邪馬台国畿内説を補強する発見 奈良唐古・鍵遺跡

奈良県田原本町教育委員会は11月15日、唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)で、弥生時代中期ごろ(紀元前2世紀ごろ)の北部九州の土器が見つかったと発表しました。弥生時代の北部九州の土器が見つかるのは近畿では初めてのことです。
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この破片は、集落の最も内側にある大環濠(幅10メートル)の下層から1988年に出土した土器を整理中に見つけたもののようです。甕(かめ)の口縁部の一部で、縦5・3センチ、横約13センチ、厚さ6〜8ミリ。元の大きさは口径36センチ、高さ40センチ強とみられています。
口縁部は赤い彩色が施され、外側に向けて直角に折り曲げられていました。この特徴が北部九州・筑前地域の「須玖(すぐ)式」土器と一致することから注目されました。筑前地域から運ばれてきた可能性が高く、同時に出土した地元産の土器による推定年代も北部九州の土器の年代と矛盾しなかったということです。
魏志倭人伝の中に出てくる「奴国」の地が福岡県春日市周辺に拡がる須玖岡本遺跡だと言われています。非常に高い工業力と進歩した文明は他の地域の追随を許さない地域でした。魏志倭人伝に書かれた戸数は、2万戸。九州の地域の中では、最も大きな国でした。
この国から、東に徒歩で進んだところに隣の不弥国がありました。そこから、海を渡って水行20日で投馬国、そして、水行10日陸行1月で邪馬台国に着くと書かれていました。未だに、邪馬台国九州説を非常に強く押される方がおられますが、残念ながら大和説は揺るがないと考えられます。そのひとつとして大きな意味をなすのが、今回の発見です。
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「須玖式土器」は、弥生時代中期の土器様式です。須玖岡本遺跡、そして、その南の地域から大量に出土しています。弥生時代の前期に比較すると、非常にシンプルになってきているところに特徴があります。弥生前期に櫛目で付けられた模様はなくなり、へらで研磨し「丹塗り」と言って、全体を赤く塗っています。非常に柔らかい丸みを帯びた曲線をしています。後期になると、ここに直線的な模様が描かれ装飾性を帯びてきます。
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唐古・鍵遺跡は、邪馬台国の時代には廃れ始めていた遺跡だと考えられます。弥生時代、今から2000年以上も前、奈良盆地の中で最大の集落として発達し、環濠が作られると共に、物見櫓も作られたと考えられます。出土した土器に、物見櫓の絵が描かれており、櫓の上の四隅の先端には、くるくると巻かれた「渦巻き」ような絵が描かれていました。実は、この絵と同じ形をした建物の絵が、中国は明の時代の墓に描かれていました。また、建物の柱の間隔が1階よりも、2階の方が狭いので、実現するためには木にホゾを空け組み合わせていく必要があり、このことから「実在したものではない」と言われる方も多いのですが、では、実在していなかったとするなら、どうやって知り得たのかという疑問もわきあがります。
この遺跡に住んでいた人々が中心となり、纏向遺跡の方に移動して、そこに祭祀を行う宮殿が作られ邪馬台国が作られたと考えられます。この内容は、「魏志倭人伝を探る」の中で詳細に紹介させていただいています。
唐古・鍵遺跡では、俗に言う弥生前期のような土器が出土していました。櫛目を使って、とにかく全体に柄を入れてみましたという感じの土器です。北九州に比較すると、大幅に遅れていたと言っても過言では無いと思います。数百年程度の遅れがあったのかもしれません。
また、この遺跡では、これまでに、吉備の土器は出土していましたが、北九州の土器は見つかっていませんでした。このため、唐古・鍵の文化圏は、吉備迄であり、北九州とは異なっていると考えられていました。これに対して、纏向遺跡では、尾張の物が多いですが、全国から集まった土器を見ることができていました。このことから、九州との交流も纏向に移った後に始まったと考えられていました。
一方で、私には唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の関連性が非常に疑問でした。唐古・鍵をたたんで、なぜ、山裾の纏向に移動する必要があったのか。伝染病でも発生したなら別ですが、唐古・鍵遺跡は非常に大きな遺跡を形成していたためです。私の考えは、伊都国の東遷があったというものです。どのように考えても、伊都国は倭の中心でした。「一大率」が置かれるような要地から、どうやって大和へ中心を移すことになったのかは、大きな疑問でした。その回答は、太陽信仰にあったのではないかと行き着きました。だからこそ、東へ、東へと向かい、瀬戸内海を終点迄進み、内陸に入って来たのだというのが、私の理解でした。「卑弥呼」という名前が示すとおり、「日巫女」であったからこそ、この地迄やって来たと考えていました。そこには、神武天皇の東征が残すような、伊都国による征圧があったのだろうというのが私の考えでした。
今回の発掘は、未だ、ひとつの破片が出ただけですから確定はできませんが、少なくとも奴国と、唐古・鍵遺跡とが卑弥呼以前から交流があったことを物語っています。これは、非常に画期的なことであり、そうであるなら、平和裏の内に「太陽信仰」が畿内の地域へと伝わってきたとも考えられます。征圧により唐古・鍵が、纏向に移ったのではなく、神を慕って纏向に人々が移住したのかもしれません。そして、唐古・鍵遺跡より、もっと東に、つまり、大和最大の環濠集落の太陽が昇る山裾に、祭祀の場と太陽の昇る神聖な山を定めた理由が納得できるからです。
文化は間違いなく西からやって来たのです。その時期は、私達がこれまで理解していたよりも、もっともっと早い時期であったのかもしれません。

日本の歴史が凝縮した「醉象」の発掘 奈良興福寺

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奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)は10月24日、奈良市登大路(のぼりおおじ)町の興福寺旧境内から、平安時代の将棋の駒「酔象(すいぞう)」が見つかったと発表しました。一緒に出土した木簡に「承徳二年」(1098年)とあり酔象では国内最古となるそうです。
発掘現場は奈良県庁東側の観光駐車場で、平安時代から興福寺の子院・観禅院があった場所。ごみを埋めたらしい井戸跡(深さ約3.7メートル)から、土器や瓦、木簡とともに将棋の駒4点が見つかったそうです。「酔象」「桂馬」「歩兵」各1点と不明の駒1点で、「酔象」は現代の将棋の駒に近い五角形でした。木製で一部破損していますが、縦25ミリ、横15ミリ、厚さ2ミリ、裏面に墨の跡はなかったと報道されています。消えてしまったのでしょうか。「桂馬」「歩兵」の裏面には「金」と書かれていたようです。
将棋というと、囲碁と並んで日本の伝統的知的ゲームと思われている方も多いと思います。日本の将棋人口は、少し前になりますが、約1000万人と言われていました。つまり、日本人の10人に一人が将棋をたしなむわけです。今、日本で一番強いのは誰かと言われると、羽生善治かもしれません。名人位を続けている森内俊之、竜王位を手放さない渡辺明も強いですね。日本には、現在7つのタイトルがあります。毎日新聞社と朝日新聞社が主催する名人戦が一番古いタイトルです。持ち時間9時間で2日間かけて戦う頭脳戦ですが、7番勝負ですから、体力も必要です。まぐれでタイトルをとることはありえないのです。優勝賞金が一番高額なのは読売新聞社が主催する竜王戦です。優勝賞金はなんと、4200万円。トップ棋士になると年間1億以上を稼ぐことも夢では有りません。4段以上になると日本将棋連盟の正会員になれますが、現在、日本には222人しかいません。
私達がやる将棋は、「本将棋」と呼ばれる物です。81マスの将棋盤を使い、お互い、役割(動き)の違う、金、銀、桂馬、香車、歩、それに飛車、角をもって相手の王朝を穫りにいきます。手持ちの駒20枚を使って、相手の王将を穫った方が勝ちになります。今では、もう指されることはないようですが、将棋には、本将棋以外にも、大将棋と言って、225マスの将棋盤と130枚の駒を使うもの、中将棋と言って144マスの将棋盤と92枚の駒を使うもの、また、小将棋と言って、将棋盤は本将棋と同じですが、駒を42枚使うものもあります。
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福井県では、小将棋の伝統が守られており、朝倉将棋と呼ばれて今でも大会が行われています。2枚多い駒は何かというと、「象」と書かれた「醉象」です。この「醉象」を、2列目の角や飛車の並びに、王の真ん前に置いて始めます。「すいぞう」と言うのですが、王が全方向に1つづつ動けるのに対して、真後ろだけは動けず、他は全方向に1つづつ動くことができます。相手の陣地に入ると、成り駒になりますが、「醉象」が成るのは「太子」なのです。太子に成ると、王と同じ動きができるようになります。この、「醉象」が今回、興福寺の旧境内で発掘されたものなのです。
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私は、この将棋というゲーム程、日本の文化、そして考え方を表している物はないと思っているのです。将棋に似たゲームで、西洋にはチェスがあります。最も大きな違いは何かというと、将棋は穫った駒を持ち駒として、自分の兵として使うことができるところです。それ以外は、ほとんど同じです。チェスも将棋も、インドのチャトランガと言われるゲームが元になっているからとされています。チャトランガは、チャトル・アンガで、チャトルが4、アンガがパーツです。駒は、象、馬、車、歩兵の4つで戦います。
日本でいつ本将棋が始まったのか、また、いつ伝わったのかは謎であり、まだ、解明されていません。ただ、
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チャトランガもチェスと同じで、持ち駒を使うということがありませんから、直接チャトランガが伝わったという物ではないようです。中国には、「象棋」と書いてシャンチーという将棋に似たゲームがあります。違うのは、駒が丸いのと、線の交点に駒を並べます。駒には、歩の代わりに卒が居て、一つ飛ばしに前列に並びます。飛車、角の位置に砲があります。王ではなく、将軍の将であり、その隣に、金の代わりに士がいます。これはこれで、非常にわかりやすい。王様が戦の最前線に出て戦うという発想はなく、戦う王様は将軍なのです。
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砲の前に、卒が居ないのも、なるほどと思わせます。韓国にいくと、この中国の象棋と全く同じ物が有り、これを「将棋」と書いてチャンギと発音します。王の代わりに、楚と漢があります。先手が楚を持ち、後手が漢です。なんとなく、三国志っぽいですよね。そして、楚と漢は最初宮廷の中にいるのです。中国のシャンチーが、相手陣地で成り駒に成るのに対して、韓国は成りません。どこ迄行っても、兵は強くならないのです。
こうやって見てみると、日本の将棋は実によくできています。これは、日本の文化そのものが反映されたためではないかと考えるのです。王を中心として、戦場で戦うのは多分古墳時代から、王が力で勝ち取るようになったからではないかと思うのです。また、一旦征服してしまえば、その兵は自分の兵として使えるという世界に類を見ない発想は、まさしく、日本の歴史そのものではないかと思うのです。継体天皇がヤマト政権を征服した時、当時の大臣、大連はそのまま残し、体制を引き継いで政権をとりました。そして、彼らに命じて磐井の乱の鎮圧を行ったのです。
私は、今回見つかった「醉象」という駒に日本らしさが凝縮しているような気がします。「象」という駒ですから、日本に存在したとは思えませんが、まず、王の前に居て王を守ります。後ろに下がれないのは、王に取って代わることが許されない証です。相手陣地に攻め込むと、太子となります。太子となると、王とまったく同じ動きができるようになります。これぞ、日本の制度そのものではないでしょうか。天智天皇は、皇太子のまま百済と戦いを行い、近江に都を移しました。太子は、敵陣に入ってこそ王と同じ力を発揮できるようになるのです。
今回の「醉象」は、中将棋の駒だと考えられているようです。私は、小将棋ではないかと考えています。日本の将棋が確立したのは、なんとなく、天智天皇や天武天皇の頃なのではないのかなと想像するのですが、これは、多分違います。一般に言われている通り、平安時代、実際の戦がなくなって世の中が安定し、日本独自の文化が花咲いた頃作られた物と考える方が、確かに説得力があります。しかし、その駒の持つ意味は、それ以前の日本の歴史が反映されているに違いないと思うのです。