国内最古の分銅が出土、賢者の石を計ったのか? 大阪府亀井遺跡

亀井遺跡
昔、大阪平野には河内湖と呼ばれる巨大な湖がありました。この河内湖南岸域の沖積低地に立地する集落遺跡が、亀井遺跡です。多くの集落の遺跡では、時期を追って土地利用のあり方が変化していくために、集落は移動していくのですが、この亀井遺跡は同じ場所で集落が固定化されているとともに、居住域が小さくなっていっていると発表されています。その場所が重要な役割を担うとともに、単なる農耕地ではなく、何らかの食料がとれる貴重な場所であったことがわかります。
今回67日の奈良文化財研究所の発表は、亀井遺跡の場所的な優位性ではなく、その文明・文化の高さを証明したものとして注目されるものでした。1981年に大阪府八尾市にある亀井遺跡で出土した弥生時代前期末(約2400年前)の石製品11点が、天秤用の分銅とみられるとの発表がなされたのです。
分銅は長さ3〜8センチ、直径1〜
4.5センチの円柱形で、全体が丁寧に磨かれていました。最軽量は8.7グラム、ほかは、17.6グラム、34.5グラム等、最軽量の2、4、8、16倍となる値に近い。最重量は、32倍の280グラムだったと報告されました。
何よりも驚かされたのが、量を計るための単位を持っていたということです。紀元前200年頃、大国中国の秦の始皇帝は天下統一に際して、文字と計測単位の統一を計りました。「度量衡」という言葉を聞かれたことがあるかもしれませんが、長さの度、容積の量、重さの衡を総称した言葉です。秦の始皇帝の頃の一単位の重さは、16.14グラムでした。そして、今回の発見により分かった単位は、その約半分ぐらいの大きさが一単位です。弥生時代前期末というと、この秦の始皇帝よりも古い、中国では周の時代の話になります。
この時代に、10グラムに満たない重さの調合を行う必要があった、もしくは取引があったというのは驚異的な発見であると思うのです。それも、2の累乗の重りを作っていたことにも文化の高さが伺えます。最重量のものが32倍、つまり2の5乗であるわけですから、0乗の1と合わせて6個の分銅ということになります。そして、この6個で1から32迄の全ての数が計れることになります。11点あったということは、多分、2セットあったのではないかと思います。2セットあれば、計る方に重りを足すことができますから、足し算で重さを計るだけでなく、引き算で重さも計ることができるわけです。


では、このような細かで精密な単位を用いて、当時の人々は何を計ったのだろうかという大きな謎にぶち当たります。当時、すでに貴金属にあたる物が取引されたのでしょうか。それとも、合金等を作る技術があったのでしょうか。謎は深まるばかりです。
賢者の石
報道によれば、一緒に見つかった石杵(いしぎね)に赤色顔料「水銀朱」が付着していたことから、顔料の重さを量ったのではないかというコメントが書かれていました。魏志倭人伝の記述の中に、倭には「丹有」と記述されていました。古来「丹(に)」と呼ばれたのは、硫化水銀の鉱物です。よく、古墳の内壁や石棺に赤色の彩色がされていますが、この赤色を生む原料が、「水銀朱」と呼ばれる鉱物です。三重県、奈良県、徳島県、それに九州で産出されました。丹生と呼ばれた地名や鉱山跡が残っています。江戸時代になるとベンガラ(酸化鉄)が用いられるようにもなりましたが、朱色と言えば、古代より水銀朱が使われてきました。非常に貴重な顔料であったので、確かに「丹」を計って物々交換に使ったのかもしれません。
ヨーロッパでは、この水銀朱を賢者の石と呼びました。錬金術師達が、金を生み出すための触媒として使ったことは非常に有名です。彼らは、赤い色ではなく、水銀のほうに関心があったようです。日本では、この水銀を不老長寿の薬であると考えていました。これは中国から伝わった考えだと思いますが、道教では、不老不死の薬を飲んで仙人になるという考えから、この薬を作る方法を煉丹術と呼んでいました。水銀がなぜ、不老不死の薬と思われたのかわかりませんが、常温で凝固しない金属ですから、その不思議さに魅かれていったのかもしれません。もしくは、赤い色が血の色に通じると考えたのかもしれません。

弥生時代、それも前期の頃の人々にとって、不老不死という発想や水銀朱から水銀を抽出するというような実験が行われたとは思えません。しかし、朱を塗ることで、悪魔を避けることができる、もしくは、災いから免れることができるという発想は、祭祀に使われた痕跡や顔面に塗られたペイントなどからも知ることができます。言うなれば、不老不死とは言わない迄も、魔除けの貴重な薬であったわけです。こう考えてくると、あくまで貴重な丹の分量を計ることを主目的として分銅が使われたのかもしれませんが、現代の我々が発想もできないような、なんらかの薬品の調合に使われていたのかもしれないのです。

国内最古の木製仮面が出土 奈良県大福遺跡

纒向遺跡は、ご存知の通り大和政権誕生の地です。魏志倭人伝に記された邪馬台国のあった場所としての有力候補地でもあります。そして、私もその考えに賛同している一人です。
大福遺跡
この纒向遺跡の南側には、この遺跡に併設するように、東西約700m、南北約400mの範囲で弥生時代前期から後期にかけての複合遺跡である「芝遺跡」が存在します。この芝遺跡からは、弥生時代中期の土器棺墓・方形周溝墓・竪穴住居・井堰・木製農具・鋤・鍬・銅鐸形土製品などが出土しています。そして、芝遺跡の南西側に存在しているのが、大福遺跡です。
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大福遺跡は、この西側にあった橿原市の坪井遺跡とも接していて、近年はひとつの同じ遺跡であると見なされ坪井・大福遺跡と呼ばれています。こちらの遺跡からは、環濠と思われる大溝や土坑、井戸、墓地群などの遺構が確認されており、弥生時代前期末の木棺墓も人骨が入った形で見つかりました。大量に出土した土器の中には、人物などが描かれた線刻画土器、有柄式銅剣(ゆうへいしきどうけん)を模してつくられた木製の柄頭(つかがしら)など非常に貴重な遺物も見つかっています。弊社の出版物の中では、纒向遺跡は奈良県田原本町にある唐古・鍵遺跡からの発展形であると記載していますが、坪井・大福遺跡も唐古・鍵遺跡に負けないだけの規模を誇る遺跡であり、纒向遺跡が多くの集落の中に生まれた祭祀都市であったことを物語るものでもあります。
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5月30日に発表された桜井市纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第1号」に掲載された内容によると、桜井市の大福遺跡の溝から出土した木製品は、弥生時代終わり〜古墳時代初期(2世紀後半頃)の木製仮面の一部である可能性が高いと報告されています。木製品はコウヤマキ製で、長さ23.4センチ、最大幅7センチ、厚さ約5ミリ。大福遺跡の北東約3キロの纒向遺跡では、古墳時代初期(3世紀前半)の木製仮面が出土していますが、大福遺跡の物はそれをさかのぼる国内最古例となります。
今回報告された最古の木製仮面は、5年前に出土したものです。纒向遺跡で見つかっている木製仮面は、3世紀前半の土器とともに土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.5cmのものでした。アカガシ製の広鍬を転用して作られたもので、口は鍬の柄孔をそのまま利用しており、両目部分は新たに穿孔し、高く削り残した鼻には鼻孔の表現もありました。 また、眉毛は線刻によって表現されていました。一方の、今回の仮面は、それに較べると非常にシンプルなものです。表面に人工的な色もなければ、線刻模様もありません。ただ、目の部分に穴があけられており、顔に装着するためのひもを通す穴とみられる穴が耳に近い箇所に空けられているというものです。これを木製仮面であると言い切る迄にはかなり悩み抜かれたのではないかと推測します。
仮面という表現を使っていますが、「お面」とは違うのでしょうか。

西洋では、仮面というとマスクのことだと思いますが、あくまで顔を隠し正体がばれないようにするものとして使われてきました。仮面舞踏会などは、典型的な物かと思います。一方、日本のお面は意味合いが全く異なります。日本の伝統芸能の「能」には、能面と呼ばれる物があります。鬼神、老人、男、女それに霊があり、それを示すために能面をつけます。テレビや舞台でよく目にするものでは、おかめや、ひょっとこのお面があります。これらも、それぞれの性格・人格を示すのに使われるのだと思います。天狗の面や、鬼の面も、それをかぶることで、天狗や鬼に扮するためのものです。日本を含むアジアにおいて面はその物になるための道具であるのです。これは、西洋の仮面と大きく異なった文化のひとつなのではないでしょうか。面をつけることで、いつしか、踊り手もしくは役者に、その神であり霊が乗り移ってくると信じられていたのではないでしょうか。
日本において、古来より使われて来た面とは、顔を隠す「仮面」ではなかったのだと思います。そのものになりきるための「お面」であったのではないでしょうか。そして、太古の時代には御霊を呼び込むための道具であったと思うのです。