小札甲を身に着けた男性人骨発掘

毎日新聞 2012年12月10日 20時40分(最終更新 12月10日 21時56分)
毎日新聞の報道が、やはり一番詳しいので、まずは、その報道をそのまま紹介させていただきます。写真は、FNNの報道から抜き取りました。
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 群馬県埋蔵文化財調査事業団は10日、同県渋川市の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、6世紀初頭(古墳時代後期)の火山灰の地層から、よろいを身に着けた成人男性の人骨が見つかったと発表した。古墳時代のよろいが副葬品ではなく、人が実際に装着した状態で出土したのは全国初という。近くの榛名(はるな)山二ツ岳の噴火で火砕流に巻き込まれたとみられ、同事業団は「当時の生活や習俗、災害について知ることができる貴重な手がかりとなる」としている。
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 金井東裏遺跡は榛名山の北東約9キロ。同事業団が国道バイパス建設工事に伴い発掘調査したところ、人骨は幅約2メートル、深さ約1メートルの溝の中で、後頭部や腰骨以外のほぼ全身の骨が残った状態で見つかった。よろいは背中側が露出しており、高さ60センチ、幅50センチ。多くの小鉄板が重なり合っており、長方形の鉄板を革ひもでくみ上げた「小札(こざね)甲(よろい)」と判断した。
 榛名山の方向を向き、膝を折った状態でうつぶせに倒れていたことから、同事業団は
火山から逃げようとしたのではなく、山の怒りを静めるため、よろいを着て儀式を執り行っていた可能性もある」と推測する。
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 また当時、小札甲を作る工房は近畿にしか見つかっておらず、県内でも小札甲が副葬品として出土しているのは支配者層の古墳に限られていることから、「大和王権とつながりが深い、政を担うような首長など地位のある人物だったのではないか」とみている。同遺跡の西側にある同時代の金井丸山古墳からは、副葬品として鉄剣3点が出土しており、男性と関連がある可能性があるという。 このほか、近くから生後数カ月の乳児の頭骨や鉄製の矢じり十数点も見つかった。複数の人が火砕流に巻き込まれたとみられる。
 榛名山の周辺では、金井東裏遺跡から約1キロ離れた国指定史跡の黒井峯(くろいみね)遺跡と、約4キロ離れた県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡が、同じく6世紀に榛名山の噴火で埋没しており、両遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれている。【奥山はるな、庄司哲也、塩田彩】



歴史探求社解説

報道を聞いて、まず、群馬県埋蔵文化財調査事業団の方の推測に驚きました。どうして、こうも貧困な発想しか出てこないのか。噴火した火山を前に火山灰を被りながら、山の怒りを鎮めるために、鎧を着て儀式を行っていた等あるはずがないでしょう。鎧を着たのは、火山弾から身を守るためであったでしょうが、飛んでくる火山弾から身を守ろうと伏したところを火砕流に巻き込まれたと考えるのが普通なのではないのでしょうか。シャーマンでもない、一介の兵士が噴火した火山の山の怒りを鎮める儀式を行う等、ありえない話です。
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金井丸山古墳は、5世紀末から6世紀と推定される古墳です。榛名山の噴火記録は、6世紀初頭と中頃ですので、もちろん時代としては6世紀初頭、継体天皇の御代であったと思われます。継体は近江からきた皇統としては非常に薄い天皇と考えられています。さきたま古墳で出土した鉄剣に刻まれていた文字は、5世紀中頃の雄略天皇の存在と大和朝廷の力が関東迄及んでいることをしめすものでしたので、関東地方の北側迄大和朝廷の力が及んでいることには驚きませんが、この発見により大きな物証となることは間違いありません。ちなみに、小札甲(こざねよろい)の発祥は、朝鮮半島になります。参考迄に小札甲(こざねよろい)の図を添付しておきます。