明天皇、お母さんが皇極天皇ですから、皇位継承権の最上位の人物であったように思えます。そんな彼が、危険を冒してまで蘇我入鹿の暗殺に手を貸したのはなぜでしょうか。



舒明天皇の嘘


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それは、お父さんの田村皇子が舒明天皇であったという嘘から始まります。日本書紀によりますと、推古天皇が病床にいる時、聖徳太子の子供の山背大兄王と、田村皇子(後の舒明天皇)の二人を呼んで、それぞれに遺言したということになっています。しかし、その遺言の中身は決して「あなたに皇位を譲る」というものではありませんでした。山背大兄王は、まだわかります。もともと、聖徳太子を皇太子にしていたと日本書紀は言っているのですから、聖徳太子が推古天皇より先に亡くなってしまっていますので、その子供に皇位を繋ぐというのは決して不思議なことではありません。
不思議なのは、田村皇子です。田村皇子のお父さんは、天皇ではありません。お爺さんが、敏達天皇であっただけです。お父さんは、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)です。そして、押坂彦人大兄皇子の長男は、茅渟王であり、次男が田村皇子です。茅渟王を呼ぶならまだしも、田村皇子は絶対にありえないのです。田村皇子が天皇ではなかったなら、なぜに孝徳天皇が生まれたのかも見えてくるのです。
孝徳天皇を立てることで、用明、崇峻と兄弟継承に移った皇位を引き戻すことができたのです。敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子こそが本当の天皇の系譜であったとすることができたのです。その上で、長男の茅渟王の長男である孝徳天皇が天皇位につきました。孝徳天皇の次は、次男の長男である古人大兄皇子が天皇になることができます。その、古人大兄皇子は中大兄皇子に殺されましたから、ようやく、中大兄皇子に順番が回ってくるのです。
皇位継承など夢のまた夢であった中大兄皇子を天皇位につかせる案を伝授した者こそが、中臣鎌足であったのです。皇位継承が正当なものであったと言うために、日本書紀では田村皇子は舒明天皇であったとされ、お母さんの宝皇女は皇極天皇であったとされたのです。徹底した偽装工作がなされたのですが、これこそが、中臣鎌足の子供、藤原不比等の策謀であったのです。まったくもって、とんでもない親子だったのです。