謎多き地から出土した謎を呼ぶ短剣 滋賀県上御殿遺跡

継体天皇誕生
現代に繋がる天皇の祖は、継体天皇であるという人は沢山います。新王朝と言われる継体王朝は、武烈天皇崩御の後、「日嗣なし」と言われる状況の中、大伴金村が中心となり「近淡海国」から応神天皇5世の袁本杼命(をほどのみこと)を迎えて、仁賢天皇の娘で武烈天皇の妹である手白髪命を娶らせて天皇としたと、古事記は記紀は記しています。「万世一系」を貫く天皇家の最大の危機であったことは間違いなく、慎重な上にも慎重に系譜を伝える日本書紀迄もが応神天皇から5代目という皇族とは思われない一族からの天皇を伝えています。この継体天皇の出身地だろうと言われている「近淡海国」の中の「三尾之別業」と言われた場所が、現在の滋賀県高島市安曇川町三尾里です。北に2km程行くと高台に、宮内庁が彦主人王の墓と言う「田中王塚古墳」があります。また南に500m程行くと鴨川を越えたところに、鴨稲荷山古墳があります。この古墳からは、金銅製の冠や沓が出土しました。両方の古墳とも、継体天皇の父彦主人王の墓の可能性があると言われている古墳です。
今回、8月9日の新聞紙面を賑わした「国内初の双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣の鋳型が見つかった」と報道された場所が、この滋賀県高島市安曇川町三尾里にある上御殿遺跡です。上御殿遺跡は、古墳時代から室町時代迄続く複合遺跡で、渡来系の人々が持ち込んだとされる建築様式の建物跡が見つかり注目されていた場所でした。この近辺には、上御殿のみでなく、御殿川、下御殿などの名前が残るだけに、継体天皇が生まれた場所であるのかもしれないと考えられてきました。
一方、今回の発掘報道は、それとは別のところに関心が高まりました。その土地から、弥生以前のものと思われる青銅器の鋳型が発掘されたためです。しかも、その鋳型が、これまで見たことも無いような短剣の形をしていたために大きな騒動となりました。形を検証する中で、「オルドス青銅器」の中で似たような形があったということになったものですから、話はどんどん膨らんでいったのだと推測します。
オルドス青銅器分布
オルドス青銅器は、内モンゴル地方、分かりやすく言えばモンゴル国の周囲で、万里の長城が築かれた北側に紀元前6世紀から紀元前1世紀にかけて、非常に進んだ青銅器文化が発達しました。この中で作られた短剣に似ているとなったことから、「春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の中国北方騎馬民族に使われていた」という報道につながりました。ご存知のように、青銅器は朝鮮半島を経由して弥生時代に日本に伝えられたと考えられていました。それが、銅剣であり銅矛、銅鐸等、日本仕様に変化していきました。古代、文化は全て朝鮮半島経由で伝えられたというのが定説になっていました。
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しかし、近年、稲作の伝播を考えた時、これは朝鮮半島から伝えられたのではなく、中国、それも揚子江の下流域から直接伝わったのではないかと考えられるようになりました。稲だけが伝えられても、稲作はできないことから、そこには民族の移動があったと考えられているのです。その上に、春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の青銅器が伝来していたとなったために、朝鮮半島を経由して文化が伝わる以前に、日本は中国から文化が伝わっていた、それも、近江であることから鯖街道を通って伝えられたのではないのか、と繋がり、「中国大陸から日本海を渡って上陸した新ルートの可能性」という非常に仰々しい報道に結びついていきました。
北九州地方からはじまり、文化は西から東へと伝わったというのが歴史の常識です。しかし、それでは説明しきれない文化の流れがあり、畿内で発達した文化は北九州から伝わったのではなく、若狭や敦賀から琵琶湖を経由して南下していたのではないかと考える人が多くなってきました。だからこそ、今回の「オルドス式短剣」が、とんでもなく注目を浴びることになりました。しかし、報道を見て首をかしげた方も多々いらっしゃったのではないかと思います。滋賀県文化財保護協会の発表した年代は、「弥生中期から古墳前期(紀元前350年~紀元300年)」なんと、650年も幅を持たせた内容でした。はっきり言うと、「出土はしたが、全くわからない」というのが現実なのです。
問題を複雑にさせているのが、この地の地名です。継体天皇と関係があるという「三尾野」の前に、「安曇川町」という名前が付いています。安曇川は琵琶湖に注ぐ川としては2番目に大きい川なのですが、この大きな川に「安曇」の名前が付きました。安曇一族は、海人であったというのが定説ですが、その出身は「呉」の王族であったと言われています。中国が春秋戦国時代に勃興した「呉」国は、「越」国に滅ぼされます。その時、海を渡って日本に定住したのが「安曇」氏だと言われています。この説は、全く信憑性がないわけではありません。中国の正史の一つ梁書倭国伝は、「倭者自云太伯之後」で始まります。これは、「倭の者は、自分達は太伯の後裔であると言う」です。太伯は「呉」の祖とされる人物です。同様の文章は魏略の逸文にも残るとされています。つまり、古来より、それは、奴国が金印を授かった時から、その人を中国の都に連れて行った人の中に、実際、「呉」の末裔がいたのではないかと考えられるのです。彼らは、中国に渡る海の道を知っていた、そして、交易を続けていたのではないかと推測されるのです。安曇一族であったかどうかはわかりませんが、「呉」の後裔であるなら稲作を伝えたことも説明ができます。
オルドス青銅器か
では、継体天皇は安曇一族だったのかという話に迄飛躍していきそうですが、残念ながら、そうはならないと思います。それは、出土した鋳型自体が「オルドス式短剣」ではないためです。オルドス青銅器文化は、非常に芸術的な発展を遂げた文化です。短剣と一言で言いますが、その柄には様々な動物が細工されているのが普通です。また、柄の部分は、実用性を勘案し通常は握りやすい工夫がされています。今回の鋳型で作られる短剣には、それらのものが何もありません。「双環柄頭」すなわち、柄の先端に丸い輪が二つついているのですが、輪がついているだけで、それが装飾を施した結果ではないのです。握りの部分も単純な文様が刻まれているだけ、発掘される「オルドス」のものと較べると、大人と子供の差が存在します。見る限りにおいて、単純な短剣の鋳型にすぎません。弥生の末期、ここに住み着いた人々が、青銅器を加工する技術を持っていたことは注目すべき内容ですが、それ以上膨らませる内容ではないのです。
ただ、この高島市には、この安曇川の扇状地の端に、熊野本遺跡が存在します。3世紀初頭に作られた前方後方墳や円墳もさることながら、非常に大量の鉄が出土しました。鉄器の工房跡ではないかと見られている遺跡が存在します。間違いなく、渡来人が住み鉄生産を伝え、供給地として発達した場所であったと考えられます。だからこそ、福井の三尾氏が別邸を構えて管理しようとしたのではないでしょうか。そして、その地を傘下にいれていた三尾氏に支えられた継体天皇が存在したのだと思われます。