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キトラ古墳の埋葬者は、阿倍御主人なのか?

奈良県明日香村にあるキトラ古墳の石室が初めて一般公開されることが決まりました。8月18日から25日の1週間です。壁画が見つかってから公開されるまでに要した時間は30年。悲しくなるくらい長い時間をかけて、1週間だけ公開するというということです。これだけ科学技術が進んでも、壁画の劣化を食い止めることはできないのでしょうか。様々な修復技術や保管設備を輸出してはいても、古代から残された芸術品を最高の形で保管展示できる技術がないのでしょうか。少し、いたたまれない気持ちを感じずにはいられません。
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さて、このキトラ古墳ですが、その石室には貴重な壁画が描かれています。文化庁によって、キトラ古墳から1km程は慣れたところに存在する高松塚古墳とともに、描かれている壁画をどのように保存するかの作業への取り組みが行われてきました。
両古墳とも、700年頃のものだと言われています。キトラ古墳のほうは、直径10m弱の2段式の円墳であり、高松塚の方は同じ2段式の円墳ですが、大きさはキトラ古墳の倍以上の大きさがあります。高松塚は天武天皇の皇子のうちのだれかの墓ではないかと言われており、キトラ古墳はいくつかの説があるものの、大きさからは皇族ではないのではないかと言われ、阿倍御主人(あべのみうし)ではないかという説が有力となっています。キトラ古墳がある場所が、阿部山の南斜面です。阿部の名前を残すことから、阿倍御主人説が生まれてきました。
阿倍御主人は、壬申の乱の時に大海人皇子側につき、その功績によて天武天皇に取り立てられ文武天皇の時には、従二位の右大臣となり703年に亡くなったとされています。
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この阿倍御主人は、竹取物語の中にも登場します。「右大臣阿倍御主人は、財豊かに家広き人にておはしけり。」と紹介されます。竹取物語では、かぐや姫から「火鼠の皮衣」を持って来るように言われ、手に入れるために小野房守という後見人を唐に派遣し、唐の貿易商の王慶に見つけて来てくれと頼みます。自分で探そうという誠実さのない金持ちとして皮肉をこめて書かれています。王慶は天竺の役人に賄賂を積んで手に入れるのですが、かぐや姫の元に持っていくと、燃えないはずの火鼠の皮衣が燃えてなくなってしまいます。大金に物を言わせても、かぐや姫を得ることはできませんでした。「なごりなく燃ゆと知りせば皮衣 おもひの外におきて見ましを」かぐや姫は、「燃えると知っていれば火にくべたりしないで見ていたのに」と、また、輪をかけて皮肉な歌を阿倍御主人に返します。阿倍御主人はとぼとぼと帰っていくのです。
竹取物語は、平安時代890年頃の作品ではないかと言われていますが、登場人物は全て700年頃に存在した実在の人物です。車持皇子は藤原不比等であると言われていますし、右大臣であった大伴御行、左大臣になった石上麻呂も実在する人物です。これらの人々は皆、700年頃に栄華を誇った同時代の人物なのです。そう考えると、描かれた人物像には真実味があり、阿倍御主人とはとんでもないお金持ちであったのかもしれません。
財力を持って、手に入れられない物を手に入れた人という目で見るなら、石室に描かれた壁画は、当時のほとんどの人が手に入れることのできなかったものであることは確かです。キトラ古墳の内部には幅約1メートル、長さ約3メートル弱、高さ約1メートル強の石室があり、全面に漆喰が塗られ、壁画が描かれています。この壁画が大変貴重なものであり、東西南北の四つの壁の中央に四神である青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていました。この四神の下にも獣面人物像が描かれていると言われています。十二支を示すのではないかと報道されていましたが、壁面の損傷が大きいことから、現段階で何体の絵が確認されたかは定かではありません。四神は、元来中国の神話に登場する霊獣です。それぞれの方位を守る神であり、日本でも非常に親しまれています。例えば、現在NHKのドラマで「八重の桜」が放送中ですが、先日の放送で討ち死にした会津の子供達の隊の名前は白虎隊でした。ちなみに、会津では50歳以上を玄武隊とし、以下、青龍隊、朱雀隊、白虎隊と年齢別に組織したようです。数年前、平城京で復元されたのは朱雀門でした。もちろん、平城宮の南門です。そこから真っすぐのびる道は朱雀大路と名付けられていました。これだけを見ると、四神を描かせた石室を持つことに財力の大きさを感じずにはいられません。最高の守り神に守られて眠っているのは、阿倍御主人かもしれないと思えるのです。
キトラ古墳の天文図
しかし、キトラ古墳の注目すべき壁画は、この四神と獣面人物像の十二支だけではありません。天井の中央には、天文図が描かれているのです。星座や黄道(太陽の道)など本格的な天文図が描かれ、太陽や月も描かれていました。キトラ古墳から約1キロ離れたところにある高松塚古墳の壁画には、星宿図と呼ばれる、東西南北に7つずつ28宿(星座)が書かれていましたが、キトラ古墳に書かれていたのは、なんと68の星座と、350の星による本格的な天文図です。星宿図は観念的なもので実際とは異なる配置ですが、キトラ古墳の天文図は黄道円や、赤道円も書かれており実際の観測図なのです。そして、注目すべきは、沈まない星を周極星と言い、この周極星の限界円を内規円と言いますが、この内規円も描かれていることです。北極星を中心とした沈まない星は場所によって違いますから、内規円を調べれば、どこで観測したかがわかります。そして、キトラ古墳に描かれていた内規円を分析すると、北緯38.4度付近で観測されたものであることがわかったのです。明日香村は、北緯34.5度です。中国の都である長安や洛陽は、明日香と同じ緯度であることが知られています。38度線は、朝鮮半島の軍事境界線です。それより北。例えば、平壌は北緯39度となります。つまり、観測された場所は高句麗であったのです。
阿倍御主人の墓であるなら、なぜ、平壌近くから見える天文図を描く必要があったのでしょうか。ここに、明日香の地から見える天文図が描かれていたとするなら、死んでからも明日香で見ていた空を見れるようにという願いが込められているのではないかと考えますが、描かれているのは高句麗の星空です。
668年の唐により、高句麗は滅亡し、王族を始め多くの高句麗の人々が日本に渡ってきました。埼玉に高麗郡が開かれ1799人が移されたのは、716年。それ以外にも、王族としてこの明日香の地に留まった一族がいたのではないかと思います。阿部山の斜面に築かれていますから、当時、力のあった阿部氏の庇護を受けたのかもしれません。逆に天文の知識が、阿部氏を押し上げる働きをしたために、重用されたのかもしれません。「キトラ」と呼ばれた高句麗の王族が亡くなった時、この地に住み着いた一族が、戻ることのできなかった故郷の空を見ていられるようにと描かれたのが、この天文図ではないかと思えるのです。
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北朝鮮の南浦市にある高句麗末期の王墓と言われる江西三墓の大墓があります。国交のない北朝鮮ですが、この王墓を見るツアーが存在し、日本からも何名かが参加され、インターネット上で、その王墓に描かれている壁画を紹介してくれています。描かれている玄武の絵と、キトラ古墳の玄武の絵を見比べてみてください。実在しない霊獣は描く人により全く異なるのですが、構図が全く同じなのです。
私は「キトラ」古墳に眠るのは、滅んでしまった高句麗から日本に渡って来た王族であるのではないかと思うのです。玄武の絵がそれを物語るとともに、天井に描かれた天文図に、日本で亡くなった高句麗の王族への想いが託されていると考えるのです。