舒明天皇は存在したかを考える 都塚古墳
都塚古墳の発見
1月15日に、奈良県立橿原考古学研究所は、奈良県明日香村川原の丘陵地にある小山田(こやまだ)遺跡で、7世紀中ごろに築かれた一辺50メートル以上の大型方墳の濠(ほり)が発見されたと報告しました。調査委の結果飛鳥時代最大級の古墳であり、都塚古墳と名付けられました。蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートルの方墳)を上回り、推古天皇陵とされる飛鳥時代最大の山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺61メートルの方墳)に匹敵する大きさです。このことから、舒明天皇の墓ではないかと最初は報道されました。

溝を造成した時の土の中から6世紀後半の土器類が出土したことや、板石積みに用いられた石の種類から6世紀末頃から7世紀の築造とみられています。また、墳丘には地震が原因とみられる地割れ跡が長さ4メートル以上にわたって残っていることも分かりました。
舒明天皇即位の不思議
舒明天皇の墓は改葬されて、現在、桜井市の段ノ塚古墳が治定されています。この段ノ塚古墳の場所は桜井市の「忍阪」と呼ばれる場所です。舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の名前がついた場所です。ちなみに、古事記では忍坂日子太子と書かれています。この押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇の嫡子でありながら天皇になることはできませんでした。敏達天皇の次は用明天皇となり、仏教を重んじたことで蘇我氏が躍進し物部氏と逆転することになったものです。用明の後の、崇峻(すしゅん)、推古の3天皇がいずれも蝦夷の祖父、稲目(いなめ)の娘を母としました。推古天皇がなくなると、後継候補として、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子が皇位を争います。この時、大臣だった蘇我蝦夷の後押しを受けて田村皇子が629年に即位したとされています。蘇我氏の血縁者であるなら、山背大兄王が選ばれるはずですが、なぜか、蘇我蝦夷は人臣に計り血縁者でない田村皇子こと舒明天皇を選出したとされています。
どう考えても、非常に奇妙な選択です。日本書紀は推古天皇の遺言が曖昧であったことを告げます。それ自体不可思議な話です。加えて、当時の蝦夷にとって、他の臣の意見を聞き尊重しなければならない程追い詰められた、もしくは、譲らなければならない立場にあった形跡は全くありません。
何故血縁者でない人物を選出しなければならなかったのか。そうすることで、外戚としての力が弱まることは自明なはずです。私には、この舒明天皇ことを田村皇子が選出されたことが、全く理解できないのです。
舒明天皇の子供達が日本書紀を作る
舒明天皇は、中大兄皇子こと天智天皇と、その弟で日本の基礎を築いた天武天皇の父にあたる人です。まさに、舒明天皇の選出が、時代を大きく変える結果となったのです。現に、舒明天皇が無くなった4年後、中大兄皇子が主導する大化改新、乙巳(いっし)の変が起こります。本来なら天皇の子供として皇位継承の可能性がある中大兄皇子に、「蘇我の血が入らないあなたは蝦夷がいる限り天皇になれない。」と中臣鎌足に囁かれ、まんまと乗せられてテロを起こしてしまいました。
舒明天皇の選出が、蘇我の時代を終わらせたのです。当時、舒明天皇とともに天皇の候補として名前のあがったのは山背大兄王(やましろのおおえのおう)です。彼は、聖徳太子の子供です。それまでの、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇は皆、欽明天皇の子供です。そして、この時候補に挙げられていたのは、その次の次の世代、即ち、敏達の孫と用明の孫なのです。順当に考えれば、敏達の子か用明の子が皇位を継承すべきです。
日本書紀をそのまま受け止めるなら、舒明天皇の選出は蘇我蝦夷の聖徳太子に対する対抗意識を感じさせる内容になっています。人々は聖徳太子への尊敬の念が強く、太子亡き今は子供の山背大兄王に期待を寄せた。だからこそ、敢えて蝦夷は独断で決済しないで、臣下に計り彼らの声を聞いて舒明天皇を選んだというものです。血の繋がりは無くても、自分の政権は盤石であると言わんばかりにです。
蝦夷の傲慢さが透けて見えるようなシナリオになっているのです。しかし、ここに昨今の「聖徳太子は存在しなかった」という説を当てはめるとどうなるのでしょうか。
舒明天皇の皇位継承のライバルである山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、存在していたとしても際立つ意味が全く無くなります。皇位は、欽明天皇の子供の世代から孫の世代へと繋がれば良いだけの話なのではないのでしょうか。そしてそこには、舒明天皇選出の正当性は全く存在しなくなってしまうのです。
つまり、舒明天皇とは本当は何者であったのかという新たな疑問が登場します。
本当の歴史は・・・・・
私は少々大胆な仮説を立てています。時代の流れは王統の交代が激しくなっていました。ある意味、戦国時代を迎えていたのではないかというものです。継体天皇が新たな王統を築いた後、百済の書にあるように継体天皇王朝はクーデターにより二人の王子ともに殺害され、欽明天皇の時代を迎えます。しかし、それも用明天皇の後、本当は推古ではなく崇峻天皇が立ち、そして蘇我馬子により殺害された。そして、蘇我氏の王朝が開始されます。蘇我馬子の施策は大陸の政策を消化し日本ナイズさせたものでした。当時の日本にとっては、非常に革新的。これを蘇我の治世とすると、その治世を潰した中大兄皇子は悪者になります。それを避けるために聖徳太子が作り出されました。舒明天皇の事績は、百済大寺と百済宮の建立、それに、遣唐使の開始です。これらは、まさしく蘇我氏らしい施策ではないでしょうか。
また、持統天皇を正当化するためには女帝の前例も必要だった。そこで推古天皇が作り出されます。隋書倭国伝に記録されたアメノタリシヒコは、女帝ではなく男帝でした。こう考えていけば、辻褄が合うことが多いことも事実なのです。
天皇の父を持たない舒明天皇が生み出されたのも、天智天皇、そして天武天皇の系図を正統なものとするためと考えると非常に分かりやすいのです。天智天皇が定めた不改常典は現存しませんが、明記されていた内容はまさに自明です。「大王の位につくことができるのは大王の子供だけ」繰り返されるクーデター故に、作られた基本法であるのだと思います。しかし、この流れは天智の死後も続き壬申の乱を引き起こしました。
日本書紀では舒明天皇の死後4年後、可能性が無くなった中大兄皇子によって、当然のごとく乙巳(いっし)の変が起こり蘇我宗家が滅びます。実に、実に巧妙に作られた筋書きです。本来ならば、誰も疑うことのないストーリーなのですが、残酷にもキーパーソンであった聖徳太子の存在が否定されるに至り、作られた歴史は覆されてしまうことになりました。
舒明天皇の墓ではありえない
そうであるなら、今回発見された巨大な方墳は舒明天皇の墓ではありえません。なぜなら舒明天皇は存在しなかったのですから。蘇我氏の墓であったからこそ土砂に埋もれても修復されることは無かったのです。墓はきっと暴かれ何も残っていないかもしれません。しかし、舒明天皇の墓ではないのですから石棺や骨が出るかもしれません。発掘の報を楽しみに待ちたいと思います。秦王国の謎が解けるか 福山市御領遺跡

御領遺跡は、平成20年から続けて調査されている弥生から古墳時代の集落跡の遺跡です。御領遺跡のあるのは、福山市神辺町。「かんなべ」の名前が残る通り、古くから栄えた町で奈良時代には、備後の国分寺が置かれていました。この国分寺の西側の丘陵には、迫山古墳群があります。その中で、最大なのが迫山第1号古墳で、直径が21.5メートルの円墳です。単鳳環頭大刀や銀象眼鍔付大刀などの豊な副葬品が発掘され、権力のあった豪族の墓であることがわかっています。築造は、6世紀後半とされています。
また、この神辺町には、弥生時代の遺跡である亀山弥生遺跡が存在しています。この遺跡が注目を集めたのは、発掘された土器に描かれている文様からでした。三重の環濠跡の中にある集落からは、紀元前2世紀頃の弥生時代前期の土器が発掘され、そこには「ヘラ描き」で沈線文や突帯が描かれていました。また、紀元前1世紀の層から発掘された、すなわち弥生時代中期の土器には、「櫛描き」で文様が描かれていました。百年の間に、土器への装飾用具が「ヘラ」から「櫛」へと移ったことが確認されているのです。

当時の最上級の船が停泊する港であったとすると、その港としての役割は非常に大きいものがあったのかもしれません。以前に岡山では岡山大学のある場所も「津」の地名が残っていることを紹介したと思います。つまり、瀬戸内海は現在と比べ5〜10メートル程海面が高かったのではないかと想像します。そして、古代福山は瀬戸内航路の重要な港であったのだと思います。その、名残が奈良時代にできた国分寺ではないでしょうか。


しかし、これは本当に屋形のついた船なのでしょうか。

だとするなら、この絵は日本の船ではないことになります。この船はどこからやってきたのでしょうか。

報道によれば、「土器は2〜3世紀ごろの瀬戸内海西部で広く見られるタイプのつぼの一部」とのことでした。2〜3世紀というと、三国志の時代です。三国志の中には、軍船が登場してきます。ただ、これらの船は、河川を航海するために作られた物で、竜骨と呼ばれる船の骨組みが存在せず、外洋は渡れないのではないかとも言われていることも事実です。




7世紀前半、隋の煬帝の命令で日本にやってきた裴世清(はいせいせい)は、その時の記録を隋書倭国伝の中にのこしています。竹斯國(筑紫)の後、東に進み、秦王國(辰王国)に着いた。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、混乱したという記録が残されています。この秦王国こそ、この福山の地であったのかもしれません。
新撰姓氏録によれば、呉王夫差(紀元前495−紀元前473)を起源とする者がいるとのことが書かれています。呉滅亡を契機として山東半島の倭族が朝鮮半島に亡命して辰国を建国するとともに、一部が倭に渡ったと言う説もあります。時期は、三国志の時代のはるか前になりますが、最初の移民はこの頃に始まったのかもしれません。それ以降、福山は7世紀であっても交易の拠点として、中国の言葉で生活していたのかもしれないのです。
縄文人物部氏の痕跡 天理市布留遺跡と西乗鞍古墳


奈良盆地に入ると、一番北に奈良市があります。その南になるのが天理市、その南になるのが桜井市です。桜井市は、皆様の好きな箸墓古墳や三輪山があるところ。桜井市の南が明日香村になります。御存知のように、平城京のある奈良市には元明天皇の時710年に遷都されます。それ以前は、持統天皇の藤原京ですから、現在の橿原市です。橿原市は桜井市の西です。その前は、飛鳥の中を点々としていました。つまり、天理市の西乗鞍古墳は、纒向遺跡の北側で平城京の南側にあることになります。飛鳥の時代には都は少しだけ南側にはずれますが、それでも飛鳥の都までは半日歩けば着ける距離です。言い方を変えるなら、卑弥呼の時代から約600年間の間、河内王朝の時代を除けば、政権中枢のごく近くに有った場所ということになります。ここに土地を持っていた豪族こそ、天皇家(大王家)特に、古王朝(纒向王朝)を真に助けた一族だったと言えると思います。


この地で発見されたものに、有名な「布留式土器」があります。土師器が使われ出して、まずは庄内式土器が使われるようになったと言われています。庄内式土器は、古墳が作られる以前の土器です。その後、布留式へと移っていきます。布留式は全国で見つかっています。これまで、古代史レポートでは、前方後円墳や三角縁神獣鏡の分布からヤマト政権の勢力域をお話していましたが、布留式土器の分布も、ヤマト政権の勢力域を示す重要な要素の一つなのです。
さて、ではこの布留遺跡のある場所に住んでいた一族とは誰だったのでしょうか。

答えは、物部氏です。
この布留遺跡の一番東の山の麓にあるのが、石上神宮(いそのかみじんぐう)です。日本最古の神社のひとつとされています、物部氏の総氏神です。この神社は、大神神社と同じで拝殿はありますが、本殿はありませんでした。禁足地として立ち入ることができない地域とされていました。(今は作られています。)主祭神は、この禁足地に置かれていた布都御魂(ふつのみたま)と呼ばれる神剣です。(地名と同じ布留御魂が正式だという方もおられますが、布都と布留は使い分けておられるようですので、このレポートでは布都御魂とさせていただきます。)明治時代には禁足地の発掘が行われ、素鐶頭太刀(そかんとうのたち)が見つかっています。これが布都御魂(ふつのみたま)だと言われています。社伝によりますと、ご神体は、葦原中国の平定の際に使われた剣で、神武東征でも使われた剣とされています。それって、神話の世界じゃないの。との声が聞こえてきそうですが、それ程古い物だと理解してもらえればと思います。また、ここに収められている国宝の七支刀(しちしとう)があります。4世紀に百済が献上した物ではないかと言われている代物です。剣がご神体であるだけでなく、宝物としても保管されています。

布留遺跡の存在は、物部氏が縄文人の一族であったこと、そして、天孫族と呼ばれる渡来人が日本に入ってくる以前にこの奈良の地に住み生活をしていた人々だったことを証明しています。布留遺跡が、何等時間の断絶も無く延々と続いている複合遺跡であることが何よりの証拠です。
その後、渡来人が大和に入って来たことは間違いありません。しかし、その時物部氏は争わず融合し暮らすようになったのだと考えます。神武東征が物語る神話では、物部氏の祖先は饒速日命(にぎはやひのみこと)となっており、饒速日命が恭順を示すことで神武天皇として即位することになっています。饒速日命は、神武天皇の前に天磐船(あめのいわふね)で大和入りをしたことになっています。しかし、物部氏は天磐船でやってきた渡来人ではないと考えます。神武東征が描いているのは、縄文人に対する弥生人の征圧です。
大和の地に入った渡来人が持ち込んだのは、間違いなく稲作です。その地の原人であった縄文人は狩猟を営みやすい山裾に住み、渡来人達は稲作を持込み平地を開拓して田畑としていったと考えられます。平地に住んだ弥生人の遺跡こそが、唐古・鍵遺跡です。稲作が広がるにつれ、渡来系の人々は階層社会を生み出していくことになります。これが、纒向遺跡へと発展していき、ヤマト政権に形を変えていったに違いないのです。
古来より暮していた狩猟民族であった物部氏は、その技術を兵力として使うようになったことは明らかです。収穫後の米を守るために警備が必要となり、ヤマト政権は物部氏を警備の一族として活用するようになったのでしょう。これに伴い、ヤマト政権と物部氏は主従関係ができあがり、ヤマト政権を武力の面で助けるようになっていったのだと考えられます。

西山古墳の後、杣之内古墳群には前方後方墳は作られず、前方後円墳へと姿を変えます。非常に早い時期に、武装集団を卒業し天皇家と同じ祭祀を司る一族へと変質していったのかもしれません。今回報告された西乗鞍古墳(前方後円墳)は、杣之内古墳群(4〜7世紀前半)で最大の古墳です。墳丘長は118メートル。出土した須恵器や円筒埴輪(はにわ)などから、築造時期については5世紀末頃(古墳時代中期末)とした。天皇陵には及ばないまでも、非常に立派な古墳を作り上げていました。
5世紀末と言えば、倭の五王「武」の時、雄略天皇の時代です。阿閇臣国見(あべのおみくにみ)は斎宮であった雄略の皇女を陥れようと嘘をつき、皇女は無実を訴え自殺します。嘘がばれたとき、助からないと考えた阿閇臣が逃げ込んだのは他でもない、石上神宮でした。西乗鞍古墳が築造された頃、物部氏は天皇に対抗できるだけの力を有していたに違いないのです。
物部氏が縄文人であったという説は大胆な説ではありますが、そう考えると納得のできる話は沢山あります。まず、天照大神を信奉していなかったこと。すなわち、太陽信仰を持っていたのではなく、全てに精霊が宿ると言う八百万の神の信仰を行っていました。蘇我氏が仏教を推し進める中、それを反対したのは精霊を祀る一族であったからです。これは、石上神宮が、鏡でなく剣をご神体としていることにも表れています。
物部氏は、ヤマト政権の重鎮であったことは間違いありませんが、例えば和珥氏、蘇我氏、大伴氏に比較して天皇家に出した妃の数は明らかに少ないことが上げられます。もちろん、大物主命や、事代主命を物部一族と考えると別ですが、例えそれを入れたとしても、神武(大物主)、綏靖(事代主)、安寧(事代主)、孝霊(磯城縣主)、孝元(磯城縣主)、開化(孝元と同じ)までで、全てが欠史八代の天皇です。
歴史上、天皇の妃に物部の名前で出てくるのはたった2名で、景行天皇の時の物部胆咋宿禰女である五十琴姫命、崇峻天皇の時の物部守屋の娘布都姫だけです。景行天皇はご存知のとおり、信じられない程多くの妃がいたことになっている一人ですし、崇峻天皇は蘇我氏に殺されてしまっており血が継承されたわけではありません。また、どちらの記録も、先代旧事本紀に記載されているだけの内容です。正直、これほどの家柄ながら天皇家の中で血が入っている人が誰もいないというのが現実です。すなわち、名目上大事にされたが、同じ一族になるような交わりがもたれなかった一族とも言えると考えます。ここにもまた、渡来人でないが故に血が混ざることが嫌われたのかもしれないと思わされる痕跡が残っているのです。
高句麗からやってきた鉱山技師達の跡 丹波市山田大山古墳群
2014年8月7日、兵庫県教育委員会は、兵庫県丹波市春日町山田の山田大山古墳群で、県内最古級となる6世紀初め(古墳時代後期)の横穴式石室が見つかったと発表しました。また、渡来系の人が造ったとされる「T字形」をしており、この形としては県内5例目で、最も古いものだとも報告されました。
委託され調査したのは、県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部ですが、彼らからは「横穴式石室の県内導入期(6世紀前半)に、明確なT字形が見つかったのは初めて。当時の状況を知る上で貴重な資料」との談話が出されました。6月下旬からの発掘調査で、この石室がある5号墳を新たに発見したそうです。5号墳の墳丘は直径約8メートルで、石室には、棺がある玄室の入り口に長さ約1.3メートルの羨道と呼ばれる通路が付いているそうです。また、石室からは須恵器7点などが見つかったとのことです。被葬者は集落程度を治めていた渡来系の人ではないかという感想も話されました。
この報道を見た時の私の感想は、「へーここでも。」というものでした。T字形である石室というのを、あちこちで見るにつけ、私には一つのつながりが見えてきました。
まずは、少し場所を説明したいと思います。丹波と言っても、京都府ではありません。京都府の丹後半島から南へ下ってくると、福知山市があります。この福知山市の南に接するのが丹波市。お隣は篠山市、南は西脇市です。
丹波市春日町の「春日」は、古代の郷名の「春部(かすかべ)郷」に由来するのだと言われています。小学校の名前は、春日部小学校と言い、「かすかべ」の音が残ります。この地を領有していたのは、春部氏で、春部氏は和珥氏(わにうじ)の一族であるとされています。祖先は、日本書紀では、神功皇后に仕えた将軍で武振熊命(たけふるくまのみこと)として登場します。三韓征伐の後に凱旋してきた神功皇后に対し、反乱を起こしたのが忍熊王です。そしてその忍熊王を破ったのが、武振熊命でした。彼は、和珥氏の祖であるとともに、春日氏、真野氏、壬生氏の祖であるとされています。武振熊命は、第5代の孝昭天皇に繋がります。ちなみに、孝昭天皇は欠史八代の一人です。
山尾幸久氏は、日本古代王権形成史論の中で、和珥氏とは2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団であったとしています。日本海側から、広まり瀬戸内海側の播磨地域へ、そして、これまでも度々ご紹介してきた南琵琶湖から山城の地へ、そして大和へと拡大していった一族であったようです。

以前、人々の文化風習の中で、頑に守り続けられるものが埋葬方法であるということをお話しました。死後、人々は「鬼」になると考えられました。だからこそ、死んだ人は「鬼籍に入る」という言い方をします。中国から伝わった考え方ですが、古来よりそう考えられてきました。ちなみに、閻魔大王がもっている閻魔帳とは、鬼籍に入った人達の戸籍謄本のことです。
魏志倭人伝では卑弥呼は「鬼道」を操り、人々を惑わすと書かれていました。「鬼道」とは、死者の霊魂を操る術なのではないかと思います。今も、イタコという職業が残りますが、霊が乗り移ることだと考えています。神様への「祝詞(のりと)」の「のり」は乗り移るの「のり」なのではないかと考えたりもします。この辺は、もう少し勉強が必要な場所なのです。
少し、横道にそれましたが、従って、死者の弔い方を見ると、どこからやって来た人なのかという痕跡を見ることができるのです。だからこそ、古墳は大切なのです。そして、死者をくるんだ棺や、その棺を安置した石室は、そこに埋葬されている人がどのような部族の人であったかを証明してくれる物なのです。
横穴式石室自体が作られ始めたのは、古墳時代も後期になってからです。石室を作る文化は、高句麗から始まった埋葬方法です。この方法が、5世紀には百済に伝わったことが分かっています。伽耶地方にも、5世紀頃の墓に石室が見られています。
日本でも、福岡市の前方後円墳の老司古墳(ろうじこふん)には横穴式石室が確認されていますが、老司古墳は4世紀後半に作られたのではないかと言われています。多分、これが一番古いものだと思われます。5世紀の古墳になると、北九州には多く見られるようになり、6世紀になり全国的にひろまったようです。

つまり、渡来系と言っても、百済や、新羅、伽耶諸国の人々ではなく、高句麗系の人々だということがわかるのです。
同じT字型の石室は、兵庫県内には4つ見つかっていたと思います。姫路に1つ、ご紹介した私の生まれた朝来市に1つ、神戸に1つ、そして、今回見つかった丹波市の隣、篠山市にある稲荷山古墳もT字型石室でした。日本では、約90基が確認されています。浜松市でも見つかっていますし、石川県の羽咋市でも見つかっています。長崎県、徳島県などでも見つかっています。一番多いのは和歌山県です。
同じ一族であるなら、ある地域に定住していいはずですが、なぜ、分散して日本中に散らばっているのでしょうか。それ程迄に、多くの人々が渡って来たということなのでしょうか。
好太王の碑文に残された、高句麗と倭の対決は4世紀末から5世紀の頭のことです。その後、高句麗は、平壌城に遷都し百済を追い込みます。5世紀末には、百済が新羅を手を結び、今度は高句麗を追い込みます。考えられるとすると、丁度その頃、漢江流域の梅竜里で古墳を作っていた一族が百済新羅に追い込まれ、倭へと移動したのではないでしょうか。逃げて移動したのか、はたまた、倭から呼ばれたのか。その辺りのこと迄はよくわかりません。
対馬の厳原町と言っても、対馬の市役所のある中心地ではなく、島の反対側の西側になりますが、佐須(さす)川という短い川がありますが、その流域に矢立山古墳があります。この古墳がT字型の石室を持っています。ここの古墳は、7世紀後半まで追葬という形で使用され続けたことがわかっています。刀装具などが見つかっており、住み着いた頃は有力な一族であったと思われますが、その後は発展することはなかったようです。近くに金田山という名前の付いた山が有ることから、鍛冶に適するような鉱石が出たのかなと推測しています。
浜松市北区にある恩塚山古墳は、静岡で唯一のT字型を持つ古墳です。そして、この地にあったのが、久根鉱山。この鉱山は、昭和45年に閉山になりましたが、それまでづっと続いてきました。近くには、黒姫鉱山、峰の沢鉱山など廃坑になってしまった鉱山跡が沢山残ります。
石川県羽咋市の柴垣ところ塚古墳もT字型を持つ古墳です。ここには、銅を産出した沢口鉱山や、金・銀を産出した富来鉱山がありました。現在は、どちらも閉山しています。
石川県では、他に能登島に蝦夷穴古墳があり、そこにもT字型をした石室のある古墳である須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)が存在します。ここには、燐鉱石が採掘されました。大きな鉱床が海中にあったため、鉱床を取り囲むように堰堤を築き堰堤内の海水をポンプで干拓した上で露天掘りをして掘り出していました。もちろん、古墳時代にはそういう採掘方法ではなかったと思います。
今回の丹波市では、氷上町三原という場所に黒見鉱山と呼ばれる鉱山がありました。銅、銀、硫化鉄を産したようで、近くの生野銀山の鉱床がつながっていたようです。明治頃迄は盛んに採掘されていました。だからこそ、ここに春日氏が住み着いたのではないかと考えるのです。
つまり、鉱物あるところに、必ずT字型古墳が存在しているのです。山尾幸久氏の推測は非常に正しかったことが、これらの一つ一つの発見によって証明されているのです。和珥氏というのは間違いなく、鉱物資源を追い求めた山岳民族だったのだと思います。そして、高句麗からやってきて、鉱物資源を探すために日本中に散らばったのではないかと考えるのです。
鉱山の近くにある、6世紀から7世紀の古墳にはT字型の石室が作られている可能性が非常に多いのです。また、逆にT字型の石室が見つかるのであれば、近くに鉱物資源が眠っているとも言えると思います。和珥氏の本貫は、奈良県と京都府の境。ここにもまた、鉱物が眠っていたのだと思われます。鉄や銅を供給できる一族は、農耕の生産性を上げるため、そして武力の強化に書かせない一族であったはずです。だからこそ、第5代の孝昭天皇に繋がる血筋を描いてもらえる程、重宝されたのだと思います。鉱物を見つける、もしくは、見分ける技術を持った一族の力を改めて感じた発見だと言えると思います。
文化の最先端を走っていた常世の国 茨城県瑞龍遺跡



この漆紙文書から逆算で推計すると、当時、常陸国には約22万人の人が住んでいたことなどが確認されています。当時の日本の人口が、約560万人と推計されていることから考えると、その4%が常陸国に住んでいたことになります。とてつもない密集地とは言いませんが、非常に多くの人が暮らしていた当時の日本の中でも有数の場所であったということがわかります。
これは、奈良時代にはじまったことではないのです。弥生時代の発見された集落の数から推計された人口調査があるのですが、それによると、現在の茨城県は東国の中では飛び抜けて人口の多い地域になるのです。東国では茨城県から群馬県そして、長野へと人口集中地域がちらばります。
この人口推計の結果を裏付けているのではないかと考えられるのが、巨大な前方後円墳の存在です。東国で一番大きな古墳は、何度か説明させていただきました群馬県の太田天神山古墳です。そして、二番目に大きな古墳が、茨城県石岡市にある舟塚山古墳です。墳丘長が182メートルもある大古墳です。巨大な古墳を作る一族が住んでいたことの意味は、その土地が非常に豊かな土地であったこと。きっと、稲作もさかんであったのでしょうし、また、非常に大きな武力を持っていたのだと思います。
その武力は、何に活用されたのでしょうか。石岡市の「鹿の子遺跡」で注目したいのは、数々の工房跡です。その記録や、出土物から、ここが武器製造工場であったことがわかっています。奈良時代のことですから、当然、大和政権の配下にいるのですが、ここで武器を造って何をしていたのかと考えると、そこには蝦夷討伐しかありえないということがわかります。例えば、「潮来(いたこ)」という町があります。橋幸夫の歌で有名な街ですが、水郷の町としても有名です。しかし、潮来はどうやっても、「いたこ」とは読めません。ここは、昔「いたく」と言ったのだそうです。いたくは、「痛い」「処(く)」から来ているそうです。非常に多くの人々を殺した場所だそうで、ヤマト政権と地元の人との戦いが繰り広げられた場所であったそうです。この「いたく」はアイヌ語だとも言われています。
すなわち、地名に残るように常陸国は蝦夷討伐の最前線であった場所であり、その歴史が「鹿の子」での武力の製造地として役割を担い、その上で武力そのものの供給地へと変わっていったのだと理解することもできます。九州に防人が設置されましたが、その防人についたのは、東国の兵であったとされています。東国というと非常に広い範囲をさしますが、私は、この常陸国の人々だったのではないかと考えているのです。
「常陸」の名前の由来は、常陸国風土記には2つの説がかかれています。ひとつは、道路があちこち整備されており、それを直道(ひたみち)と言ったことから、名称にしたというのがひとつ。もうひとつの伝承が、ヤマトタケルが、蝦夷討伐をにやってきたとき、新治国(茨城県の西に有った国)の国造である比奈良珠命(ひならすのみこと)に井戸を掘らせ、その水で手を洗った時に、衣の袖を「浸した」からだと言います。衣袖漬(ころもでひたち)の国とも呼ばれているとも書いています。どちらかというと、後の説明の方が好きですが、どう考えても両方ともこじつけだと思われます。
本当のところは、やっぱり、もっとも東に有り、日が昇る国であったから「日起ち」の国であったのだと思われます。それ以外には考えられません。日が昇る国と言って風土記に書いて報告できなかったところに、常陸のヤマト政権への遠慮が見えるような気がします。
注目したいのは、常陸国が「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで『常世の国』のようだ」と書かれていることです。常世の国とは、永久に変わらない神の領域のことです。現世に対する常世ですから、いわゆる理想郷、仏教用語では極楽ということになると思います。
弥生時代の遺跡分布でもわかるとおり、稲作が盛んで、食べる以上の収穫があったのではないかと考えられます。また、霞ヶ浦は、今は淡水化されてしまっていますが、昔は汽水湖であったことが記録されており、その昔は、太平洋につながる入り江だったのではないかと考えます。そうであるなら、最高の自然条件を持つ地域であったことは確かなのです。
このような豊かな土地を放っておくはずは無く、誰が最初に征服したのかが気になるところです。「国造本紀」によると、「建許侶命(たけころのみこと、多祁許呂命)」は、茨城国造の祖で、成務天皇の時に石城国造(いわき市)に任じられたと書かれています。また、初代の茨城国造は、第15代応神天皇の時代に天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫である「筑紫刀禰(つくしとね)」を国造に定めたことに始まるとされています。常陸国風土記では筑紫刀禰の子、8人のうち1人は筑波使主として茨城郡湯座連の初祖になったとも記録されています。少し、整理しますと、天津彦根命の子が建許侶命。その子が筑紫刀禰で、その子が筑波使主ということになるでしょうか。
これをどのように理解するかですが、建許侶命という有力な人物は蝦夷討伐に多大なる貢献をした人なのではないかと考えます。天津彦根命は、天照大神とスサノオ命のせ誓約によって生まれた子です。すなわち、天孫族と、現地の豪族の間に生まれた子ということでしょうか。筑紫刀禰という名前が、九州からやってきた人物を連想させることも確かです。「筑波山」という名も、筑紫と関係あるのではないかと思います。筑波山は、別名「紫峰」とも呼ばれます。筑紫の文字が隠れているのです。
九州から東征してきた天孫族が、ヤマトに都を築くとともに、日本列島全土を支配しようと東へ東へと進んだのではないでしょうか。その中の重鎮の一人、建許侶命は東国征伐を任されたのではないでしょうか。東北へ歩みを続ける建許侶命は、自分の子をその土地土地の国司として配置ししていったのではないかと思われます。その子供の一人、九州から呼ばれた、筑紫刀禰と呼ばれる人物は、この豊かな地を支配していた蝦夷を討伐し、全てを自分の傘下に組み入れることに成功したのかもしれません。
神武東征がヤマトへの征服で終わること無く、東へ東へと続けられた様子を残しているように思うのです。


瑞龍遺跡で出土した土器には、ひるくながひの横に「女」という漢字が書かれていました。どういう世界なんだと思ってしまうのですが、これを土器に刻んだ人は、その土器を何に使おうとしていたのか、興味をそそられる出土品であることは確かです。
常陸太田市瑞龍町というのは、昔の久慈郡にあたり、常陸国の中においても決して開けた場所ではありませんでした。そのような中においても、国字を生み出すような、もしくは、伝えるような都人が住んでいたわけですから、非常に不思議な土地柄であることがお分かりいただけるのではないかと思います。
常世の国と表現される、食料の豊かな国。そして、そこには、弥生人が入ってくる以前から多くの縄文人が暮らしていた土地でした。渡来系のヤマトにより征服されてしまった後も、縄文人のもっていた狩猟技術が兵力として活用されたのだと思われます。また、それと同時に、日本の東の常世の国の中では、非常に高い文化を育む素地も存在していたようです。商売用に創り出されたランキングに踊らされること無く、古代より発展した茨城を誇りをもって愛していっていただければと思います。