舒明天皇は存在したかを考える 都塚古墳

都塚古墳の発見

1月15日に、奈良県立橿原考古学研究所は、奈良県明日香村川原の丘陵地にある小山田(こやまだ)遺跡で、7世紀中ごろに築かれた一辺50メートル以上の大型方墳の濠(ほり)が発見されたと報告しました。調査委の結果飛鳥時代最大級の古墳であり、都塚古墳と名付けられました。蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートルの方墳)を上回り、推古天皇陵とされる飛鳥時代最大の山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺61メートルの方墳)に匹敵する大きさです。このことから、舒明天皇の墓ではないかと最初は報道されました。
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発掘された溝は、ほぼ東西方向に約48メートルが確認されたようです。幅は最上部が約7メートル、底面が約3.9メートル。深さは約1メートル。北側ののり面には40センチ大の石英閃緑(せんりょく)岩(花こう岩)がびっしりと張り付けられ、底面には15〜30センチ大の石英閃緑岩が敷き詰められていました。また、南側ののり面は一辺数十センチの方形に加工した板石(厚さ5〜10センチ)が積まれていました。一番下に緑がかった結晶片岩が2段に、その上に赤みがかった室生(むろう)安山岩が階段状に8段積み上げられていたようです。
溝を造成した時の土の中から6世紀後半の土器類が出土したことや、板石積みに用いられた石の種類から6世紀末頃から7世紀の築造とみられています。また、墳丘には地震が原因とみられる地割れ跡が長さ4メートル以上にわたって残っていることも分かりました。

舒明天皇即位の不思議
舒明天皇の墓は改葬されて、現在、桜井市の段ノ塚古墳が治定されています。この段ノ塚古墳の場所は桜井市の「忍阪」と呼ばれる場所です。舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の名前がついた場所です。ちなみに、古事記では忍坂日子太子と書かれています。
この押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇の嫡子でありながら天皇になることはできませんでした。敏達天皇の次は用明天皇となり、仏教を重んじたことで蘇我氏が躍進し物部氏と逆転することになったものです。用明の後の、崇峻(すしゅん)、推古の3天皇がいずれも蝦夷の祖父、稲目(いなめ)の娘を母としました。推古天皇がなくなると、後継候補として、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子が皇位を争います。この時、大臣だった蘇我蝦夷の後押しを受けて田村皇子が629年に即位したとされています。蘇我氏の血縁者であるなら、山背大兄王が選ばれるはずですが、なぜか、蘇我蝦夷は人臣に計り血縁者でない田村皇子こと舒明天皇を選出したとされています。
どう考えても、非常に奇妙な選択です。日本書紀は推古天皇の遺言が曖昧であったことを告げます。それ自体不可思議な話です。加えて、当時の蝦夷にとって、他の臣の意見を聞き尊重しなければならない程追い詰められた、もしくは、譲らなければならない立場にあった形跡は全くありません。
何故血縁者でない人物を選出しなければならなかったのか。そうすることで、外戚としての力が弱まることは自明なはずです。私には、この舒明天皇ことを田村皇子が選出されたことが、全く理解できないのです。

舒明天皇の子供達が日本書紀を作る
舒明天皇は、中大兄皇子こと天智天皇と、その弟で日本の基礎を築いた天武天皇の父にあたる人です。まさに、舒明天皇の選出が、時代を大きく変える結果となったのです。
現に、舒明天皇が無くなった4年後、中大兄皇子が主導する大化改新、乙巳(いっし)の変が起こります。本来なら天皇の子供として皇位継承の可能性がある中大兄皇子に、「蘇我の血が入らないあなたは蝦夷がいる限り天皇になれない。」と中臣鎌足に囁かれ、まんまと乗せられてテロを起こしてしまいました。
舒明天皇の選出が、蘇我の時代を終わらせたのです。当時、舒明天皇とともに天皇の候補として名前のあがったのは山背大兄王(やましろのおおえのおう)です。彼は、聖徳太子の子供です。それまでの、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇は皆、欽明天皇の子供です。そして、この時候補に挙げられていたのは、その次の次の世代、即ち、敏達の孫と用明の孫なのです。順当に考えれば、敏達の子か用明の子が皇位を継承すべきです。
日本書紀をそのまま受け止めるなら、舒明天皇の選出は蘇我蝦夷の聖徳太子に対する対抗意識を感じさせる内容になっています。人々は聖徳太子への尊敬の念が強く、太子亡き今は子供の山背大兄王に期待を寄せた。だからこそ、敢えて蝦夷は独断で決済しないで、臣下に計り彼らの声を聞いて舒明天皇を選んだというものです。血の繋がりは無くても、自分の政権は盤石であると言わんばかりにです。
蝦夷の傲慢さが透けて見えるようなシナリオになっているのです。しかし、ここに昨今の「聖徳太子は存在しなかった」という説を当てはめるとどうなるのでしょうか。
舒明天皇の皇位継承のライバルである山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、存在していたとしても際立つ意味が全く無くなります。皇位は、欽明天皇の子供の世代から孫の世代へと繋がれば良いだけの話なのではないのでしょうか。そしてそこには、舒明天皇選出の正当性は全く存在しなくなってしまうのです。
つまり、舒明天皇とは本当は何者であったのかという新たな疑問が登場します。

本当の歴史は・・・・・
私は少々大胆な仮説を立てています。時代の流れは王統の交代が激しくなっていました。ある意味、戦国時代を迎えていたのではないかというものです。継体天皇が新たな王統を築いた後、百済の書にあるように継体天皇王朝はクーデターにより二人の王子ともに殺害され、欽明天皇の時代を迎えます。しかし、それも用明天皇の後、本当は推古ではなく崇峻天皇が立ち、そして蘇我馬子により殺害された。
そして、蘇我氏の王朝が開始されます。蘇我馬子の施策は大陸の政策を消化し日本ナイズさせたものでした。当時の日本にとっては、非常に革新的。これを蘇我の治世とすると、その治世を潰した中大兄皇子は悪者になります。それを避けるために聖徳太子が作り出されました。舒明天皇の事績は、百済大寺と百済宮の建立、それに、遣唐使の開始です。これらは、まさしく蘇我氏らしい施策ではないでしょうか。
また、持統天皇を正当化するためには女帝の前例も必要だった。そこで推古天皇が作り出されます。隋書倭国伝に記録されたアメノタリシヒコは、女帝ではなく男帝でした。こう考えていけば、辻褄が合うことが多いことも事実なのです。
天皇の父を持たない舒明天皇が生み出されたのも、天智天皇、そして天武天皇の系図を正統なものとするためと考えると非常に分かりやすいのです。天智天皇が定めた不改常典は現存しませんが、明記されていた内容はまさに自明です。「大王の位につくことができるのは大王の子供だけ」繰り返されるクーデター故に、作られた基本法であるのだと思います。しかし、この流れは天智の死後も続き壬申の乱を引き起こしました。
日本書紀では舒明天皇の死後4年後、可能性が無くなった中大兄皇子によって、当然のごとく乙巳(いっし)の変が起こり蘇我宗家が滅びます。実に、実に巧妙に作られた筋書きです。本来ならば、誰も疑うことのないストーリーなのですが、残酷にもキーパーソンであった聖徳太子の存在が否定されるに至り、作られた歴史は覆されてしまうことになりました。

舒明天皇の墓ではありえない
そうであるなら、今回発見された巨大な方墳は舒明天皇の墓ではありえません。なぜなら舒明天皇は存在しなかったのですから。蘇我氏の墓であったからこそ土砂に埋もれても修復されることは無かったのです。墓はきっと暴かれ何も残っていないかもしれません。しかし、舒明天皇の墓ではないのですから石棺や骨が出るかもしれません。発掘の報を楽しみに待ちたいと思います。

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秦王国の謎が解けるか 福山市御領遺跡

広島県教育事業団・埋蔵文化財調査室は2014年1217日、同県福山市の御領(ごりょう)遺跡で、屋形船が描かれた弥生時代後期後半の土器が見つかったと発表しました。同調査室によると、日本最古の屋形船の絵だとしています。
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御領遺跡は、平成
20年から続けて調査されている弥生から古墳時代の集落跡の遺跡です。御領遺跡のあるのは、福山市神辺町。「かんなべ」の名前が残る通り、古くから栄えた町で奈良時代には、備後の国分寺が置かれていました。この国分寺の西側の丘陵には、迫山古墳群があります。その中で、最大なのが迫山第1号古墳で、直径が21.5メートルの円墳です。単鳳環頭大刀や銀象眼鍔付大刀などの豊な副葬品が発掘され、権力のあった豪族の墓であることがわかっています。築造は、6世紀後半とされています。
また、この神辺町には、弥生時代の遺跡である亀山弥生遺跡が存在しています。この遺跡が注目を集めたのは、発掘された土器に描かれている文様からでした。三重の環濠跡の中にある集落からは、紀元前2世紀頃の弥生時代前期の土器が発掘され、そこには「ヘラ描き」で沈線文や突帯が描かれていました。また、紀元前1世紀の層から発掘された、すなわち弥生時代中期の土器には、「櫛描き」で文様が描かれていました。百年の間に、土器への装飾用具が「ヘラ」から「櫛」へと移ったことが確認されているのです。
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この亀山弥生遺跡は神辺町の西側にあるのですが、今回の御領遺跡は神辺町の東側にあたります。直線距離にして、ざっと4キロ程度あるでしょうか。その南を東西に流れるのが高屋川になります。福山市の地形は、この神辺町の南側に、芦田川が大きな平野を作り海岸線迄開けています。報道にもあるように、古代はこの芦田川と高屋川が交わる辺までは、全て海だったのかもしれません。丁度、石鎚山が平野を絞るような形で存在し、そのくびれの南側で芦田川と高屋川が交わります。この辺り迄海岸線が来ていたとするなら、遠浅な海は良い漁場であったでしょうし、平地は海風からも守られる地形に恵まれた地域であったこともわかります。
当時の最上級の船が停泊する港であったとすると、その港としての役割は非常に大きいものがあったのかもしれません。以前に岡山では岡山大学のある場所も「津」の地名が残っていることを紹介したと思います。つまり、瀬戸内海は現在と比べ5〜10メートル程海面が高かったのではないかと想像します。そして、古代福山は瀬戸内航路の重要な港であったのだと思います。その、名残が奈良時代にできた国分寺ではないでしょうか。
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発表によると、屋形船はつぼの縁に縦3センチ、横11センチにわたり、横から見た形で描かれていました。中央に緩いV字形をした屋根付きの構造物(屋形)があり、船尾側に旗のようなものが立っているとしています。解説を先に聞いてしまっていたので、なんとなくそんなものなのかなと思いましたが、最初に絵を見ると「うーん」と言う言葉が湧いてくるような絵なのです。見ていただくとわかる通り幼稚園児の線画のようでもあります。
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V字型の屋根というのは、構造的にも非常に理解し難いものですし、不合理極まる形です。ただ、有名な「大橋銅鐸」には高床式の倉庫が描かれているのですが、それは見方によってはV字型の屋根をしているように見えます。遠近をうまく表わすことができないと、V字のような屋根も存在するのかもしれません。
しかし、これは本当に屋形のついた船なのでしょうか。
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日本考古学の殿堂とも言うべき、奈良県橿原市にある考古博物館には古代船のジオラマが飾られています。そこにある船は、10人も乗れないほどの小型の丸太をくり抜いた船です。波切り板も無ければ、前後の大きな反り返りもありません。先頭には、魏志倭人伝で記録されている持衰(じすい)が座っています。無事航海ができるように神に捧げた生贄です。当時、日本には外洋を渡ることができるような大きな船は無かったのかもしれません。伊都国博物館に飾られた船も後ろの形は異なるものの、大きさは橿原博物館の物とほぼ同じです。小さな船で、沿岸部を陸に沿うようにして移動し交易をしていたのだと思います。大陸に渡るためには、出来る限り島づたいに進んだに違いないのです。
だとするなら、この絵は日本の船ではないことになります。この船はどこからやってきたのでしょうか。
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韓国の金海博物館には古代の船が復元されて飾られています。伽耶と呼ばれた頃、鉄の輸出国であった韓国から日本へ、そして中国へ鉄の小さな板を運んだ船です。今回発掘された土器片に描かれた船と酷似している箇所は、前後が大きく反りかえっているところだけです。前に波切り板が付いているのですが、絵には描かれていません。韓国の古代船は、日本の船とは比べ物にならないほどしっかりとした大きな船ですが、古墳からは似たような船の土偶が出土しています。時代が古墳時代であるなら、韓国型の古代船の存在はさほど珍しくありません。しかし、それが弥生時代となると驚異的なものとなります。ただ、金海博物館の船には、屋形はついていませんでした。屋形のついた船というのは、本当に可能性があるのでしょうか。
報道によれば、「土器は2〜3世紀ごろの瀬戸内海西部で広く見られるタイプのつぼの一部」とのことでした。2〜3世紀というと、三国志の時代です。三国志の中には、軍船が登場してきます。ただ、これらの船は、河川を航海するために作られた物で、竜骨と呼ばれる船の骨組みが存在せず、外洋は渡れないのではないかとも言われていることも事実です。
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一方で、中国では戦国時代から軍艦は作られており、三国志の時代には既に外洋へ出ることもできたという意見もあります。有名な赤壁の戦いは水軍戦です。また、呉の初代皇帝の孫権は、東南アジアに使者を使わせたとの記録がありますが、この時の船は七枚の帆を張り700人の乗員を乗せていたということになっています。すなわち、中国の船は外洋へも出ることができていたのです。
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描かれているのが、中国の軍船であると考えるなら、実はそっくりの船が存在します。「露橈(ろとう)」と言う名前の軍船です。船の側面に、櫂が長く突き出した手漕ぎ船です。漕ぎ手を守るように板が張られていて、横からは櫂のみしか見えません。長さは15メートル。片側に8つの櫓があったとされています。この船であれば、真ん中後部に屋形があるとともに、その後ろにも別の屋形があります。屋形と屋形の間の屋根が落ち込むので、V字の屋根の形も出現するのです。
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当時の海運力の差は、中国と日本では、格段の差が生じていたものと思います。魏志倭人伝の中で、伊都国が海に面していたのにも関わらず魏の使者は末盧国、それも、どうやら松浦半島の先端近くで船を降りて陸路を選びます。わざわざ、道無き道を歩いて進むのです。私は、「魏志倭人伝を探る」の中で、これは船を隠すために行ったことと記載しました。当時の日本において、魏から航海してきた船というのは、非常に貴重な存在であったのだろうと推測します。
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こう考えますと、古代の倭の中での交易の主役はもしかすると、漢や、その後の魏、呉、蜀という中国の船であったのかもしれません。渡来人というと、どうしても朝鮮半島から、対馬、壱岐、北九州と順に渡って降りて来たような印象を受けますが、そうではなく、中心は中国にあったのかもしれません。彼らは、日本にも早くから住着き日本を開拓していったに違いないのです。そうであれば、稲作の伝播も説明ができるのです。
7世紀前半、隋の煬帝の命令で日本にやってきた裴世清(はいせいせい)は、その時の記録を隋書倭国伝の中にのこしています。竹斯國(筑紫)の後、東に進み、秦王國(辰王国)に着いた。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、混乱したという記録が残されています。この秦王国こそ、この福山の地であったのかもしれません。
新撰姓氏録によれば、呉王夫差(紀元前495−紀元前473)を起源とする者がいるとのことが書かれています。呉滅亡を契機として山東半島の倭族が朝鮮半島に亡命して辰国を建国するとともに、一部が倭に渡ったと言う説もあります。時期は、三国志の時代のはるか前になりますが、最初の移民はこの頃に始まったのかもしれません。それ以降、福山は7世紀であっても交易の拠点として、中国の言葉で生活していたのかもしれないのです。