大和に王朝ができた理由 中西遺跡の調査

スクリーンショット 2013-03-22 19.47.003月14日、橿原考古学研究所と京都大学大学院農学研究科は、御所市にある中西遺跡・秋津遺跡で見つかった水田後の調査結果を発表しましたこの遺跡では、2万5000平方メートルに約2000枚の水田跡が見つかっています。2万5000平方メートルの水田跡の遺跡は、多分、日本最大のものだと思います。少し前になりますが、滋賀県の守山市で服部遺跡が、確か、約2万平方メートルの水田跡が発見されて騒がれました。今回の中西遺跡は、それを上回る大きさを持ちます。
今回調査が行われたのは、奈良県御所市。紀伊国から紀ノ川を遡って大和へ入るその入り口にある町です。
ご存じの通り、葛城氏の地元です。中西遺跡のすぐ南にある丘の上には、宮山古墳があります。室大墓とか、室宮山とも呼ばれるこの古墳は全長238メートルの大前方後円墳です。葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓ではないかと言われています。西暦400年頃に造られた古墳ですから、今から1600年程前になります。
今回調査された遺跡は、そんなものではない。弥生時代前期ですから、紀元前400年頃、つまり、2400年程前の遺跡になります。
日本において最初に王朝が造られた地が大和であることは、疑いのないところ。九州王朝という説を唱える方もいらっしゃいますが、古代日本の政権の中心が大和であったことは紛れもない事実です。
その大きな疑問の一つが、「なぜ大和なのか?」というものでした。不思議だとは思われませんか?
確かに日本列島の真ん中あたりにありますが、古代において大和の位置はそれ程大きな意味があるとは思えません。大和盆地自体が、敵から身を守るための自然が生んだ堅牢な要塞であったとも思えません。
人が生活していくためには、水が必要です。水のないところに人は住めません。個人的には、守山市の服部遺跡が語るように巨大な淡水湖である琵琶湖こそ、天からの恵み以外の何物でも無いのでは無いか。と思うのですが、国は大和からはじまりました。大和川の水系が、毛細血管のように拡がる大和盆地は、確かに住みよい場所であったのかもしれません。しかし、それでもなお、なぜ大和でなければならなかったのか?という疑問は解決してくれるものではありませんでした。
今回の遺跡調査は、その問題を少し解決してくれたようにも思えます。
2400年前の時点において、非常に多くの試行錯誤の後が見つかったためです。3mx4m程度の田の大きさ。畦の工夫。水を張るための工夫。取水方法の工夫。200年間の間に、水田の形が変化していっていることがわかります。この土地で行われた工夫や改良は、当然、大和盆地一帯に素早く広がったのでしょうし、もしくは、他で成功されたことが持ち込まれた結果の改良なのかもしれません。
単に水田を造る。米を収穫できる。というのではなく、この地では間違いなく生産性が追求されるとともに、収穫量を増やすための工夫がされ続けたのだと考えられます。つまり、
どの地域よりも大穀倉地帯として発達したのではないかとも考えられるのです。
先進の文化や技術の窓口であり、鉄という宝を支配できた北九州に対し、どこよりも大きな穀倉地帯を持つ大和という図式だったのかもしれません。
それにより、驚異的な人口集中を生み出したとも考えられます。魏志倭人伝に言うところの、奴国2万戸に対し、邪馬台国7万戸。それが、国の中心となった源ではなかったかと再認識をした調査報告でした。
葛城氏という一族が、巨大な力を持ったのも、武力ではなく食料生産の力だったのかもしれません。