宮内庁は今一歩踏み込んだ方針転換を。箸墓古墳の立入調査に思う。

箸墓1
213日、宮内庁は、天皇や皇族の墓として管理する陵墓のうち、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と、卑弥呼の後継者・台与(とよ)の墓との説がある西殿塚古墳(同県天理市、同約230メートル)への立ち入り調査を、日本考古学協会など考古・歴史15学協会に許可すると発表し、20日の日に実施されました。ふき石や土器が散らばっていることが確認されたと報道がありました。日本考古学協会の森岡秀人理事は、ふき石や土器について「築造年代の研究に役立つものがあるかもしれない」と話し、古代学研究会陵墓委員で橿原考古学研究所付属博物館の今尾文昭学芸課長も「多くの人がいろいろな季節に観察する中で新しい確認がある。(調査には)まだまだ制限があるが、機会を増やしていきたい」と語っています。
今回の調査では、16人の研究者が午前中約1時間半にわたり墳丘最下段の縁を歩いて調べるという内容です。当然のことながら、被葬者は誰なのか、どのような副葬品があるのか、また、どのような棺に納められているのかなど、肝心の内容はなにも知ることはできません。加えて、土器を持ち帰ることも許されていませんから、築造年代を判定するためのさらなる研究もできません。

多くの人々が、なぜ、陵墓とされている古墳を調査できないのか?と疑問に思われていることと思います。
平成216月、衆議院の国会質問に吉井英勝議員が立ち「陵墓に指定された古墳の実態に関する質問」を行っています。この時、宮内庁は「陵墓や陵墓参考地については、現に皇室において祭祀が継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているので、静安と尊厳の保持が最も重要なことであると考えている」と言っています。従って、「尊厳の保持」がなされないような行いは、全て許されないこととされているのです。
吉井英勝議員は、この時箸墓古墳についても言及し質問をしています。以下、その答弁です。
「奈良県桜井市にある箸墓古墳は、初期ヤマト政権が成立した時期の最大級の前方後円墳で、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとも考えられ国民から強い関心を集めている。宮内庁によれは、箸墓古墳にはヤマトトトヒモモソヒメが葬られていることになっている。ヤマトトトヒモモソヒメは現在の皇室の先祖なのか。そうであれば、その根拠を明示されたい。」

「「日本書記」等によれば、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は孝霊天皇の皇女とされているものと承知している。」
「宮内庁によれは、ヤマトトトヒモモソヒメは孝霊天皇の娘であるといわれている。孝霊天皇は何世紀に存在した人物なのか。」

「宮内庁としては、古代の皇室の歴史については、歴史学者の間でも諸説あるものと承知している。」
 この後、陵墓における祭祀と祭祀に関わる経費をどこから支出しているかの質問があり、そして、「陵墓の立入りの取扱方針」に関しての質問と進みます。
「宮内庁は「陵墓の立入りの取扱方針」を定め、その中で墳丘第一段上面テラスまでに限って陵墓への立入りを認めている。宮内庁の陵墓調査官であれば「陵墓の立入りの取扱方針」によらず、それより上段の墳頂部にものぼることが可能なのか。」
「宮内庁の陵墓調査官は、陵墓の管理上、必要に応じて墳頂部へも立ち入ることがある。」
「宮内庁が陵墓として管理している古墳は、かつては自由に出入りができたものである。たとえば、1926年、帝室林野庁が作成した箸墓古墳の測量図には、墳丘くびれ部を斜めに走る線が表現されている。これは通路を表したもので、かつて地元の人たちに利用されていた生活用道路ではないのか。また、現在の箸墓古墳の墳丘の周りには結界状の垣根が設けられているが、これはいつ、誰が、何の目的で設置したものか。」
「宮内庁としては、御指摘の測量図については承知しているが、当該測量図に示された「斜めに走る線」が「通路」又は「生活用道路」であったか否かは承知していない。また、御指摘の「垣根」の設置時期等は確認できない。」
吉井議員の質問は、宮内庁の考え方を引き出すことに成功しています。要するに宮内庁は、内容において非常にあやふやな物と知りつつ「尊厳の保持」のために立入りを許さず、以前は普通に生活道路として使われていたような場所にさへ立ち入ることができないような不適切な情報秘匿を行っている、というのが実態なのです。
私の個人的意見として「国民の追慕尊崇の対象」となっているからこそ、正しい埋葬者の治定が大切なのではないでしょうか。そのための調査を実施しないということは、建国に際し尽力された実在したであろう日本国の大王や天皇、皇室の方々への侮辱以外何物でもないと思われます。陵墓を暴こうというのではありません。何等根拠の無い物に対し、ただただ「尊厳の保持」という言葉が一人歩きし、過去の治定の誤りを認めようとしない宮内庁の態度は、今こそ改められるべき物であると考えます。

神武東征はあったのか? 和歌山和田遺跡の発掘

古代の謎の筆頭とも言うべき、「神武東征」。神武天皇こと神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)は、兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに、葦原中国を治めるために東へと向かいます。宇佐、筑紫を経た後、瀬戸内海を東へ進み、阿岐、吉備を経て大阪に辿り着きます。難波の地で上陸しようとすると、待ち構えていた長髄彦(ながすねひこ)の軍勢が待ち構えていました。長髄彦の放った矢が兄の五瀬命にあたります。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と進言し、難波の地を離れ紀伊半島を回ります。しかし、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で、射られたときの傷が悪化し死んでしまいます。古事記は、五瀬命を、紀国竈山(かまやま)で亡くなり、竈山に陵が築かれたと記しています。
竈山神社
この神武東征は、日本の国の成り立ちを考える上で、非常に重要な話です。出発点が日向の高千穂であることの議論、筑紫を回った理由、阿岐や吉備との関係、この後に上陸する熊野の意味等、謎の宝庫のようなお話です。それ以上に、そもそも本当に神武東征が行われたのであろうかという疑問は、誰しもが持つ謎のひとつです。
五瀬命の墓
五瀬命を葬ったとされる和歌山市和田には、竈山神社(かまやまじんじゃ)があります。祭神は、彦五瀬命。そして本殿の裏に彦五瀬命のものとされる墓が存在しています。
この和歌山市和田で、発掘調査を続ける和歌山県文化財センターが2月9日に、和田遺跡の一般公開を実施しました。和田遺跡は、弥生時代から鎌倉時代迄続く、複合遺跡であり各時代の集落の存在が確認されています。今回は、弥生時代から古墳時代にかけての素掘りの井戸跡や、土器片等が発掘され公開されました。
和田遺跡これが出土すれば、というような期待の品があるわけではありません。しかし、神武東征につながるようななにかが出てくれば、という期待が膨らむ発掘なのです。神武東征の道程において、宮跡や史跡地とされる場所はたくさんありますが、考古学資料として取り上げられるような場所はほとんどありません。五瀬命という代表者の一人を紀国に埋葬したとする記述は、大いに注目されるものです。今回の土器片と井戸跡だけでは、そこに人が住んでいたことしかわかりません。大規模集落であったという跡もなく、正直期待はずれではありました。しかし、この発掘、場所を拡げてでも続けてもらいたいと考えます。本当にこの地に五瀬命を埋葬したとするなら、この地にも神武東征軍が陣をひくだけの大きな村があり、また、この時渡された遺品が残るはずなのです。それは、九州の土器であるのか、阿岐や吉備の土器であるのかはわかりませんが。今度の展開を大いに注目したい発掘調査です。

大化の改新の歴史ロマン 槻の木の広場の発掘

明日香村大字飛鳥において、飛鳥寺西方遺跡の範囲確認調査をしていた明日香村教育委員会から、今回の発掘調査により広い範囲の石敷が確認されたので2月2日に現地で調査見学会を行うとの報道がありました。
「たかが石敷」ではあるのですが、実はこの石敷、歴史ロマンたっぷりの発掘作業だったのです。
飛鳥寺は蘇我氏の氏寺で、元は法興寺と呼ばれていました。
同じく明日香村にある豊浦寺(尼寺)と並んで日本最古の本格的寺院です。本尊は「飛鳥大仏」と通称される鞍作鳥の作とされる釈迦如来像があり、この寺の創立者は蘇我馬子です。釈迦如来像の造立にあたっては、高麗国の大興王から黄金三百両が贈られたことも、日本書紀に記録があります。飛鳥寺は、587年(用明天皇2年)に蘇我馬子により建立の発願がなされ、596年(推古天皇4年)に完成し、馬子の子供である善徳が寺司となるとともに高句麗僧の恵慈と、百済僧の恵聡の二人が住んだとも記録されています。当時、蘇我馬子は排仏派の物部守屋と壮絶な争いを繰り広げており、この法興寺も、物部守屋への戦勝祈念のために建立したとされています。
最終的には、物部氏に勝った蘇我氏は、その後天下を我が物とする勢いを見せますが、法興寺建立の約50年後の645年。歴史的なクーデターである、「乙巳の変」で惨殺されてしまいます。そして政治改革である「大化の改新」が始まるのです。
今、飛鳥寺の西門を出て西へ100m程行くと、田んぼの中に五輪塔が立っています。この五輪塔は、蘇我入鹿の首塚と呼ばれています。今回の発掘調査は、この五輪塔の丁度西側でした。飛鳥寺の南側には、乙巳の変の舞台となった皇極天皇の飛鳥板蓋宮がありました。
日本書紀によれば、乙巳の変の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足となっています。日本書記は、この二人の出会いに想いを込めて、次のように記載します。
『蘇我入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家をかすめようとする企てを抱いていることに憤った中臣鎌足は、王家の人々に接触して企てを成し遂げる明主を求めた。そして、心を中大兄に寄せたが、離れていて近づきがたく、自分の心底を打ち明けることができなかった。たまたま、中大兄が
法興寺の槻の木の下で、蹴鞠を催しされたときの仲間に加わって、中大兄の皮靴が、蹴られた鞠と一緒に脱げ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪(ひざまず)いて恭(うやうや)しくたてまつった。中大兄もこれに対して跪き、恭しくうけとられた。これから親しみ合われ、一緒に心中を明かし合ってかくすところがなかった。』
実に、ロマン漂う記載内容だと思われませんか。まるで、恋人同士の出会いのような三文小説ばりの説明です。私は、飛鳥寺に行った時、槻の木はどこだと探したのですが、それらしき木は、見当たりませんでした。狭い境内でしたが、「ここで蹴鞠をしたのか?」と、嘘くさいと思ったものです。
しかし、この舞台である「法興寺の槻の木の下」が今回の発掘場所なのです。名付けて、「槻の木の広場」。日本書紀には、もう一回、この槻の木の下の記述が出てきます。大化の改新を進める中で、孝徳天皇が即位します。
『十九日、天皇・皇祖母尊・皇太子は、
大槻の木の下群臣を召し集めて盟約をさせられた。天神地祇に告げて「天は覆い地は載す、その変わらないように帝道はただ一つである。それなのに末世道おとろえ君臣の秩序も失われてしまった。さいわい天はわが手をお借りになり、暴虐の物を誅滅した。今、共に心の誠をあらわしてお誓いします。今から後、君に二つの政無く、臣下は朝に二心を抱かない。もしこの盟に背いたなら、天変地異おこり鬼や人がこれをこらすでしょう。それは日月のようにはっきりしたことです」と誓った。』
この誓いの言葉を見る限り、クーデターの首謀者は孝徳天皇こと軽皇子であったのではないかと思われますが、まーそれは置いておいて、天皇との盟約の地も、やはりこの「槻の木の広場」であったのです。
調査では、石敷の広場の中に、直径2~3メートルの穴も2個見つかったとされています。残念ながら、槻(ケヤキ)の木があったわけではないようです。私は、高い棒が建てられていたのではないかと思います。しかし、この「槻の木の広場」は、神聖で特別な場所であったのではないでしょうか。だからこそ、この地で中心人物は出会い、そして、この地で盟約も行われたのだと思います。そんな場所の姿の一端が見えたのが、今回の発掘でした。
盟約をした孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮に移りますが、最後は、皇太子である中大兄皇子が、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子をひきいて大和に戻ってしまいます。孝徳天皇は、一人残され病気になって死んでしまうのです。
時代は盛者必衰を繰り返しながら、どんどん流れていきます。もしかすると、孝徳天皇は最後に、槻の木の広場を思い出していたかもしれません。

槻の木の広場発掘の共同ニュースの映像です。