日本最大の弥生遺跡発掘 高知県南国市田村遺跡

高知県南国市にある田村遺跡群での発掘で、12月15日に現地説明会が催されました。今回の対象は、これまで調査された田村城跡を含む田村遺跡群の北側になる田村北遺跡と呼ばれる場所となります。
田村城は、室町時代の土佐の守護所のおかれた場所ですが、室町時代に開拓された場所ではなく、弥生時代から連綿と続いている土佐の中心地であります。
田村遺跡群は、高知龍馬空港の建設に伴い調査され有名になりました。弥生時代の遺跡の規模としては非常に大きく注目されていましたが、今回の発掘を含めて出土した竪穴建物跡は合わせて、なんと500 棟近くとなりました。これは、これ迄発掘された弥生遺跡の中で、日本最大の遺跡となります。

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高知県教育委員会の発表資料によりますと、「今回出土した主な遺構には竪穴建物跡、掘立柱建物跡、溝跡、溝状土坑があります。出土した土器等から年代をみると、弥生時代の中期末頃(紀元前 1 世紀) に大きなピークがあり、今回も調査区東半ではほぼ全面に遺構が展開しています.
今次調査範囲の西端部であるI区では、後期終末(紀元 2 世紀頃)の竪穴建物跡が 2 棟出土しました。多数の地元産土器の中に近畿地方産の土器が含ま れており、遠隔地との交流がうかがわれます。
今回の調査成果を既往の成果と併せると、遺構が散在する中期中頃までの景観 から、中期末の大集落、そして後期後半には急激に減少に向かい、終末期には少数の住居が周辺部のみに営まれるという経緯をたどったことがわかります。中期末頃の当地で、列島規模でみても大きな集落が展開した理由は何か、また、その 集落が終末期になるとなぜかつて栄えた地区の中心を避けるように営まれたのか、 発掘調査の成果は私たちに問題を投げかけています。」としています。

歴史探求社解説

発表にもありましたように、非常に面白いのは、紀元前 1 世紀にピークを迎え、紀元 2 世紀頃に急激に減少していることです。すなわち、邪馬台国が魏志倭人伝に報告された倭国の大乱の時代に、集落は縮小に向かっているという事実です。
南国市は高知市の隣にある、大きな平野を有する地です。しかし、高知県の県境が示すように、非常に険しい山地に囲まれており、陸路を通って他国が攻め込んでくることはほとんどできない地となっています。発達した北九州や朝鮮半島からの船は、穏やかな瀬戸内海航路を通って畿内に来ていたと考えられていました。もしくは、出雲を経由して若狭から入って来たと言われています。四国の太平洋側を通る航路は、これまで考えられていませんでしたが、鹿児島、もしくは、宮崎を経由して、高知、紀伊半島南端へと進む航路が確立していたのではないかとも思わせる発掘です。ひいては、中国江南地方との強いつながりがあったのではないかと想像させるものです。また、2世紀の土器に畿内の土器が混じっていることと、かつ、集落の縮小を合わせて考えますと、やはり、畿内勢力による侵略征圧があったのではないかと思わせる内容です。
今後の発掘物に、注目したいと思います。

古代日本と古代朝鮮の文字文化交流 歴博国際シンポジウム

歴博シンポジウム
12月15日と16日に渡る2日間、イイノホールで開催された国立歴史民族博物館主催、朝日新聞社後援のシンポジウム「古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」に参加してきました。日本と韓国の考古学、並びに古代史研究家が文字文化を中心に研究発表を行うとともに、最後はシンポジウムが行われました。韓国側が国立博物館や、文化財研究所の方々に対して、日本はいくつかの大学教授という構成に、古代史に取り組む国の姿勢の違いを見たような気がしました。古代史研究は国家事業であるという考え方が日本には薄いのかもしれません。
木簡の研究が発表の大勢を占めました。韓国では6世紀に、日本では7世紀に使用されることになる木簡は、単なる荷札や指示書等の役割でなく、論語が記されたものがあったり、信仰や日記等に使用されていた報告は興味深い内容でした。(大阪大市氏、山形大三上氏等)また、同じ漢字を用いながらも、韓国と日本における表記方法の違いや(愛知県立大犬飼氏)、逆に同一文字の使用から百済の影響を見られた内容も(早稲田大李氏)、個人的には自分の理論構成を助けるヒントとなるものでした。韓国国立文化財研究所長の金氏の新安陶磁器と日本の僧の関わり、韓国国立海洋文化財研究所の林氏による沈没船の積荷から研究なども、面白く聞かせていただきました。できることなら、水中に長時間沈んでいたにも関わらず、陶磁器の墨書や木簡の文字が消えなかった理由も知りたいと感じました。使用された墨になんらかの物質が配合されていたのでしょうか。
また、せっかくの、日韓共同研究であるなら、百済、新羅の研究に比較し、大幅に遅れを見せている伽耶地域の研究と倭のかかわりについての研究も、共同テーマとして取り上げ発表いただければと思います。総じて、有意義な2日間を過ごさせていただきました。

小札甲を身に着けた男性人骨発掘

毎日新聞 2012年12月10日 20時40分(最終更新 12月10日 21時56分)
毎日新聞の報道が、やはり一番詳しいので、まずは、その報道をそのまま紹介させていただきます。写真は、FNNの報道から抜き取りました。
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 群馬県埋蔵文化財調査事業団は10日、同県渋川市の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、6世紀初頭(古墳時代後期)の火山灰の地層から、よろいを身に着けた成人男性の人骨が見つかったと発表した。古墳時代のよろいが副葬品ではなく、人が実際に装着した状態で出土したのは全国初という。近くの榛名(はるな)山二ツ岳の噴火で火砕流に巻き込まれたとみられ、同事業団は「当時の生活や習俗、災害について知ることができる貴重な手がかりとなる」としている。
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 金井東裏遺跡は榛名山の北東約9キロ。同事業団が国道バイパス建設工事に伴い発掘調査したところ、人骨は幅約2メートル、深さ約1メートルの溝の中で、後頭部や腰骨以外のほぼ全身の骨が残った状態で見つかった。よろいは背中側が露出しており、高さ60センチ、幅50センチ。多くの小鉄板が重なり合っており、長方形の鉄板を革ひもでくみ上げた「小札(こざね)甲(よろい)」と判断した。
 榛名山の方向を向き、膝を折った状態でうつぶせに倒れていたことから、同事業団は
火山から逃げようとしたのではなく、山の怒りを静めるため、よろいを着て儀式を執り行っていた可能性もある」と推測する。
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 また当時、小札甲を作る工房は近畿にしか見つかっておらず、県内でも小札甲が副葬品として出土しているのは支配者層の古墳に限られていることから、「大和王権とつながりが深い、政を担うような首長など地位のある人物だったのではないか」とみている。同遺跡の西側にある同時代の金井丸山古墳からは、副葬品として鉄剣3点が出土しており、男性と関連がある可能性があるという。 このほか、近くから生後数カ月の乳児の頭骨や鉄製の矢じり十数点も見つかった。複数の人が火砕流に巻き込まれたとみられる。
 榛名山の周辺では、金井東裏遺跡から約1キロ離れた国指定史跡の黒井峯(くろいみね)遺跡と、約4キロ離れた県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡が、同じく6世紀に榛名山の噴火で埋没しており、両遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれている。【奥山はるな、庄司哲也、塩田彩】



歴史探求社解説

報道を聞いて、まず、群馬県埋蔵文化財調査事業団の方の推測に驚きました。どうして、こうも貧困な発想しか出てこないのか。噴火した火山を前に火山灰を被りながら、山の怒りを鎮めるために、鎧を着て儀式を行っていた等あるはずがないでしょう。鎧を着たのは、火山弾から身を守るためであったでしょうが、飛んでくる火山弾から身を守ろうと伏したところを火砕流に巻き込まれたと考えるのが普通なのではないのでしょうか。シャーマンでもない、一介の兵士が噴火した火山の山の怒りを鎮める儀式を行う等、ありえない話です。
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金井丸山古墳は、5世紀末から6世紀と推定される古墳です。榛名山の噴火記録は、6世紀初頭と中頃ですので、もちろん時代としては6世紀初頭、継体天皇の御代であったと思われます。継体は近江からきた皇統としては非常に薄い天皇と考えられています。さきたま古墳で出土した鉄剣に刻まれていた文字は、5世紀中頃の雄略天皇の存在と大和朝廷の力が関東迄及んでいることをしめすものでしたので、関東地方の北側迄大和朝廷の力が及んでいることには驚きませんが、この発見により大きな物証となることは間違いありません。ちなみに、小札甲(こざねよろい)の発祥は、朝鮮半島になります。参考迄に小札甲(こざねよろい)の図を添付しておきます。