縄文人物部氏の痕跡 天理市布留遺跡と西乗鞍古墳

西乗鞍古墳
2014年11月6日、天理市教育委員会により、天理市杣之内(そまのうち)町の西乗鞍(にしのりくら)古墳(全長約118メートル)の墳丘周辺で、南北の周濠(しゅうごう)と外堤が見つかったという発表がなされました。これまで、西側で深さ約1.3メートルの周濠と高さ約5メートルの外堤が確認されており、墳丘全体を取り囲んでいたのではないかと指摘されていたのですが、今回の報告でほぼ間違いなく、周濠に囲まれた非常に立派な前方後円墳であるということがわかったことになります。
奈良地図

奈良盆地に入ると、一番北に奈良市があります。その南になるのが天理市、その南になるのが桜井市です。桜井市は、皆様の好きな箸墓古墳や三輪山があるところ。桜井市の南が明日香村になります。御存知のように、平城京のある奈良市には元明天皇の時710年に遷都されます。それ以前は、持統天皇の藤原京ですから、現在の橿原市です。橿原市は桜井市の西です。その前は、飛鳥の中を点々としていました。つまり、天理市の西乗鞍古墳は、纒向遺跡の北側で平城京の南側にあることになります。飛鳥の時代には都は少しだけ南側にはずれますが、それでも飛鳥の都までは半日歩けば着ける距離です。言い方を変えるなら、卑弥呼の時代から約600年間の間、河内王朝の時代を除けば、政権中枢のごく近くに有った場所ということになります。ここに土地を持っていた豪族こそ、天皇家(大王家)特に、古王朝(纒向王朝)を真に助けた一族だったと言えると思います。
布留遺跡
杣之内(そまのうち)古墳群は、有名な山辺の道の西側に大きな古墳が並んでいます。この古墳群の北側が天理の町のはずれ、天理大学が広がる場所となります。そして、その北には、また石上・豊田古墳群が広がります。この古墳群は、5世紀から7世紀の古墳群です。そして、丁度この二つの古墳群に囲まれた地域が天理大学の有る場所ですが、ここにある遺跡を「布留遺跡」と呼んでいます。布留川が真ん中を流れ、その川の扇状地として広がる場所です。
jyoumonndoki
この遺跡は、とんでもなく古く、縄文時代の早期には既に多くの住居があったようで、旧石器時代の石器まで発掘されています。水が有るとともに、豊富な食料を提供してくれる土地であったのだろうと思われます。この南西にいくと、開けた平地となり、そこにあったのが弥生の大遺跡である唐古・鍵遺跡。南へいくと、纒向遺跡です。そう考えると、布留遺跡あたりが最初に縄文人が住み着いた場所で、その後、稲作文化が入るとともに平地へ展開していったのではないかという移り変わりの姿が見えてくるのです。
この地で発見されたものに、有名な「布留式土器」があります。土師器が使われ出して、まずは庄内式土器が使われるようになったと言われています。庄内式土器は、古墳が作られる以前の土器です。その後、布留式へと移っていきます。布留式は全国で見つかっています。これまで、古代史レポートでは、前方後円墳や三角縁神獣鏡の分布からヤマト政権の勢力域をお話していましたが、布留式土器の分布も、ヤマト政権の勢力域を示す重要な要素の一つなのです。
さて、ではこの布留遺跡のある場所に住んでいた一族とは誰だったのでしょうか。
石上神宮
答えは、物部氏です。
この布留遺跡の一番東の山の麓にあるのが、
石上神宮(いそのかみじんぐう)です。日本最古の神社のひとつとされています、物部氏の総氏神です。この神社は、大神神社と同じで拝殿はありますが、本殿はありませんでした。禁足地として立ち入ることができない地域とされていました。(今は作られています。)主祭神は、この禁足地に置かれていた布都御魂(ふつのみたま)と呼ばれる神剣です。(地名と同じ布留御魂が正式だという方もおられますが、布都と布留は使い分けておられるようですので、このレポートでは布都御魂とさせていただきます。)明治時代には禁足地の発掘が行われ、素鐶頭太刀(そかんとうのたち)が見つかっています。これが布都御魂(ふつのみたま)だと言われています。社伝によりますと、ご神体は、葦原中国の平定の際に使われた剣で、神武東征でも使われた剣とされています。それって、神話の世界じゃないの。との声が聞こえてきそうですが、それ程古い物だと理解してもらえればと思います。また、ここに収められている国宝の七支刀(しちしとう)があります。4世紀に百済が献上した物ではないかと言われている代物です。剣がご神体であるだけでなく、宝物としても保管されています。
ふつのみたま
多くの方が、石上神宮はヤマト政権の武器庫だったと習われたのではないかと思います。物部氏が管理を担当したために、ここに置かれたのかもしれませんが、武器に霊力をつけるためにここに保管し祈ったのではないかと考えます。
布留遺跡の存在は、物部氏が縄文人の一族であったこと、そして、天孫族と呼ばれる渡来人が日本に入ってくる以前にこの奈良の地に住み生活をしていた人々だったことを証明しています。布留遺跡が、何等時間の断絶も無く延々と続いている複合遺跡であることが何よりの証拠です。
その後、渡来人が大和に入って来たことは間違いありません。しかし、その時物部氏は争わず融合し暮らすようになったのだと考えます。神武東征が物語る神話では、物部氏の祖先は饒速日命(にぎはやひのみこと)となっており、饒速日命が恭順を示すことで神武天皇として即位することになっています。饒速日命は、神武天皇の前に天磐船(あめのいわふね)で大和入りをしたことになっています。しかし、物部氏は天磐船でやってきた渡来人ではないと考えます。神武東征が描いているのは、縄文人に対する弥生人の征圧です。
大和の地に入った渡来人が持ち込んだのは、間違いなく稲作です。その地の原人であった縄文人は狩猟を営みやすい山裾に住み、渡来人達は稲作を持込み平地を開拓して田畑としていったと考えられます。平地に住んだ弥生人の遺跡こそが、
唐古・鍵遺跡です。稲作が広がるにつれ、渡来系の人々は階層社会を生み出していくことになります。これが、纒向遺跡へと発展していき、ヤマト政権に形を変えていったに違いないのです。
古来より暮していた狩猟民族であった物部氏は、その技術を兵力として使うようになったことは明らかです。収穫後の米を守るために警備が必要となり、ヤマト政権は物部氏を警備の一族として活用するようになったのでしょう。これに伴い、ヤマト政権と物部氏は主従関係ができあがり、ヤマト政権を武力の面で助けるようになっていったのだと考えられます。
西山古墳
杣之内古墳群の中に「西山古墳」があります。183メートルの日本最大の前方後方墳です。築造されたのは、古墳時代前期。すなわち、箸墓古墳が作られた頃か、少し後です。私は、前方後方墳は武力の長(いわゆる、将軍)の墓であると言い続けていますが、この西山古墳こそが、それを裏付けていると考えているのです。前方後方墳を狗奴国の墓だと言っている方々は西山古墳の存在自体をどう説明されるのでしょうか。
西山古墳の後、杣之内古墳群には前方後方墳は作られず、前方後円墳へと姿を変えます。非常に早い時期に、武装集団を卒業し天皇家と同じ祭祀を司る一族へと変質していったのかもしれません。今回報告された西乗鞍古墳(前方後円墳)は、杣之内古墳群(4〜7世紀前半)で最大の古墳です。墳丘長は118メートル。出土した須恵器や円筒埴輪(はにわ)などから、築造時期については5世紀末頃(古墳時代中期末)とした。天皇陵には及ばないまでも、非常に立派な古墳を作り上げていました。
5世紀末と言えば、倭の五王「武」の時、雄略天皇の時代です。阿閇臣国見(あべのおみくにみ)は斎宮であった雄略の皇女を陥れようと嘘をつき、皇女は無実を訴え自殺します。嘘がばれたとき、助からないと考えた阿閇臣が逃げ込んだのは他でもない、石上神宮でした。西乗鞍古墳が築造された頃、物部氏は天皇に対抗できるだけの力を有していたに違いないのです。
物部氏が縄文人であったという説は大胆な説ではありますが、そう考えると納得のできる話は沢山あります。まず、天照大神を信奉していなかったこと。すなわち、太陽信仰を持っていたのではなく、全てに精霊が宿ると言う八百万の神の信仰を行っていました。蘇我氏が仏教を推し進める中、それを反対したのは精霊を祀る一族であったからです。これは、石上神宮が、鏡でなく剣をご神体としていることにも表れています。
物部氏は、ヤマト政権の重鎮であったことは間違いありませんが、例えば和珥氏、蘇我氏、大伴氏に比較して天皇家に出した妃の数は明らかに少ないことが上げられます。もちろん、大物主命や、事代主命を物部一族と考えると別ですが、例えそれを入れたとしても、神武(大物主)、綏靖(事代主)、安寧(事代主)、孝霊(磯城縣主)、孝元(磯城縣主)、開化(孝元と同じ)までで、全てが欠史八代の天皇です。
歴史上、天皇の妃に物部の名前で出てくるのはたった2名で、景行天皇の時の物部胆咋宿禰女である五十琴姫命、崇峻天皇の時の物部守屋の娘布都姫だけです。景行天皇はご存知のとおり、信じられない程多くの妃がいたことになっている一人ですし、崇峻天皇は蘇我氏に殺されてしまっており血が継承されたわけではありません。また、どちらの記録も、先代旧事本紀に記載されているだけの内容です。正直、これほどの家柄ながら天皇家の中で血が入っている人が誰もいないというのが現実です。すなわち、名目上大事にされたが、同じ一族になるような交わりがもたれなかった一族とも言えると考えます。ここにもまた、渡来人でないが故に血が混ざることが嫌われたのかもしれないと思わされる痕跡が残っているのです。

高句麗からやってきた鉱山技師達の跡 丹波市山田大山古墳群

「丹波」という名前を聞くと皆さんは何を連想されるでしょうか?「丹波王国?」と感じられた人はかなりの古代史通です。丹波王国は丹後半島を中心に発達したと考えられていますから、まさに日本海沿岸です。袁祁(おけ、顕宗天皇)、億計(おけ、仁賢天皇)が隠れていた場所か?と思われる人もいらっしゃるかもしれません。それも丹波国ですが、やはり丹波王国があったと思われる丹後半島の方で、その後播磨に移ったとされています。(私の著書「竹内街道物語」では、小説ですので播磨で見つかったことに成っています。)丹波王国は日本海側から播磨迄広がっていたとも考えられるのです。

山田大山古墳群

2014年8月7日、兵庫県教育委員会は、兵庫県丹波市春日町山田の山田大山古墳群で、県内最古級となる6世紀初め(古墳時代後期)の横穴式石室が見つかったと発表しました。また、渡来系の人が造ったとされる「T字形」をしており、この形としては県内5例目で、最も古いものだとも報告されました。
委託され調査したのは、県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部ですが、彼らからは「横穴式石室の県内導入期(6世紀前半)に、明確なT字形が見つかったのは初めて。当時の状況を知る上で貴重な資料」との談話が出されました。6月下旬からの発掘調査で、この石室がある5号墳を新たに発見したそうです。5号墳の墳丘は直径約8メートルで、石室には、棺がある玄室の入り口に長さ約1.3メートルの羨道と呼ばれる通路が付いているそうです。また、石室からは須恵器7点などが見つかったとのことです。被葬者は集落程度を治めていた渡来系の人ではないかという感想も話されました。

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この報道を見た時の私の感想は、「へーここでも。」というものでした。T字形である石室というのを、あちこちで見るにつけ、私には一つのつながりが見えてきました。
まずは、少し場所を説明したいと思います。丹波と言っても、京都府ではありません。京都府の丹後半島から南へ下ってくると、福知山市があります。この福知山市の南に接するのが丹波市。お隣は篠山市、南は西脇市です。
丹波市春日町の「春日」は、古代の郷名の「春部(かすかべ)郷」に由来するのだと言われています。小学校の名前は、春日部小学校と言い、「かすかべ」の音が残ります。この地を領有していたのは、春部氏で、春部氏は和珥氏(わにうじ)の一族であるとされています。祖先は、日本書紀では、神功皇后に仕えた将軍で武振熊命(たけふるくまのみこと)として登場します。三韓征伐の後に凱旋してきた神功皇后に対し、反乱を起こしたのが忍熊王です。そしてその忍熊王を破ったのが、武振熊命でした。彼は、和珥氏の祖であるとともに、春日氏、真野氏、壬生氏の祖であるとされています。武振熊命は、第5代の孝昭天皇に繋がります。ちなみに、孝昭天皇は欠史八代の一人です。

山尾幸久氏は、日本古代王権形成史論の中で、和珥氏とは2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団であったとしています。日本海側から、広まり瀬戸内海側の播磨地域へ、そして、これまでも度々ご紹介してきた南琵琶湖から山城の地へ、そして大和へと拡大していった一族であったようです。

5号墳
今回の古墳の所在地名である「春日町」の名前から、埋葬者は和珥氏(わにうじ)の一族であり、元々朝鮮系鍛冶集団であった一族なのだろうということが推測できるのです。そして、今回発見された「T字形」石室により、和珥氏一族であったこと、朝鮮系であったことなどが、裏付けをされたと言っても良いと思います。それ程、意義深い発見だったということです。
以前、人々の文化風習の中で、頑に守り続けられるものが埋葬方法であるということをお話しました。死後、人々は「鬼」になると考えられました。だからこそ、死んだ人は「鬼籍に入る」という言い方をします。中国から伝わった考え方ですが、古来よりそう考えられてきました。ちなみに、閻魔大王がもっている閻魔帳とは、鬼籍に入った人達の戸籍謄本のことです。
魏志倭人伝では卑弥呼は「鬼道」を操り、人々を惑わすと書かれていました。「鬼道」とは、死者の霊魂を操る術なのではないかと思います。今も、イタコという職業が残りますが、霊が乗り移ることだと考えています。神様への「祝詞(のりと)」の「のり」は乗り移るの「のり」なのではないかと考えたりもします。この辺は、もう少し勉強が必要な場所なのです。
少し、横道にそれましたが、従って、死者の弔い方を見ると、どこからやって来た人なのかという痕跡を見ることができるのです。だからこそ、古墳は大切なのです。そして、死者をくるんだ棺や、その棺を安置した石室は、そこに埋葬されている人がどのような部族の人であったかを証明してくれる物なのです。

横穴式石室自体が作られ始めたのは、古墳時代も後期になってからです。石室を作る文化は、高句麗から始まった埋葬方法です。この方法が、5世紀には百済に伝わったことが分かっています。伽耶地方にも、5世紀頃の墓に石室が見られています。
日本でも、福岡市の前方後円墳の老司古墳(ろうじこふん)には横穴式石室が確認されていますが、老司古墳は4世紀後半に作られたのではないかと言われています。多分、これが一番古いものだと思われます。5世紀の古墳になると、北九州には多く見られるようになり、6世紀になり全国的にひろまったようです。
T字型石室
今回の発見は、6世紀初め、それもT字型でした。つまり、羨道を通って石室に入ると、中に横に広い形の遺体を安置する玄室があったということになります。一般的には、玄室は縦に長いのです。この横に長い石室は、韓国でも京畿道、つまりソウルの南東で見られる石室の作り方なのです。漢江(ハンガン)流域にある梅竜里(メリョンリ)にあるヨンガンゴル古墳は、T字型の横穴式石室を持つことが知られています。
つまり、渡来系と言っても、百済や、新羅、伽耶諸国の人々ではなく、高句麗系の人々だということがわかるのです。
同じT字型の石室は、兵庫県内には4つ見つかっていたと思います。姫路に1つ、ご紹介した私の生まれた朝来市に1つ、神戸に1つ、そして、今回見つかった丹波市の隣、篠山市にある稲荷山古墳もT字型石室でした。日本では、約90基が確認されています。浜松市でも見つかっていますし、石川県の羽咋市でも見つかっています。長崎県、徳島県などでも見つかっています。一番多いのは和歌山県です。
同じ一族であるなら、ある地域に定住していいはずですが、なぜ、分散して日本中に散らばっているのでしょうか。それ程迄に、多くの人々が渡って来たということなのでしょうか。
好太王の碑文に残された、高句麗と倭の対決は4世紀末から5世紀の頭のことです。その後、高句麗は、平壌城に遷都し百済を追い込みます。5世紀末には、百済が新羅を手を結び、今度は高句麗を追い込みます。考えられるとすると、丁度その頃、漢江流域の梅竜里で古墳を作っていた一族が百済新羅に追い込まれ、倭へと移動したのではないでしょうか。逃げて移動したのか、はたまた、倭から呼ばれたのか。その辺りのこと迄はよくわかりません。
対馬の厳原町と言っても、対馬の市役所のある中心地ではなく、島の反対側の西側になりますが、佐須(さす)川という短い川がありますが、その流域に矢立山古墳があります。この古墳がT字型の石室を持っています。ここの古墳は、7世紀後半まで追葬という形で使用され続けたことがわかっています。刀装具などが見つかっており、住み着いた頃は有力な一族であったと思われますが、その後は発展することはなかったようです。近くに金田山という名前の付いた山が有ることから、鍛冶に適するような鉱石が出たのかなと推測しています。
浜松市北区にある恩塚山古墳は、静岡で唯一のT字型を持つ古墳です。そして、この地にあったのが、久根鉱山。この鉱山は、昭和45年に閉山になりましたが、それまでづっと続いてきました。近くには、黒姫鉱山、峰の沢鉱山など廃坑になってしまった鉱山跡が沢山残ります。
石川県羽咋市の柴垣ところ塚古墳もT字型を持つ古墳です。ここには、銅を産出した沢口鉱山や、金・銀を産出した富来鉱山がありました。現在は、どちらも閉山しています。
石川県では、他に能登島に蝦夷穴古墳があり、そこにもT字型をした石室のある古墳である須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)が存在します。ここには、燐鉱石が採掘されました。大きな鉱床が海中にあったため、鉱床を取り囲むように堰堤を築き堰堤内の海水をポンプで干拓した上で露天掘りをして掘り出していました。もちろん、古墳時代にはそういう採掘方法ではなかったと思います。
今回の丹波市では、氷上町三原という場所に黒見鉱山と呼ばれる鉱山がありました。銅、銀、硫化鉄を産したようで、近くの生野銀山の鉱床がつながっていたようです。明治頃迄は盛んに採掘されていました。だからこそ、ここに春日氏が住み着いたのではないかと考えるのです。
つまり、鉱物あるところに、必ずT字型古墳が存在しているのです。山尾幸久氏の推測は非常に正しかったことが、これらの一つ一つの発見によって証明されているのです。和珥氏というのは間違いなく、鉱物資源を追い求めた山岳民族だったのだと思います。そして、高句麗からやってきて、鉱物資源を探すために日本中に散らばったのではないかと考えるのです。
鉱山の近くにある、6世紀から7世紀の古墳にはT字型の石室が作られている可能性が非常に多いのです。また、逆にT字型の石室が見つかるのであれば、近くに鉱物資源が眠っているとも言えると思います。和珥氏の本貫は、奈良県と京都府の境。ここにもまた、鉱物が眠っていたのだと思われます。鉄や銅を供給できる一族は、農耕の生産性を上げるため、そして武力の強化に書かせない一族であったはずです。だからこそ、第5代の孝昭天皇に繋がる血筋を描いてもらえる程、重宝されたのだと思います。鉱物を見つける、もしくは、見分ける技術を持った一族の力を改めて感じた発見だと言えると思います。

文化の最先端を走っていた常世の国 茨城県瑞龍遺跡

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ランク
ブランド総合研究所という名前のマーケティング会社がやっている地域ブランド調査というものがあります。その地域の観光やイメージで判断して、魅力度ランキングなどというものを作っているのですが、目的はあくまで、「その結果を売る」と言うランキング商売です。ですから、そんな結果に乗せられてどうのこうのということ自体無意味なのですが、人口減少の日本においてはマイナスイメージが定着してしまうことは地域の衰退を意味してしまいます。ですから、注意することが必要なのですが、2013年、2014年と都道府県ランキングで2年連続最下位となったのが残念ながら茨城県でした。現代の茨城県は、誤ったイメージが先行してしまっている結果だと思いますが、古代における茨城県は驚くべき魅力的な地域であったのです。
常陸国
茨城県は、昔、常陸国(ひたちのくに)と言いました。この国府がおかれていたのが、現在の石岡市です。石岡市には、鹿の子遺跡と呼ばれる奈良時代末から平安時代前半にかけての遺跡があります。常磐自動車道を建設の時に発見された遺跡なのですが、建物跡は、溝で区画された中から、竪穴式住居後69軒、連房式竪穴遺構5棟、掘立柱建物跡31棟、工房跡19基などが発見されました。また、この調査で土器、墨書土器、鉄・銅製品、瓦、漆紙文書など多量の遺物が出土しました。これにより、「地下の正倉院」と呼ばれることになったほどです。特に漆紙文書は、内容も出挙帳、人口集計文書、兵士自備戎具の簡閲簿など全国で初めて発見されたもので注目を集めました。
この漆紙文書から逆算で推計すると、当時、常陸国には約22万人の人が住んでいたことなどが確認されています。当時の日本の人口が、約560万人と推計されていることから考えると、その4%が常陸国に住んでいたことになります。とてつもない密集地とは言いませんが、非常に多くの人が暮らしていた当時の日本の中でも有数の場所であったということがわかります。

人口密度

これは、奈良時代にはじまったことではないのです。弥生時代の発見された集落の数から推計された人口調査があるのですが、それによると、現在の茨城県は東国の中では飛び抜けて人口の多い地域になるのです。東国では茨城県から群馬県そして、長野へと人口集中地域がちらばります。
この人口推計の結果を裏付けているのではないかと考えられるのが、巨大な前方後円墳の存在です。東国で一番大きな古墳は、何度か説明させていただきました群馬県の太田天神山古墳です。そして、二番目に大きな古墳が、茨城県石岡市にある舟塚山古墳です。墳丘長が182メートルもある大古墳です。巨大な古墳を作る一族が住んでいたことの意味は、その土地が非常に豊かな土地であったこと。きっと、稲作もさかんであったのでしょうし、また、非常に大きな武力を持っていたのだと思います。
その武力は、何に活用されたのでしょうか。石岡市の「鹿の子遺跡」で注目したいのは、数々の工房跡です。その記録や、出土物から、ここが武器製造工場であったことがわかっています。奈良時代のことですから、当然、大和政権の配下にいるのですが、ここで武器を造って何をしていたのかと考えると、そこには蝦夷討伐しかありえないということがわかります。例えば、「潮来(いたこ)」という町があります。橋幸夫の歌で有名な街ですが、水郷の町としても有名です。しかし、潮来はどうやっても、「いたこ」とは読めません。ここは、昔「いたく」と言ったのだそうです。いたくは、「痛い」「処(く)」から来ているそうです。非常に多くの人々を殺した場所だそうで、ヤマト政権と地元の人との戦いが繰り広げられた場所であったそうです。この「いたく」はアイヌ語だとも言われています。

すなわち、地名に残るように常陸国は蝦夷討伐の最前線であった場所であり、その歴史が「鹿の子」での武力の製造地として役割を担い、その上で武力そのものの供給地へと変わっていったのだと理解することもできます。九州に防人が設置されましたが、その防人についたのは、東国の兵であったとされています。東国というと非常に広い範囲をさしますが、私は、この常陸国の人々だったのではないかと考えているのです。
「常陸」の名前の由来は、常陸国風土記には2つの説がかかれています。ひとつは、道路があちこち整備されており、それを直道(ひたみち)と言ったことから、名称にしたというのがひとつ。もうひとつの伝承が、ヤマトタケルが、蝦夷討伐をにやってきたとき、新治国(茨城県の西に有った国)の国造である比奈良珠命
(ひならすのみこと)に井戸を掘らせ、その水で手を洗った時に、衣の袖を「浸した」からだと言います。衣袖漬(ころもでひたち)の国とも呼ばれているとも書いています。どちらかというと、後の説明の方が好きですが、どう考えても両方ともこじつけだと思われます。
本当のところは、やっぱり、もっとも東に有り、日が昇る国であったから「日起ち」の国であったのだと思われます。それ以外には考えられません。日が昇る国と言って風土記に書いて報告できなかったところに、常陸のヤマト政権への遠慮が見えるような気がします。
注目したいのは、常陸国が「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで『常世の国』のようだ」と書かれていることです。常世の国とは、永久に変わらない神の領域のことです。現世に対する常世ですから、いわゆる理想郷、仏教用語では極楽ということになると思います。
弥生時代の遺跡分布でもわかるとおり、稲作が盛んで、食べる以上の収穫があったのではないかと考えられます。また、霞ヶ浦は、今は淡水化されてしまっていますが、昔は汽水湖であったことが記録されており、その昔は、太平洋につながる入り江だったのではないかと考えます。そうであるなら、最高の自然条件を持つ地域であったことは確かなのです。
このような豊かな土地を放っておくはずは無く、誰が最初に征服したのかが気になるところです。「国造本紀」によると、「建許侶命(たけころのみこと、多祁許呂命)」は、茨城国造の祖で、成務天皇の時に石城国造(いわき市)に任じられたと書かれています。また、初代の茨城国造は、第15代応神天皇の時代に天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫である「筑紫刀禰(つくしとね)」を国造に定めたことに始まるとされています。常陸国風土記では筑紫刀禰の子、8人のうち1人は筑波使主として茨城郡湯座連の初祖になったとも記録されています。少し、整理しますと、天津彦根命の子が建許侶命。その子が筑紫刀禰で、その子が筑波使主ということになるでしょうか。
これをどのように理解するかですが、建許侶命という有力な人物は蝦夷討伐に多大なる貢献をした人なのではないかと考えます。天津彦根命は、天照大神とスサノオ命のせ誓約によって生まれた子です。すなわち、天孫族と、現地の豪族の間に生まれた子ということでしょうか。筑紫刀禰という名前が、九州からやってきた人物を連想させることも確かです。「筑波山」という名も、筑紫と関係あるのではないかと思います。筑波山は、別名「紫峰」とも呼ばれます。筑紫の文字が隠れているのです。
九州から東征してきた天孫族が、ヤマトに都を築くとともに、日本列島全土を支配しようと東へ東へと進んだのではないでしょうか。その中の重鎮の一人、建許侶命は東国征伐を任されたのではないでしょうか。東北へ歩みを続ける建許侶命は、自分の子をその土地土地の国司として配置ししていったのではないかと思われます。その子供の一人、九州から呼ばれた、筑紫刀禰と呼ばれる人物は、この豊かな地を支配していた蝦夷を討伐し、全てを自分の傘下に組み入れることに成功したのかもしれません。

神武東征がヤマトへの征服で終わること無く、東へ東へと続けられた様子を残しているように思うのです。

ひるくながひ3
2014年2月19日、茨城県教育財団は非常に面白い報告をしました。常陸太田市瑞龍町の瑞龍遺跡の発掘調査で、平安時代の竪穴建物跡から、国字「ひるくながひ」がヘラで刻まれた土器の底面が出土したと言うのです。「ひるくながひ」の文字は「見」と、「見」をひっくり返した字を組み合わせた字。(国字は漢字にならって日本で作られた文字をいう。)同財団によると、この国字が刻まれた土器の出土は県内で初めてだそうです。
ひるくながひ2
「ひるくながひ」っていったい何?とお思いでしょうが、男女の交合を意味する字なのです。記事に有ります通り、平安時代の貴族の隠語なのです。もっと簡単に言いますと、「69」という隠語をご存知かと思いますが、昔、少なくとも平安時代頃は、数字の「6」のかわりに、「見」という字を用いていたということです。もちろん、そのような漢字は、漢字を造った国中国には存在せず、日本で造られた字なのです。だから「国字」という言い方をします。国字は沢山ありますが、日本人らしい遊び心をもった知恵が溢れていて、少し品がないですが、私はなかなか良いセンスだと思っているのです。
瑞龍遺跡で出土した土器には、ひるくながひの横に「女」という漢字が書かれていました。どういう世界なんだと思ってしまうのですが、これを土器に刻んだ人は、その土器を何に使おうとしていたのか、興味をそそられる出土品であることは確かです。
常陸太田市瑞龍町というのは、昔の久慈郡にあたり、常陸国の中においても決して開けた場所ではありませんでした。そのような中においても、国字を生み出すような、もしくは、伝えるような都人が住んでいたわけですから、非常に不思議な土地柄であることがお分かりいただけるのではないかと思います。
常世の国と表現される、食料の豊かな国。そして、そこには、弥生人が入ってくる以前から多くの縄文人が暮らしていた土地でした。渡来系のヤマトにより征服されてしまった後も、縄文人のもっていた狩猟技術が兵力として活用されたのだと思われます。また、それと同時に、日本の東の常世の国の中では、非常に高い文化を育む素地も存在していたようです。商売用に創り出されたランキングに踊らされること無く、古代より発展した茨城を誇りをもって愛していっていただければと思います。

CTスキャンで、聖徳太子の正体を暴け! 奈良市元興寺

日本書紀にも記録されている通り、日本における最古の寺は用明天皇の治世に蘇我馬子が造った「法興寺」でした。建立を発願したのが587年。その後、推古天皇の時代になり、596年に出来上がり、蘇我馬子の子供の善徳が寺司になるとともに、高句麗の僧と百済の僧の二人が住み始めたと書かれています。
この最古の寺である法興寺ですが、今は二つの寺に別れています。ひとつは、明日香村にある「飛鳥寺」です。本尊の飛鳥大仏は、左右のお顔が違います。シンメトリーを嫌う日本独自の美意識の代表です。現在、飛鳥寺は真言宗豊山派の寺です。真言宗豊山派の総本山は、奈良県桜井市にある長谷寺になります。
都が平城京に遷都されたとき、飛鳥にあったものの多くが平城京に移りました。法興寺も平城京に移され、それが「
元興寺」になります。移された当時は非常に大きな寺でしたが、どんどん衰退してしまいました。物部守屋と対立しながら、「仏教こそこの国の指針となる道」との必死の思いで蘇我馬子が建てた寺であり、日本における仏教の出発地点といっても過言ではない寺です。同じ奈良市にある東大寺に負けないくらいの壮大な寺であってしかるべきだと思いますが、馬子の名声がそがれていくに従い落ちぶれていってしまったということなのだと思います。代わって、天下を取った藤原氏の氏寺である興福寺は、逆に壮大な寺へと発展していきました。仏教の世界も、歴史や、教えだけではダメなんですね。時の権力に付いていかなければ繁栄はないということがよくわかります。今では、奈良市内に、2つに別れて存在しています。
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1つは、奈良の中院町というところにある、昔、元興寺極楽坊と名乗っていた元興寺です。本堂も国宝で、世界遺産にも登録されています。今は真言律宗に属します。総本山が西大寺です。もうひとつの元興寺は、芝新屋町というところにある東大寺の末寺で華厳宗に属しています。たったひとつの寺にも、紆余曲折に富んだ深い歴史が隠されています。
今回、前者の方の元興寺で、大きな発見が報告されました。2014年4月14日。境内にある元興寺文化財研究所は寺にある奈良県指定文化財の
聖徳太子二歳(南無仏太子)像の内部に納められた仏塔「五輪塔」に、CT(コンピューター断層撮影)調査を行ったのです。
聖徳太子二歳(南無仏太子)像は高さ
68.2センチで、鎌倉時代の13世紀末頃に制作されたものです。昭和35年のX線透過撮影による調査で、既に右大腿部に納められる五輪塔が確認されていました。右大腿部から腰にかけてぐらいの大きさで、木製の塔が動かないように、支え棒で抑えられて埋め込まれているのです。塔はもともと、舎利(お釈迦様の骨)を入れる物として始まり、進化していきました。日本では、3重の塔や5重の塔という建造物へと変化しています。今回は、その五輪塔を詳細な分析をおこなったというっものなのです。
南無仏太子像について、もう少しお話しておきます。聖徳太子が二歳の時、東方に向かって「南無仏」と称えて合掌された時、手から舎利(仏の骨)が出たという言い伝えがあり、その姿を彫ったものなのです。二歳の時、「南無仏」と唱えて合唱するだけでも凄いことですよね。私の娘などは、二歳の時意味不明な線の絵しか描けず、「この子は大丈夫だろうか」と心底心配したものです。最早、二歳のイメージから既に神格化されてしまっているのが分かるかと思います。
聖徳太子信仰という方が適切かと思いますが、聖徳太子を祀る人々の間では、この二歳の太子の話は有名で、南無仏太子像は、あちこちに存在しているのです。ただ、この像は他の南無仏太子像と少し異ななっているのです。他の南無仏太子像は坊主頭なのに対し、髪をみずらに結っているのです。また、緋の長袴をはいて両足ともに見えないのが普通ですが、ずぼんでしょうか、をはき、裳をつけていて、足に沓をはいているのがわかるのです。つまり、大量に造られた品のひとつではなく、特注でかつ、非常に丁寧に造られている像なのです。南無仏太子像
そのような像ですから、何かがあるはずという期待は膨らみます。また、この元興寺文化財研究所は、知る人ぞ知る考古学の大研究所でして、錆びてボロボロだった埼玉の稲荷山鉄剣から、金象嵌であることをつきとめ、X線で文字をあぶりだしたのがこの研究所です。ですから、私だけかもしれませんが、元興寺文化財研究所がCTスキャンするというだけで、何がでるのだろうとドキドキしてしまうのです。ましてや、昭和35年にX線透過撮影をしたとき、なんと、右大腿部に納められる五輪塔が確認されているのです。いやが上でも期待は膨らみます。
そしてCT調査の結果、釈迦の遺骨を意味する舎利の金片や銀片、水晶などとみられる数ミリ程度の舎利十数粒が確認されました。また、像の首の内部には、封書2通があることも判明しました。制作当時の願文や銘文などが記載されているとみられています。担当者は「像を解体するまで封書の中身は不明だが、舎利は、太子像に沢山の思いが込められた証拠」と話しています。
「手から舎利が出た」という伝承をそのまま実現できなかったとしても、体の中の舎利を収めた塔を埋め込んでいるというのは、いかに聖徳太子信仰が強かったかを物語っています。また、舎利がそんなに多く分けて伝わっていたとは思えなかったのですが、金や銀、水晶を舎利として代用していたというのは、「なるほど」と感心させられました。

また、この像は少し曰く付きの品でもあります。江戸時代の話として、尾張第七代藩主徳川宗春が鷹狩の道すがら、上宮寺へ立ち寄り聖徳太子二歳像を参拝後、この像をいったん名古屋城へ持ち帰ったと言います。だか、手元においておいては行けないと知り、後に返却したと伝えられています。徳川宗春に、何か祟りのようなものが降り掛かったのかもしれません。
多分、室町時代ぐらいの作品ですから、非常に芸術性が高い物ですが、奈良県指定文化財にしかなっていません。しかし、私は、聖徳太子信仰を物語る大切な遺物の一つであると思っているのです。
聖徳太子立像
聖徳太子はいなかったのではないかというのが、現在の通説です。近年では、高野勉氏が、真の聖徳太子は蘇我馬子の子の善徳だという説を投げかけられています。これは、なかなか面白いと思っているのです。大山誠一氏の聖徳太子は虚構だという説は有名ですし、冠位十二階と遣隋使以外は嘘八百だという意見もわからないわけではないです。しかし、大山氏の意見は厩戸皇子は実在したと言っているだけに、スッキリしません。
一番スッキリしないのが、じゃなぜ、藤原不比等は聖徳太子のような人物を日本書紀の中に登場させ、活躍させねばならなかったのかというのが、全く説明されていないことです。もちろん、時代は天皇制を中心とした政治に移っていきますから、その手順として王族が摂政をやるような状況から移っていかなければならなかったと言いたかったかもしれませんが、そうであるなら、逆に時代の流れとして推古天皇が一人で治世を行ったというのはかなり無理のある論理となってしまうと思うのです。
しかし、もし、高野勉氏の説ならば、悪役蘇我馬子の子供が仏教中心の治世を体現したとはすることができず、ましてや、藤原不比等にとっては、その仏教中心の治世を体現した蘇我宗本家を倒したのが、自分の父親と天智天皇こと中大兄皇子であったなどということを言えなくなってしまいます。そうであるなら、蘇我馬子の子の善徳の業績を全て、聖徳太子に入れ替えるということも考えられると思うのです。法興寺の寺司として、名を残す善徳。「聖徳」は「善徳」に対し造られた言葉であったとするなら、これもまた、よくわかるのです。
太子生誕1440年の今年、そろそろ聖徳太子の真の姿であり、正体が暴かれる日も近いのではないかと考えます。

後漢の王霊帝の末裔が支えた蘇我氏の世 新沢千塚古墳群

奈良県橿原市は、日本初代の天皇とされる神武天皇を祀る橿原神宮があります。
マップ
その北には、神武天皇陵がありますが、その2つの間に分け入るかのように大和三山の一つの畝傍山(うねびやま)があります。古事記には、神武天皇が作った宮は「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と書かれていましたので、畝傍山の近くだろうということでいろいろ調査され、明治時代に今の橿原神宮のあった場所が選定されました。また、神武天皇の墓は、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は畝傍山の北方の白檮(かし)の尾の上に在る也、とのことですから、これまたいろいろと検討されて、ミサンザイと呼ばれていた墓が選定され整備されました。
さて、この畝傍山の西南の丘に、一辺が2キロメートル四方の古墳地帯があります。これが、「新沢千塚古墳群」です。「千塚」という名前が示す通り、そこは古くからの群集墳があった場所ですが、現在確認されているだけで、600基の古墳が存在します。ほとんどが、土饅頭と言われる直径10メートルから15メートルの円墳です。最初の古墳は、4世紀末に作られたようですが、多くが5世紀中旬から6世紀末までの間に築造されたものです。藤原京の造営時に、残念ながら一部削られて潰されてしまったものもあるとされています。私が知っている限りにおいて、「新沢千塚古墳群」は、日本で最大の群集墳だと思います。
その中の一つの126号墳は、5世紀後半の築造とされる一辺が20メートル前後の方墳です。ここからは、大量の装飾品以外に、日本史上初の火熨斗(ひのし)、つまり、アイロンが出土しました。また、西域から新羅経由でもたらされたと見られる希少なローマンガラス製品が出土しました。
そして、2014年7月。このローマンガラス製品を東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らが蛍光X線分析を行った結果、出土した円形切子(きりこ)ガラス括碗(くびれわん、口径約8センチ、高さ約7センチ)の化学組成は、ササン朝ペルシャ(226651年、現在のイラン・イラクなど)の王宮遺跡で見つかったガラス片(5〜7世紀)とほぼ同じことが判明しました。
ペルシャガラス

これにより、当初、新羅と非常に強い関係のある人間が埋葬されていたと考えられていましたが、そんなものではない。非常に由緒正しき権力者か、権力者の家系に育ったで有ろう人が埋葬されているということがわかったのです。
では、その埋葬者とは一体誰なのでしょうか。一辺が
20メートルの方墳は、天皇の墓ではありません。方墳をつくることができるだけの有力者であり、かつ、群集墳を構成するだけの一族であること。加えて、天皇に匹敵する程の宝物を手に入れられるような人でなければなりません。そのような人がいるのでしょうか。
この新沢千塚古墳群の東には、桝山古墳(ますやまこふん)があります。崇神天皇の子供である倭彦命(やまとひこのみこと)の墓とされています。日本書紀の中では、倭彦命が死んだ時、殉死する家臣を生き埋めにしたら、数日間土の中から泣き叫ぶ声がしたため、以降、殉死を禁じたとされる話がでてきます。宮内庁の管理になっていますが、殉死の跡があったのかどうか非常に興味のある墓ではあります。
しかし、この古墳は、5世紀前半に作られた、一辺が約90メートルの日本最大の方墳でした。「でした」という過去形なのは、幕末に陵墓の補修という名目で、この方墳を前方後円墳に無理矢理かえてしまったのです。ですから、航空写真でみると、奇麗な前方後円墳の形をしています。良かれと思って、やったのでしょうが、「一番やってはいけないことをやってしまった」ようです。嘆かわしい限りです。
第一、5世紀に築造された古墳であるなら、崇神天皇の時代からは大きくずれています。倭彦命が実在していたとしても、その墓ではないのです。やはり、ここも新沢千塚古墳群と同じ一族の人の墓であるのではないでしょうか。
この新沢千塚古墳群の近くには、継体天皇の子供の宣化天皇の墓があります。兄の安閑天皇の墓は、大阪の古市古墳群の中にあり非常に不思議な気がするのですが、宣化天皇の宮とされる檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)は明日香村ですから、さほど離れていませんので、ありうるかなとも考えます。もし、宣化天皇であるとするなら、この新沢千塚古墳群は、それを支えた大伴金村の一族の墓であった可能性は大いにあります。出土する豪華な副葬品からも、ここを大伴氏の群集墳と言われる方は多いようです。しかし、どうして大伴氏がササン朝ペルシャの碗を手にすることができたのでしょうか。それを説明する理屈はなかなかつけられなにのではないでしょうか。
大伴金村
そもそも、大伴金村は、欽明天皇によって、百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚させられたとき、摂津国の住吉郡に籠ってしまいます。また、住吉郡にある帝塚山古墳は、有名は大伴金村の墓とされています。大伴氏の本貫は、天香具山の北側で、三輪山の西の地域でした。大王家に接するように領地を持っていました。新沢千塚古墳群や、桝山古墳、宣化天皇陵の土地は、大伴氏ではなく蘇我氏の領地です。もし、その土地の支配者から考えるのであれば、大伴氏ではなく、蘇我氏であってしかるべきです。
ただ、蘇我氏の墳墓は現在の明日香村に展開しています。そこで考えられるのが、乙巳の変の時、蘇我邸を守っており最後迄蘇我氏のために戦おうとした東漢氏(やまとのあやうじ)です。日本書紀の応神天皇の段に、「倭漢直の祖の阿智使主(あちのおみ)、其の子の都加使主(つかのおみ)は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」と書かれています。そして、東漢氏は大和国高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだとされています。檜隈寺(ひのくまでら)跡からみると、北西の方角に3キロぐらい離れた場所に新沢千塚古墳群が存在します。東漢氏の子孫は、日本全国に広がりましたが、宗家はこの地で代々高市郡を治めていたと考えられます。自国から多くの人を呼び寄せ、ヤマト政権の基盤作りに多いに貢献した人々でありました。
続日本紀によりますと、東漢氏出身の下総守(しもうさのかみ)坂上苅田麻呂(さかのうえの かりたまろ)が言ったこととして、「阿知使主(あちのおみ)は後漢の皇帝であった霊帝の曾孫であり、帯方郡からやってきた」と記録されています。後漢は霊帝がなくなると、子供の劉弁へ、このとき異母弟の劉協は渤海王に封じられます。劉協は、この後直に「献帝(けんてい)」となり後漢の皇帝となりますが、群雄割拠の時代へと突入しご存知の方も多い「三国志」の世界が展開します。
霊帝の曾孫とは、誰の子供であったのかを指しているのかわかりませんが、帯方郡から来たというのであれば、劉協が渤海王の時の子供なのかもしれないと考えます。いずれにしろ、中国は動乱の時代に入りますので、日本に多くの人々が移って来る良いタイミングであったことも確かだと思います。私は、これは事実ではないのかとも感じるのです。百済や新羅、高句麗と言わず、帯方郡からやってきたというところにも、真実の香りがして仕方がないのです。阿知使主の直系の子孫に対し、天武天皇は「忌寸(いみき)」の姓を与えています。これは、八色の姓で上から四番目のものです。ここからは、想像の域を出ないのですが、続日本紀の記載から見るにつけ、私は、阿知使主は帯方郡の王家(王という言葉は適切ではないですが)であったのではないかと推測するものです。
つまり、「三国志」の英雄からはじかれた一族が、日本で蘇我氏を盛り立て新たな国づくりをしていたというのが事実なのではないかと考えるのです。そうであればこそ、その後無謀にも中国(隋)と対等につきあおうとした聖徳太子が作ったと言われる書状「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という言葉に、繋がっているのではないかと思うのです。中国の皇帝にへりくだる筋合いなどないのであるという根拠がここに存在しているのです。
私の整理としては桝山古墳は後漢の王霊帝の子孫である阿知使主(あちのおみ)、そしてササン朝ペルシャのガラスが見つかった
126号墳は、その子供であった都加使主(つかのおみ)なのではないかと推測するのです。東漢