小学生が拾った、乙女をかけた戦いの伝説のかけら

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10月8日、神戸市教育委員会は、小学生が公園で拾い宝物にしていた金属片が、国の重要文化財の鏡の一部だったと発表しました。神戸市の小学6年生が、1年生の時、友達と鬼ごっこをしていて、温泉マークのような模様がついている金属片を拾いまた。この春、社会の授業で青銅鏡の写真を見て、似ていることに気づき教育委員会が鑑定すると、1986年の西求女塚(にしもとめづか)古墳で出土した重要文化財の浮彫式獣帯鏡と形状や材質が一致したというものです。小学生はこれを寄贈し、市長から感謝状を渡された。非常に微笑ましいニュースとして、9日の全国紙でも報道されました。
小学生がこの金属を拾った公園というのが、求女塚西公園。阪神電車西灘駅から、歩いて5分程のところにあります。公園の中には、整備された西求女塚古墳があります。西求女塚古墳は全長98メートルの前方後方墳です。築造時期は、3世紀後半。箸墓古墳の少し後に築造されました。副葬品として、三角縁神獣鏡7面をはじめ、今回少年が拾った破片が一部分であった半肉彫獣帯鏡2面など、青銅鏡が12面、鉄槍や短剣など、鉄製品は230点、碧玉製紡錘車状の石製品も出土しました。副葬品の内容から、ヤマト政権と深い関連のあった豪族の墓とされています。
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弊社の書籍「隠された系図」の中では、この西求女塚古墳を紹介させていただいています。理由は、この西求女塚古墳(図右)が京都府向日市(むこうし)の元稲荷古墳(図左)と築造時期も、大きさ、形状ともにそっくりな古墳だからです。大きさは、どちらの古墳も箸墓古墳の三分の一の大きさで設計されています。前方部の形は、撥状の形をしており、奈良県天理市の西殿塚古墳(墳長234メートル)と同じ形をしています。西殿塚古墳は、宮内庁は継体天皇の皇后である手白香皇女の墓と治定していますが、三世紀後半の古墳ですので、手白香皇女のはずがありません。多くの方が「台与」の墓だと言われていますが、私は、崇神天皇の墓であると考えています。そして、元稲荷古墳と西求女塚古墳は、その形並びに大きさから、日本書紀崇神天皇の条に描かれている、四道将軍の墓であると考えています。そうであれば、辻褄が合うからなのです。
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西求女塚古墳は、現在ではわかりにくいですが、築造当時は海岸線に沿って造られていました。四道将軍のうち、西道を任された吉備津彦命の墓ではないかと思われるのです。吉備津彦命の名前自体は、後に吉備との関係で付けられたものかもしれません。吉備津彦の子孫は吉備に、造山古墳や作山古墳を築くのですが、崇神天皇の頃は、播磨を越えることができるほどの領域を治めていたとは考えられないのです。四道将軍のひとりは、この地域を押さえた海の豪族だったと考えるのです。
神戸市の灘区と東灘区の地には、旧海岸線に沿うように3つの古墳があります。古い順に言うと、ひとつが西求女塚古墳で3世紀後半、次が全長70メートルの前方後円墳である処女塚古墳(おとめづか)で4世紀前半、そしてその東にある東求女塚古墳(ひがしもとめづか)、全長80メートルの前方後円墳で、4世紀の後半に築造されたものです。どれもこの地を治めた一族の墓であると思われますが、処女塚を挟んで、西と東に求女塚(もとめづか)があるというのが非常に面白い構図です。
この地には、求塚伝説と言われるものが存在しています。昔、この地には、菟原処女(うないおとめ)と呼ばれる、美しい乙女が住んでいました。多くの求婚者がいましたが、その中で、特に熱心だった2人の若者が武器を持って争いました。一人は、血沼壮士(ちぬおとこ)と呼ばれ、もう一人は、菟原壮士(うないおとこ)と呼ばれました。乙女は立派な若者が自分のために争うことを嘆いて死んでしまいます。それを知った、2人の若者も後を追って死んでしまいました。それを哀れに思った人たちが、後々に語り伝えるために3人の塚を築いたというものです。
菟原(うない)というのは、灘のあたりの地名です。現在の芦屋市から神戸市の東灘区、灘区、中央区の一部は摂津国菟原郡(うばらのこうり)が置かれた場所です。そして、血沼(ちぬ)は、大阪の南、和泉地方の名を茅渟(ちぬ)といいます。和泉と淡路島の間の海を茅渟海と言いました。関西では、クロダイのことをチヌと呼びます。もしかすると大阪湾全体を茅渟海と呼んでいたのかもしれません。
菟原処女(うないおとめ)の歌は万葉集の中でも歌われていますし、平安時代の「大和物語」にも収録されています。実際に、菟原処女(うないおとめ)を争った事実はあったのかもしれませんが、もしかすると、大阪湾を挟んで、北と南で勢力争いがあったとも考えられます。
西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳は、海岸線に並んで築造されました。同様に、和泉より少し北になりますが、大阪府堺市の海岸線には、乳岡古墳、長山古墳が築造されています。乳岡古墳も長山古墳も4世紀後半に築造されました。海から見ることのできるこれらの古墳は、海の民たちの示威活動のひとつだと考えられます。大阪湾の制海権を巡り、戦いがあったとしてもおかしくはないのです。応神天皇により、河内の地が支配される以前、豪族達による権力闘争が繰り広げられたのだと思われます。
摂津、河内、和泉の地域は、その昔、凡河内国(おおしこうちのくに)と呼ばれていました。凡河内氏と言う名の豪族が支配していました。現在、灘区には五毛天神と呼ばれる神社があります。ここは以前、河内国魂神社であって、代々、凡河内氏が奉祀していました。国造であった一族であり、私は、神戸の3つの古墳は凡河内氏の墓であると考えています。
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西求女塚古墳と、東求女塚古墳は築造年代が100年程違いますから、菟原処女を取り合った若者達の墓ではありません。意図的にしろ、偶然にしろ、一人の女性を求めて男達が争う姿にはロマンがあり、悲恋の伝承にすることで、神戸のど真ん中にありながら古墳は守られていきました。意図的であったとするならば、いにしえの人々の知恵には本当に驚かされます。凡河内氏は、代々続きましたから、この伝承が伝えられていることを知っていました。平安時代には、百人一首に収められた三十六歌仙の一人に、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)がいます。菟原処女の物語にして語り継ぎ始めたのは、案外、この人あたりの策であったのではないかとも思うのです。