福岡・元岡古墳群から出土の銘文大刀は金象嵌

1月22日に福岡市埋蔵文化財調査課が、昨年元岡古墳で見つかった銘文入りの大刀は、金で象嵌されたものであったと発表しました。
彫った文字に金属を埋め込む技法を「象嵌(ぞうがん)」と言います。
銘文大刀
これまで、出土した銘文入りの大刀は、この元岡古墳からのものを含めて7例ありますが、その中で金の象嵌のものは、奈良県天理市の東大寺山古墳(4世紀末に築造)から出土した大刀で、180年代に作られたもの。埼玉県行田市の稲荷山古墳(5世紀後半に築造)から出た有名な鉄剣で、「辛亥」年で、471年。そして、この元岡古墳から出土した大刀で、「庚寅」年の(570年か?)3例しかありません。当時、金、銀、銅という金属が、どのように区別され使われていたかはわかりませんが、少なくもの金の象嵌であったことにより、埋葬されていた人物が、かなりの有力者であったことは確実です。
元岡古墳出土の大刀の銘文は「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」で最後の文字は判読しにくい文字ですが、「練」であろうと言われています。「12回練って作った」と言う意味にとらえられています。
金の象嵌であったことは、確かに貴重は発見ですが、私は、この古墳の持つ意味のほうに興味があります。この元岡古墳は5基の古墳がある古墳群です。福岡市の西区になりますが、糸島半島の中にある古墳です。糸島半島は、古代はその付け根の部分がもっと切り込まれた海であったとされており、元岡古墳の南側は海であったのではないかと思われます。魏志倭人伝の時代であれば、南に伊都国、南東に奴国の港を持つ要の地のひとつです。
元岡古墳
九州大学の移転に伴い発掘が進みましたが、平成22年には元岡古墳で最大の墳墓が発掘され、装飾付圭頭大刀(ソウショクツキケイトウタチ)など刀5振と馬具が発掘され、有力な武人であったことが確認されています。また、その墳墓は方墳でした。今回の大刀の出て来た墳墓も、円墳ではなく、多角形をしているとされています。どこの民族であったのかと非常に興味を魅く古墳群なのです。
庚寅年が570年とされたのは、墳墓自体が7世紀初頭の築造であること。加えて、553年に百済から暦博士を招聘したとされることから、庚寅の銘により、570年が選定されました。ただ、この570年頃というのは、北九州地域にとっては激動の時代でもあります。
527年の磐井の乱により、ようやく大和朝廷が北九州を平定しおえたであろう後、562年に大伽耶が新羅に滅ぼされ、伽耶が新羅の一部になります。これに伴い、この北九州の地は伽耶からの多くの渡来者が住み着くことになったことだろうと思われます。
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602年には、来目皇子が新羅討伐のために2万5千の兵を率いてこの地に来たはずです。しかし、筑紫で病気になり死亡したとされています。大和朝廷にとっては、不安定な地盤の上に、新羅に対抗する前線基地を設けなければならなかった時代です。この時、大和朝廷から金の象嵌で銘文を刻まれた大刀を譲り受けた人物とは誰だったのでしょうか。
大刀の出土とともに、銅鈴が出土しました。出土した中では最大のものとされています。馬に付ける鈴ですが、これは伽耶地方の風習です。大和朝廷は北九州の平定を、伽耶から逃れて来た部族に委ねたのかもしれません。

異議あり!大和政権とは無関係 新潟県胎内市城の山古墳の「盤龍鏡」

胎内市場所
1月15日に、新潟県胎内市教育委員会は、新潟県胎内市の城(じょう)の山古墳から出土した銅鏡は、1世紀から3世紀頃迄に中国で作られたであろう「盤龍鏡」であったと発表するとともに、「大和政権経由で持ち込まれたもの」という見解を発表し、「これにより大和政権の影響が及んだ北限が変わる」とコメントしています。城の山古墳の発掘は、昨年4月中旬より第6次調査として実施されていました。9月には、一般公開がなされました。その成果のひとつとして発表されたものです。

城の山古墳

城の山古墳は、新潟県胎内市で見つかった古墳です。前期古墳とされ、4世紀前半の築造だろうと言われています。形は円墳ですが、奇麗な円ではなく楕円状であったようです。東西に41メートル、南北に35メートルです。墳丘の高さは5メートル。頂部には祠があったそうです、棺は、木棺ですが畿内で使われている高野槙ではないそうです。赤色顔料が大量に用いられていた跡があったと言います。
副葬品は翡翠製の勾玉が1点、緑色凝灰岩製の管玉が8点、ガラス製小玉が113点、大刀1点、剣1点、鉄製刀子1点、 鉇1点、鉄斧2点、他にも鉄製品があったようです。副葬品からすれば、確かに畿内や九州で見つかっている前期古墳の内容に似ていることは確かです。これら以外に、弓2張、靫(ゆき)1点も出ています。

ヤマト政権の新潟進出の時期

まず、新潟県胎内市について考えてみたいと思います。胎内市は、新潟県の日本海に面したまちです。阿賀野川の大きな平野に広がる新潟市があり、その
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北に新発田市、そして胎内市です。胎内市の北側には荒川がながれます。その北が村上市になります。
弥生時代、新潟県においては、それ程稲作が盛んであったとは思われないのですが、阿賀野市や五泉市の山裾には高地性集落跡が見られます。高地性集落は「倭国大乱」に備えて築かれた村であったとされていますが、新潟にも領地をめぐった権力争いがまきおこっていたことが推測されます。加えて、非常におもしろいのは、新潟県新潟市の南赤坂遺跡で、ここからは続縄文土器が30も出土しました。北海道で見られるのと同じ型の土器であり、ここから北は北方民族の土地であったことを物語っています。
この南赤坂遺跡の近くでは、同じ新潟市の菖蒲塚古墳(あやめづかこふん)があります。全長53メートルの前方後円墳で、5世紀前半に築造されたものです。副葬品には3種の神器が収められていました。出て来た鏡は、23センチ以上もある新潟県最大の鏡です。つまり、5世紀頃に新潟市に本格的な前方後円墳が築かれ、ここではじめてヤマト政権の影響下に入ったことがわかります。5世紀になって、ようやく新潟平野あたりで北方文化とぶつかり合う境界線が作られたことがわかります。
日本書紀の中に、大化3年(647)「渟足柵(ぬたりのさく)を造り柵戸を置く」という記述が出てきます。最北端の城柵が作られるわけですが、この渟足柵がおかれたのは、沼垂町(ぬったりまち)のあったとされる新潟市東区王瀬です。これが7世紀のことです。時代は大化の改新です。この時、はじめてヤマト政権は新潟市迄を征圧したわけです。さて、胎内市はそこから20kmは北にあります。もし、胎内市迄勢力が及んでいたとするなら、どうして、最初の城柵はもっと北に作られなかったのでしょうか。

盤龍鏡の意味するも

「盤龍鏡」は、その名の通り、鏡の背に龍の絵を描いた中国製の鏡です。中国では後漢の時代から晋の時代にかけて(5世紀前半頃)四川省を中心として多くがつくられました。しかし、「盤龍鏡」と呼ばれる鏡自体の製造が晋の時代に終わったわけではなく、その後も龍の絵が描かれている鏡は中国で作られ続けています。国立博物館に保存されている国の重要文化財に指定されている「盤龍鏡」は、8世紀唐の時代に作られた物であり、八花形で躍動する龍が描かれている、素晴らしい芸術作品です。これは、遣唐使によりもたらされたとされています。共同通信から配信された「盤流鏡」の写真から見る限りにおいて、鏡は平縁ですし、形状や図柄も佐賀県唐津市の久里双水古墳から出土した盤龍鏡と非常に似た物であると思われます。(写真左が城の山古墳、右が久里双水古墳)久里双水古墳は3世紀末から4世紀に作られた、最も古い前方後円墳のひとつです。邪馬台国の時代では、末盧国に比定される場所に作られたものです。

城の山古墳出土「盤龍鏡」
久里双水古墳出土「盤龍鏡」

今回見つかったものは、後漢か魏の時代のものであり、非常に貴重な発見でした。見つかったのか、城の山古墳であったことが重要性を高めました。渟足柵(ぬたりのさく)を越えた場所に、4世紀前半にどうやって鏡がたどりついたのかが問題なのです。写真で見ていただけるように、方や新潟の北側、方や九州は佐賀県です。現在、胎内市教育委員会ではヤマト政権から直接もらったという説を唱えられているようです。シンポジウムなどでは、大阪大の福永伸哉教授(考古学)もその考え方です。ヤマト政権にとっては遠路はるばる朝貢してきたことが誉れであり、城の山古墳の埋葬者にとってみれば、ヤマト政権の威をかざすことができるWIN-WINの関係にあったのだと言われています。4世紀前半のヤマト政権が新潟の北から来た有力者や、北九州の豪族を傘下につけて渡すことが可能なのでしょうか。厚遇したとするなら、どうしてヤマト政権の印とも言える「三角縁神獣鏡」ではなかったのでしょうか。

「盤流鏡」を授けたのはヤマト以外の豪族

私が面白いと感じたのは、矢を入れる箱の靫(ゆき)が一緒に埋葬されていることです。靫(ゆき)が一緒に埋葬されることは珍しいのです。滋賀県東近江市の雪野山古墳は、全長70メートルの前方後円墳です。ここには、靫(ゆき)が埋葬されていました(右写真)。築造時期は、城の山古墳と同じ頃の古墳です。雪野山古墳からは、3面の三角縁神獣鏡が出土しています。非常に強いヤマト政権との結びつきをもっていたことがわかります。
Pasted Graphic

私は、4世紀前半であるなら畿内にも、北陸も福井・石川あたりには力のある豪族達が存在していたと考えます。彼らが、ヤマト政権下と親しくしていたことは間違いないのかもしれません。石川県羽咋郡にある徳田燈明山古墳は、4世紀初頭に作られた前方後円墳です。前方後円墳がヤマトが認めた墓であるなら、既に石川県には存在していました。私は、彼らがヤマト政権の組織下にあったとは思いませんが、交流をもっていたからこそ同じ形体の墓を築造したことは確かだと思います。そして、このような有力豪族が従えていた、地域の有力者達がいたのだと思います。そうであってはじめて、高地性集落の存在につながります。ヤマトが攻め込んで来たから、高地性集落を形成したのではありません。有力豪族に抑えられた胎内地域の有力者が、城の山の埋葬者なのではないでしょうか。彼が、雪野山古墳や徳田燈明山古墳の埋葬者に使えていたかどうかはわかりません。
可能性としては、北陸の有力豪族からもらったのが盤龍鏡や、剣、弓、そして靫であったと考えるのです。だからこそ、城の山は前方後円墳ではなく、かつ、三角縁神獣鏡でもなかった。本当にヤマトとWIN-WINの関係を築ける程、厚遇したのであれば、三角縁神獣鏡が渡され前方後円墳が作られていたはずです。

最後に

4世紀の前半は崇神天皇の頃です。崇神天皇は日本を平定するために、四道将軍を派遣します。北陸平定には、大彦命を使わせました。息子の建沼河別命(たけぬなかわのみこと)は東海道の平定に向かいます。父が北陸、息子が東海道ですから北陸平定はかなり難しいものだったんだろうと想像できます。どんどん進んでいく二人が出会った場所は、福島県の会津であったと記載されていました。北陸から会津に抜ける道は2つ。魚沼から抜けるJR只見線が走る道と、新潟五泉市からJR磐越西線が走る道です。胎内から西へ抜ける道は、南陽市か米沢市へまで行ってしまいます。
4世紀前半に、城の山古墳とヤマト政権を直接結ぶのは、やっぱり無理があるのです。
(2014年1月29日 メルマガに呼応して更新)

追記

2014年11月12日、胎内市教育委員会は「城の山古墳」が前方後円墳であったという会見をしました。真実であるなら、新潟県内で最大の前方後円墳となるばかりでなく、それが4世紀前半に構築されていたという衝撃的な報告となります。推計されている前方部分が非常に歪な方形であることも気になります。メルマガでコメントを出させていただきましたが、慎重な発掘と考察を望みたいと思います。真実であるなら、本当に4世紀前半なのかという検証もお願いしたいと思います。(2014年11月15日追記)