八角形の世界 牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳
奈良県明日香村教育委員会は、牽牛子塚古墳について、発掘調査報告書を発表・発売しました。牽牛子塚古墳は、対辺の長さは約22メートル、高さは4・5メートル以上で、7世紀の天皇の墓に特徴的な八角形をした八角墳です。この報告書によれば、築造には延べ1万7000人、完成までには約2万人の労働者が携わったと推計されています。この数字を用いて、マスコミ各社は、「被葬者の権威を示すもので、斉明天皇の墓説を補強するものとなった。」とし、牽牛子塚古墳こそが、斉明天皇の墓であると報道しています。
斉明天皇は、中大兄皇子の母親。645年の乙巳の変の時の天皇(この時は、皇極天皇)であり、その後、孝徳天皇が死ぬと重祚し、斉明天皇となった人です。中大兄皇子を太子のままにし、嫌な役回りを一身に引き受けていたような親ばか振りを見せていたかと思えば、土木工事がなによりも好きで、659年には石と水の都を造り「狂心の渠(たぶれごころのみぞ )」と揶揄された人でもあります。土木工事好きの彼女だからこそ、延べ2万人を用いて自分の墓を築いたのではないかと言われる人もあるのかもしれませんが、日本書紀には、まったく逆の記載が残っています。天智天皇は斉明天皇の命令を守り「大工事はしなかった」と記載されているのです。この記載が事実であるとするなら、大工事を必要とした牽牛子塚古墳は、斉明天皇の墓ではないということになります。現在、宮内庁は奈良県高市郡にある車木ケンノウ古墳が、斉明天皇の墓であると治定しています。車木ケンノウ古墳は、45mの円墳です。
野口王墓古墳
今回の報告書の中で、八角墳について論じる一環として、野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)の全体構造について宮内庁がまとめた論文が掲載されました。宮内庁が管理する天皇陵の調査記録を外部の報告書に掲載するのは初めてのことであり、こちらもニュースになりました。
しかし、この宮内庁の報告で、野口王墓が八角墳であることがはっきりしました。これで、斉明天皇から見れば、夫の舒明天皇が八角墳、その子の中大兄皇子こと天智天皇が八角墳、弟の大海人皇子こと天武天皇が八角墳ということがわかりました。ここで、斉明天皇だけが家族の中でたったひとり円墳というのは、どう考えてもおかしい話です。牽牛子塚古墳はこの意味からも斉明天皇の墓であると思われます。中大兄皇子の妹であった間人皇女(はしひとのすめらみこ)は、斉明天皇に合葬されたとされています。牽牛子塚古墳も最初は、円墳とされていました。車木ケンノウ古墳をきちんと調べて、牽牛子塚古墳と比較することも大切なのではないかと思います。
この八角墳は、舒明天皇が最初です。
どうして、八角墳になったかを考えてみたいと思います。八角墳は道教思想に基づく物であるというのが、定説のようになっています。推古天皇が崩御した後、天皇の後継者は田村皇子(舒明天皇)と山背大兄皇子(聖徳太子の子)でした。時の治世者であった蘇我蝦夷は群臣にはかって田村皇子を選択します。蘇我蝦夷は、敢えて蘇我氏の血の入らない舒明天皇を選択したのです。ご存知のように、蘇我氏と聖徳太子は仏教推進派でした。用明天皇以降、国は仏教に邁進します。遣隋使、遣唐使が送られ、盛んに中国の知識や文化が取り入れられたのもこの頃です。中国においては、隋の時代には、仏教と道教は儒教とともに重んじられました。仏、道、儒の順でしたが、唐の高祖になると道教を国教とし仏教には否定的になりました。これは、仏教が民衆から財貨を取り上げる量が多く、世の腐敗に繋がると判断されたからだとされています。この考え方は、則天武后迄続きました。先進の中国が仏教を排し道教へと傾いていること。加えて、舒明天皇にとっては、対抗する山背大兄皇子に抗するためにも、仏教でなく道教を重んじる必要があったのではないかと推測します。蘇我=仏教という世の認識があったでしょうから、舒明天皇のみでなく、蘇我を敵視した中大兄皇子が道教思想を取り入れようとしたことは非常に理解できることなのです。つまり、八角墳の登場には、反蘇我の影がちらついているのです。
道教の影響により八角墳になったと考えると、反蘇我氏のようなものとの関連が見えてきます。しかし、本当に道教の影響からなのでしょうか。
占いの中に、八卦(はっけ)があります。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の八卦です。相撲では、行司が「はっけよい」と言います。これは、「八卦よい」です。この八卦は、易経(えききょう)の中で定義されています。易経は、儒教の教典のひとつで、古代中国の哲学書と言いますか、森羅万象を全て包含する広大な思想体系を表した本です。易経があって、儒教や道教がそれを取り込んでいったと考える方が正しいのかもしれません。
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八卦では、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の8つに、方位や自然、家族や、体の部位を当てはめて運勢や吉凶を占います。その中でも方位学は、大きく展開していきます。東西南北にその中間を足して、八方位として捉えられるようになります。八極や、八柱という概念が生まれ、近代のことだとは思いますが宇宙観迄も巻き込んでいくようになります。八が全ての方向を示すという考え方は、古代から延々とあったのだろうと思われます。日本書紀ができたのは、天武、持統の頃ですから、そこには、墓に使われた八が多用されます。大八島国であった日本、八咫烏に導かれた神武天皇、三種の神器は、八咫鏡、八十握剣、八坂瓊勾玉。全部八です。八幡神、八百万の神々、八は宇宙を支配する数字なのかもしれません。現在でも、天皇が即位される時入られる高御座や、皇后が入られる御帳台は、どちらも八角形なのです。
この八角形の中心に眠ることは、宇宙の中心に眠ることにつながるのです。

白村江の戦いに翻弄された一族 大野城市王城山遺跡

新羅土器
5月15日福岡県大野城市教育委員会の発表によれば、東部の乙金山の麓にある王城山遺跡で6世紀から7世紀中頃の新羅土器2点が新たに出土しました。これで、同遺跡の新羅土器の出土は、全部で8点となり、日本最多となりました。発掘されたのは、高さ17センチ程の壷の半分と、液体を入れる容器の瓶(へい)の破片になります。壷には、新羅土器の特徴であるスタンプ円文がと、ヘラで書いた三角形文を見ることができます。この土器は、7世紀前半から中頃のものとされています。発掘場所は、円墳の入り口で、打ち割ったような状態で発見されたことから、墓前祭祀で使われたのではないかと見られています。
大野城市
大野城市と言えば、「水城(みずき)」のあるところです。ご存知のように、日本は663年に白村江の戦いで、百済を救うため唐・新羅の連合軍と戦いますが大敗します。中大兄皇子は、唐・新羅が日本に攻め込んでくることを想定して、664年に水城を、そして665年には大野城を、この大野城市に築城します。そして、667年には都を近江大津宮に移しています。
この後、668年には唐は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を全て征服します。冊封(さくほう;宗主国と朝貢国との関係、主従関係)を受け従った新羅は、その後、唐に反旗を翻したり冊封を願い出たりしながらも、675年には朝鮮半島を統一する大国となっていきます。
今回発掘された新羅土器は7世紀中旬のもの。
白村江の戦いが行われる前のものです。もちろん、土器はその後何年も使われることも考えられますので、一概に白村江の戦いの前であるとは決めつけられませんが、同様に出土した土器類が全て6世紀から7世紀中旬迄のものですので、作られて時間をおかずに祭祀に使われたのではないかと考えられます。
土器が作られた頃の新羅は、百済に攻め込まれ唐への援助を求めるもののなかなか協力が得られず、四苦八苦していました。新羅が力をもってくるのは、金春秋(後の、武烈王)による活躍迄待たなければなりません。
土器が出土した王城山遺跡の近くには、窯が発掘されています。須恵器を焼いた跡が見つかっており、この地域に多くの新羅からの渡来者が住んでいたことがわかります。日本書紀には、649年朝貢の使者として金多遂が新羅からやってきたことが記されています。反新羅の機運は高まるものの、国内では打倒新羅のような行動は、まだ、起きていなかったことがわかります。
しかし、白村江の戦いを境にして、彼らの立場はどのように変わったのでしょうか。安定した生活をおくることができたのか、または、敵国奴として迫害にあったのか、はたまた、戦勝国側として大きな権力を得ていったのか。場所が水城や大野城の近くだっただけに、残された彼らがたどったのは、過酷な
運命であったのではないかと思われるのです。
大野城市の乙金地区の遺跡発掘調査では、古墳時代の集落跡は発見されていますが、奈良時代には小規模な集落跡となり、平安時代の跡はよくわかっていないとのことでした。12世紀末以降になると、水田跡や再び集落跡が出現しています。ぽっかりあいた期間、乙金に住んでいた新羅の人々は全国に活躍の地を求めて散らばっていったのでしょうか。もしかすると、白村江の戦いの直後に滅ぼされてしまったのかもしれません。
ただ、7世紀末から8世紀になると日本中のあちこちで、新羅人が活躍し、日本の建国に大きく寄与していくことは事実です。ここで出土した同じ図柄の土器が、どこかで出土しないかを楽しみにしていたいと思います。

古代の道はロマンに続く 「中ツ道」遺構の発掘

中ツ道の発掘
奈良県立橿原考古学研究所が5月11日に発表した内容によると、奈良盆地を南北に縦断する古代の幹線道路の一つ、中ツ道(なかつみち)の路面跡が、藤原京跡(同県橿原市)の北端から北約10キロの地点の奈良県天理市喜殿町で見つかりました。新たに見つかったのは道路部分の東端一部(南北約15メートル、最大幅3メートル)で、それに沿うように側溝(幅約2・2メートル、深さ約70センチ)も確認されました。合わせて、等間隔にあいた8つの穴も確認されましたが、用途はわかっていません。
奈良盆地には、南北に古代の幹道として、「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の3本の直線道路が4里の間隔(約2.1キロ)で並行し、藤原京と平城京を結んでいたとされています。これを大和三道と言います。東西には、摂津や河内からつづいてくる道として、一番北側には平城京へそのまま入っていく暗越の道。真ん中には龍田道が法隆寺の近くに入り、その後東西にまっすぐになる北の横大路、一番南には、大津道や丹比道(竹内街道)と繋がる横大路と呼ばれた道が整備されていたとされています。
南北の3本の道のうち、最も活用されたと思われるのが、一番西側にある「下ツ道」です。ちょうど奈良盆地の中央を南北に走る道であり、平城京の中では朱雀大路となる、まさしく本道とも言える道です。道路の規模は34.5メートル、路面幅は18メートルあったといわれる道で非常に大きな道路でした。
一方、最も東側にあった「上ツ道」は、箸墓古墳や西山古墳を結ぶ道です。江戸時代には、上街道と呼ばれていました。この道も長く使われた道です。今も伊勢街道とも呼ばれて活用されています。この道の東にも、有名な山辺の道と言われる道が今でも残っています。ハイキングコースですので、歩かれた方も多いと思いますが、所謂山道のひとつです。

大和三道
今回、遺構の発見された「中ツ道」は、幻の道と言われていました。ほとんど形跡が残らず、「存在したと言われている」という表現で示されてきました。平城京は、東に小さな出っ張りを持ち東大寺迄続いていたのですが、その出っ張りの西側の端が、この「中ツ道」になります。そこから、真っすぐに南に下る道です。西名阪自動車道の東側を通り、今回の発掘があった天理市喜殿町を県道51号線と隣り合うように走っていたと思われます。近鉄前栽駅の東を抜け、村屋神社、竹田神社を抜けて、大和三山のひとつ香具山にぶつかります。しかし、ここでで終わるのではなく、蘇我氏の甘樫丘の東を抜け、飛鳥寺の真横を通り抜け、飛鳥板蓋宮の西側を抜け橘寺の近く、即ち、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)迄続きます。飛鳥板蓋宮は皇極天皇が営んだ皇居で、乙巳の変の舞台です。飛鳥浄御原宮は、天武天皇と持統天皇が営んだ宮です。つまり、この中ツ道は、平城京が築かれる前迄は、最も重要な道であったのです。
この道がいつ頃作られたかは定かでは有りません。孝徳天皇の時、653年に「処処の大道を脩治る」と日本書紀に書かれていますから、この時作られたのかもしれませんが、孝徳天皇は難波に目が向いていましたから、大和三道が作られたどうかはわかりません。
672年の壬申の乱の時、大和の戦場として「将軍(吹負(ふけい))が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々やってきた。そこで、軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配備した。」という記述があります。従って、この時には、できていたと考えることができます。もしかすると、天智天皇に呼ばれた大海人皇子が、近江の宮を脱出し、吉野に逃げ込む時もこの道を使ったのかもしれません。
そして、持統天皇が遷都したのが、日本史上最初で最大の条坊制(じょうぼうせい)を布いた都城である、藤原京です。横大路、下ツ道、中ツ道の間に藤原宮を置き、25平方キロメートルを越える巨大な宮でした。(平安京や、平城京より大きいものでした。)この藤原京に遷都したのが、694年。そして、平城京への遷都が710年。つまり、藤原京迄に整備された、大和三道を真っすぐ平城京へと延ばすという大工事が行われたのです。
藤原京に作られた建物は、未だ新しいままでしたので、建物を解体し、瓦や柱等の木材、それに敷石も平城京に運び再利用されることになりました。この時、中ツ道は、当初16mであった道幅が約28m (一説によると23m)まで拡張されることになりました。
今回発掘された報告によると、路面は、粘土を平らにならした上に砂混じりの土(厚さ約10センチ)を突き固めていたとされています。平城京の築造にあたっては、運搬用の台車が、何度も何度も、まさしく砂煙を巻き上げて、藤原京から資材を運んでいったことと思われます。通行量も、想像を絶するような量であったのではないでしょうか。この結果、藤原京側には、ほとんど建物が残らなくなったのではないかと思われます。
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平城京の築造が終わると、この道はそれ程活用されなくなっていきます。但し、平安時代に吉野詣で流行すると再び活気を取り戻します。藤原道長もこの道を経て吉野へ向かったと御堂関白記には記されています。
平安時代の末には、水害によりこの道は埋没してしまったと言われています。1000年以上の歴史を経て見つかった、古代の歴史を刻んだ道の発掘は、太古の昔に起こった出来事を彷彿させ、大いなるロマンを感じさせてくれるのです。

木簡が語る天智天皇への和珥氏の画策 近江国府跡

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4月24日に大津市教育委員会は、近江国府跡の菅池遺跡で見つかった木片2本が、近江国府が作られたとされる8世紀よりも前の、7世紀中頃のものである可能性が高いと発表しました。木片を奈良文化財研究所(奈良市)に依頼し赤外線撮影で調査したところ、大きい方には両面に「命」「何」「久」などの文字が確認でき、文意は不明だが何らかの文書に用いた可能性が高く、小さい方は、片面に「皮」のほか、「乎」や「尓」と見える文字があり、万葉仮名で歌を記した可能性があるとのことです。非常に文化的に進んだ建物もしくは、組織がこの地に存在したことを示す物ですが、記載された文章はともかく、近江地方の謎の解明に一石を投じていることは確かです。
近江国府がおかれたのは、8世紀中頃のこととされています。794年には、平安京ができます。平安京に隣接する近江国府の位置づけは益々重要度を増したことと思われます。北陸や東国から都を入る関所のような役目をもったのかもしれません。歴代の近江守の中に藤原仲麻呂の名前があります。それだけでも、存在の重要性は窺い知れます。条理の跡や、倉庫群の跡、廃寺の跡等、次々と出てくる遺跡の数々は、その大きさや立派さにも驚かされます。8町四方あったとか、9町四方あったなどと(一町は109m)発掘の度に国府の大きさも大きくなっていっています。
この、木片が7世紀中頃というのは、かなりドキドキする年代なのです。
663年白村江の戦いに負けた天智天皇が、667年に遷都したのが近江大津宮でした。こうるさい者共が多かった飛鳥を離れたいという意識があったのかもしれませんが、どう考えても一番大きな要因は、唐が瀬戸内海から攻めて来ても、琵琶湖を使って逃げることができるという交通の要地であったためだと思われます。頭の中では、琵琶湖の北岸から敦賀を抜け、日本海を北に登ろうと考えたのかもしれません。しかしながら、なぜに大津でなければならなかったのかという本当の理由は、全くわかっていないのです。木片の年代が、この近江大津宮の設置よりも前であることから、この地を治めていた有力氏族が天智天皇を助け、自らの地に都を持ってくるようにしむけたとも考えられるからです。
近江の南を治めていたのは誰だったのでしょうか。
琵琶湖遺跡
琵琶湖の西側と言えば、新王朝を作った人と言われている継体天皇の出生地になります。継体天皇は、近江国高嶋郡三尾野で誕生したとされています。現在の高島市があるところですが、この地には、この継体天皇の出自の謎を解く非常に興味深い古墳が発掘されています。鴨稲荷山古墳です。全長45mの前方後円墳ですが、副葬品たるや金銅冠、沓(くつ)、魚佩(ぎょはい)、金製耳飾、鏡、玉類、環頭大刀(かんとうたち)、鹿装大刀(ろくそうたち)、刀子(とうす)、鉄斧(てっぷ)というとてつもなく豪華な品々が現れました。解くに金銅冠が新羅のものであったことから、新羅の王族がここに住んでいたと考えられるようになっています。この古墳の築造年代が6世紀の前半です。継体天皇と重なるだけに継体天皇の親族なのかという期待が膨らみます。継体天皇は、記紀に応神天皇の5世であると書かれていました。応神天皇も新羅の血をひくものではないかというのは、「隠された系図」に書かせていただいた通りです。敦賀から、余呉湖、そして琵琶湖西岸は新羅系の渡来人の住み着いた場所であったのかもしれません。
一方、東側は天智天皇の時に、さかんに百済からの移民を住まわせた場所です。日本書紀にも、神崎郡や蒲生郡の文字が見えます。琵琶湖を挟んで東西向き合うように百済と新羅があったのでしょうか。
一方、近江大津宮や近江国府の置かれた南側には、和珥氏(わにうじ)の痕跡が色濃く残ります。全長72mの前方後円墳である和爾大塚山古墳は、4世紀末には作られていたようです。この古墳の近くの出身者が、遣隋使の小野妹子です。この小野妹子も和珥氏になります。また、応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母は、和珥氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘でした。
やはり、木片の持ち主は和珥氏だったのでしょうか。そして和珥氏の画策により、近江大津宮ができたのでしょうか。