後漢の王霊帝の末裔が支えた蘇我氏の世 新沢千塚古墳群

奈良県橿原市は、日本初代の天皇とされる神武天皇を祀る橿原神宮があります。
マップ
その北には、神武天皇陵がありますが、その2つの間に分け入るかのように大和三山の一つの畝傍山(うねびやま)があります。古事記には、神武天皇が作った宮は「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と書かれていましたので、畝傍山の近くだろうということでいろいろ調査され、明治時代に今の橿原神宮のあった場所が選定されました。また、神武天皇の墓は、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は畝傍山の北方の白檮(かし)の尾の上に在る也、とのことですから、これまたいろいろと検討されて、ミサンザイと呼ばれていた墓が選定され整備されました。
さて、この畝傍山の西南の丘に、一辺が2キロメートル四方の古墳地帯があります。これが、「新沢千塚古墳群」です。「千塚」という名前が示す通り、そこは古くからの群集墳があった場所ですが、現在確認されているだけで、600基の古墳が存在します。ほとんどが、土饅頭と言われる直径10メートルから15メートルの円墳です。最初の古墳は、4世紀末に作られたようですが、多くが5世紀中旬から6世紀末までの間に築造されたものです。藤原京の造営時に、残念ながら一部削られて潰されてしまったものもあるとされています。私が知っている限りにおいて、「新沢千塚古墳群」は、日本で最大の群集墳だと思います。
その中の一つの126号墳は、5世紀後半の築造とされる一辺が20メートル前後の方墳です。ここからは、大量の装飾品以外に、日本史上初の火熨斗(ひのし)、つまり、アイロンが出土しました。また、西域から新羅経由でもたらされたと見られる希少なローマンガラス製品が出土しました。
そして、2014年7月。このローマンガラス製品を東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らが蛍光X線分析を行った結果、出土した円形切子(きりこ)ガラス括碗(くびれわん、口径約8センチ、高さ約7センチ)の化学組成は、ササン朝ペルシャ(226651年、現在のイラン・イラクなど)の王宮遺跡で見つかったガラス片(5〜7世紀)とほぼ同じことが判明しました。
ペルシャガラス

これにより、当初、新羅と非常に強い関係のある人間が埋葬されていたと考えられていましたが、そんなものではない。非常に由緒正しき権力者か、権力者の家系に育ったで有ろう人が埋葬されているということがわかったのです。
では、その埋葬者とは一体誰なのでしょうか。一辺が
20メートルの方墳は、天皇の墓ではありません。方墳をつくることができるだけの有力者であり、かつ、群集墳を構成するだけの一族であること。加えて、天皇に匹敵する程の宝物を手に入れられるような人でなければなりません。そのような人がいるのでしょうか。
この新沢千塚古墳群の東には、桝山古墳(ますやまこふん)があります。崇神天皇の子供である倭彦命(やまとひこのみこと)の墓とされています。日本書紀の中では、倭彦命が死んだ時、殉死する家臣を生き埋めにしたら、数日間土の中から泣き叫ぶ声がしたため、以降、殉死を禁じたとされる話がでてきます。宮内庁の管理になっていますが、殉死の跡があったのかどうか非常に興味のある墓ではあります。
しかし、この古墳は、5世紀前半に作られた、一辺が約90メートルの日本最大の方墳でした。「でした」という過去形なのは、幕末に陵墓の補修という名目で、この方墳を前方後円墳に無理矢理かえてしまったのです。ですから、航空写真でみると、奇麗な前方後円墳の形をしています。良かれと思って、やったのでしょうが、「一番やってはいけないことをやってしまった」ようです。嘆かわしい限りです。
第一、5世紀に築造された古墳であるなら、崇神天皇の時代からは大きくずれています。倭彦命が実在していたとしても、その墓ではないのです。やはり、ここも新沢千塚古墳群と同じ一族の人の墓であるのではないでしょうか。
この新沢千塚古墳群の近くには、継体天皇の子供の宣化天皇の墓があります。兄の安閑天皇の墓は、大阪の古市古墳群の中にあり非常に不思議な気がするのですが、宣化天皇の宮とされる檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)は明日香村ですから、さほど離れていませんので、ありうるかなとも考えます。もし、宣化天皇であるとするなら、この新沢千塚古墳群は、それを支えた大伴金村の一族の墓であった可能性は大いにあります。出土する豪華な副葬品からも、ここを大伴氏の群集墳と言われる方は多いようです。しかし、どうして大伴氏がササン朝ペルシャの碗を手にすることができたのでしょうか。それを説明する理屈はなかなかつけられなにのではないでしょうか。
大伴金村
そもそも、大伴金村は、欽明天皇によって、百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚させられたとき、摂津国の住吉郡に籠ってしまいます。また、住吉郡にある帝塚山古墳は、有名は大伴金村の墓とされています。大伴氏の本貫は、天香具山の北側で、三輪山の西の地域でした。大王家に接するように領地を持っていました。新沢千塚古墳群や、桝山古墳、宣化天皇陵の土地は、大伴氏ではなく蘇我氏の領地です。もし、その土地の支配者から考えるのであれば、大伴氏ではなく、蘇我氏であってしかるべきです。
ただ、蘇我氏の墳墓は現在の明日香村に展開しています。そこで考えられるのが、乙巳の変の時、蘇我邸を守っており最後迄蘇我氏のために戦おうとした東漢氏(やまとのあやうじ)です。日本書紀の応神天皇の段に、「倭漢直の祖の阿智使主(あちのおみ)、其の子の都加使主(つかのおみ)は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」と書かれています。そして、東漢氏は大和国高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだとされています。檜隈寺(ひのくまでら)跡からみると、北西の方角に3キロぐらい離れた場所に新沢千塚古墳群が存在します。東漢氏の子孫は、日本全国に広がりましたが、宗家はこの地で代々高市郡を治めていたと考えられます。自国から多くの人を呼び寄せ、ヤマト政権の基盤作りに多いに貢献した人々でありました。
続日本紀によりますと、東漢氏出身の下総守(しもうさのかみ)坂上苅田麻呂(さかのうえの かりたまろ)が言ったこととして、「阿知使主(あちのおみ)は後漢の皇帝であった霊帝の曾孫であり、帯方郡からやってきた」と記録されています。後漢は霊帝がなくなると、子供の劉弁へ、このとき異母弟の劉協は渤海王に封じられます。劉協は、この後直に「献帝(けんてい)」となり後漢の皇帝となりますが、群雄割拠の時代へと突入しご存知の方も多い「三国志」の世界が展開します。
霊帝の曾孫とは、誰の子供であったのかを指しているのかわかりませんが、帯方郡から来たというのであれば、劉協が渤海王の時の子供なのかもしれないと考えます。いずれにしろ、中国は動乱の時代に入りますので、日本に多くの人々が移って来る良いタイミングであったことも確かだと思います。私は、これは事実ではないのかとも感じるのです。百済や新羅、高句麗と言わず、帯方郡からやってきたというところにも、真実の香りがして仕方がないのです。阿知使主の直系の子孫に対し、天武天皇は「忌寸(いみき)」の姓を与えています。これは、八色の姓で上から四番目のものです。ここからは、想像の域を出ないのですが、続日本紀の記載から見るにつけ、私は、阿知使主は帯方郡の王家(王という言葉は適切ではないですが)であったのではないかと推測するものです。
つまり、「三国志」の英雄からはじかれた一族が、日本で蘇我氏を盛り立て新たな国づくりをしていたというのが事実なのではないかと考えるのです。そうであればこそ、その後無謀にも中国(隋)と対等につきあおうとした聖徳太子が作ったと言われる書状「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という言葉に、繋がっているのではないかと思うのです。中国の皇帝にへりくだる筋合いなどないのであるという根拠がここに存在しているのです。
私の整理としては桝山古墳は後漢の王霊帝の子孫である阿知使主(あちのおみ)、そしてササン朝ペルシャのガラスが見つかった
126号墳は、その子供であった都加使主(つかのおみ)なのではないかと推測するのです。東漢