高句麗からやってきた鉱山技師達の跡 丹波市山田大山古墳群

「丹波」という名前を聞くと皆さんは何を連想されるでしょうか?「丹波王国?」と感じられた人はかなりの古代史通です。丹波王国は丹後半島を中心に発達したと考えられていますから、まさに日本海沿岸です。袁祁(おけ、顕宗天皇)、億計(おけ、仁賢天皇)が隠れていた場所か?と思われる人もいらっしゃるかもしれません。それも丹波国ですが、やはり丹波王国があったと思われる丹後半島の方で、その後播磨に移ったとされています。(私の著書「竹内街道物語」では、小説ですので播磨で見つかったことに成っています。)丹波王国は日本海側から播磨迄広がっていたとも考えられるのです。

山田大山古墳群

2014年8月7日、兵庫県教育委員会は、兵庫県丹波市春日町山田の山田大山古墳群で、県内最古級となる6世紀初め(古墳時代後期)の横穴式石室が見つかったと発表しました。また、渡来系の人が造ったとされる「T字形」をしており、この形としては県内5例目で、最も古いものだとも報告されました。
委託され調査したのは、県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部ですが、彼らからは「横穴式石室の県内導入期(6世紀前半)に、明確なT字形が見つかったのは初めて。当時の状況を知る上で貴重な資料」との談話が出されました。6月下旬からの発掘調査で、この石室がある5号墳を新たに発見したそうです。5号墳の墳丘は直径約8メートルで、石室には、棺がある玄室の入り口に長さ約1.3メートルの羨道と呼ばれる通路が付いているそうです。また、石室からは須恵器7点などが見つかったとのことです。被葬者は集落程度を治めていた渡来系の人ではないかという感想も話されました。

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この報道を見た時の私の感想は、「へーここでも。」というものでした。T字形である石室というのを、あちこちで見るにつけ、私には一つのつながりが見えてきました。
まずは、少し場所を説明したいと思います。丹波と言っても、京都府ではありません。京都府の丹後半島から南へ下ってくると、福知山市があります。この福知山市の南に接するのが丹波市。お隣は篠山市、南は西脇市です。
丹波市春日町の「春日」は、古代の郷名の「春部(かすかべ)郷」に由来するのだと言われています。小学校の名前は、春日部小学校と言い、「かすかべ」の音が残ります。この地を領有していたのは、春部氏で、春部氏は和珥氏(わにうじ)の一族であるとされています。祖先は、日本書紀では、神功皇后に仕えた将軍で武振熊命(たけふるくまのみこと)として登場します。三韓征伐の後に凱旋してきた神功皇后に対し、反乱を起こしたのが忍熊王です。そしてその忍熊王を破ったのが、武振熊命でした。彼は、和珥氏の祖であるとともに、春日氏、真野氏、壬生氏の祖であるとされています。武振熊命は、第5代の孝昭天皇に繋がります。ちなみに、孝昭天皇は欠史八代の一人です。

山尾幸久氏は、日本古代王権形成史論の中で、和珥氏とは2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団であったとしています。日本海側から、広まり瀬戸内海側の播磨地域へ、そして、これまでも度々ご紹介してきた南琵琶湖から山城の地へ、そして大和へと拡大していった一族であったようです。

5号墳
今回の古墳の所在地名である「春日町」の名前から、埋葬者は和珥氏(わにうじ)の一族であり、元々朝鮮系鍛冶集団であった一族なのだろうということが推測できるのです。そして、今回発見された「T字形」石室により、和珥氏一族であったこと、朝鮮系であったことなどが、裏付けをされたと言っても良いと思います。それ程、意義深い発見だったということです。
以前、人々の文化風習の中で、頑に守り続けられるものが埋葬方法であるということをお話しました。死後、人々は「鬼」になると考えられました。だからこそ、死んだ人は「鬼籍に入る」という言い方をします。中国から伝わった考え方ですが、古来よりそう考えられてきました。ちなみに、閻魔大王がもっている閻魔帳とは、鬼籍に入った人達の戸籍謄本のことです。
魏志倭人伝では卑弥呼は「鬼道」を操り、人々を惑わすと書かれていました。「鬼道」とは、死者の霊魂を操る術なのではないかと思います。今も、イタコという職業が残りますが、霊が乗り移ることだと考えています。神様への「祝詞(のりと)」の「のり」は乗り移るの「のり」なのではないかと考えたりもします。この辺は、もう少し勉強が必要な場所なのです。
少し、横道にそれましたが、従って、死者の弔い方を見ると、どこからやって来た人なのかという痕跡を見ることができるのです。だからこそ、古墳は大切なのです。そして、死者をくるんだ棺や、その棺を安置した石室は、そこに埋葬されている人がどのような部族の人であったかを証明してくれる物なのです。

横穴式石室自体が作られ始めたのは、古墳時代も後期になってからです。石室を作る文化は、高句麗から始まった埋葬方法です。この方法が、5世紀には百済に伝わったことが分かっています。伽耶地方にも、5世紀頃の墓に石室が見られています。
日本でも、福岡市の前方後円墳の老司古墳(ろうじこふん)には横穴式石室が確認されていますが、老司古墳は4世紀後半に作られたのではないかと言われています。多分、これが一番古いものだと思われます。5世紀の古墳になると、北九州には多く見られるようになり、6世紀になり全国的にひろまったようです。
T字型石室
今回の発見は、6世紀初め、それもT字型でした。つまり、羨道を通って石室に入ると、中に横に広い形の遺体を安置する玄室があったということになります。一般的には、玄室は縦に長いのです。この横に長い石室は、韓国でも京畿道、つまりソウルの南東で見られる石室の作り方なのです。漢江(ハンガン)流域にある梅竜里(メリョンリ)にあるヨンガンゴル古墳は、T字型の横穴式石室を持つことが知られています。
つまり、渡来系と言っても、百済や、新羅、伽耶諸国の人々ではなく、高句麗系の人々だということがわかるのです。
同じT字型の石室は、兵庫県内には4つ見つかっていたと思います。姫路に1つ、ご紹介した私の生まれた朝来市に1つ、神戸に1つ、そして、今回見つかった丹波市の隣、篠山市にある稲荷山古墳もT字型石室でした。日本では、約90基が確認されています。浜松市でも見つかっていますし、石川県の羽咋市でも見つかっています。長崎県、徳島県などでも見つかっています。一番多いのは和歌山県です。
同じ一族であるなら、ある地域に定住していいはずですが、なぜ、分散して日本中に散らばっているのでしょうか。それ程迄に、多くの人々が渡って来たということなのでしょうか。
好太王の碑文に残された、高句麗と倭の対決は4世紀末から5世紀の頭のことです。その後、高句麗は、平壌城に遷都し百済を追い込みます。5世紀末には、百済が新羅を手を結び、今度は高句麗を追い込みます。考えられるとすると、丁度その頃、漢江流域の梅竜里で古墳を作っていた一族が百済新羅に追い込まれ、倭へと移動したのではないでしょうか。逃げて移動したのか、はたまた、倭から呼ばれたのか。その辺りのこと迄はよくわかりません。
対馬の厳原町と言っても、対馬の市役所のある中心地ではなく、島の反対側の西側になりますが、佐須(さす)川という短い川がありますが、その流域に矢立山古墳があります。この古墳がT字型の石室を持っています。ここの古墳は、7世紀後半まで追葬という形で使用され続けたことがわかっています。刀装具などが見つかっており、住み着いた頃は有力な一族であったと思われますが、その後は発展することはなかったようです。近くに金田山という名前の付いた山が有ることから、鍛冶に適するような鉱石が出たのかなと推測しています。
浜松市北区にある恩塚山古墳は、静岡で唯一のT字型を持つ古墳です。そして、この地にあったのが、久根鉱山。この鉱山は、昭和45年に閉山になりましたが、それまでづっと続いてきました。近くには、黒姫鉱山、峰の沢鉱山など廃坑になってしまった鉱山跡が沢山残ります。
石川県羽咋市の柴垣ところ塚古墳もT字型を持つ古墳です。ここには、銅を産出した沢口鉱山や、金・銀を産出した富来鉱山がありました。現在は、どちらも閉山しています。
石川県では、他に能登島に蝦夷穴古墳があり、そこにもT字型をした石室のある古墳である須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)が存在します。ここには、燐鉱石が採掘されました。大きな鉱床が海中にあったため、鉱床を取り囲むように堰堤を築き堰堤内の海水をポンプで干拓した上で露天掘りをして掘り出していました。もちろん、古墳時代にはそういう採掘方法ではなかったと思います。
今回の丹波市では、氷上町三原という場所に黒見鉱山と呼ばれる鉱山がありました。銅、銀、硫化鉄を産したようで、近くの生野銀山の鉱床がつながっていたようです。明治頃迄は盛んに採掘されていました。だからこそ、ここに春日氏が住み着いたのではないかと考えるのです。
つまり、鉱物あるところに、必ずT字型古墳が存在しているのです。山尾幸久氏の推測は非常に正しかったことが、これらの一つ一つの発見によって証明されているのです。和珥氏というのは間違いなく、鉱物資源を追い求めた山岳民族だったのだと思います。そして、高句麗からやってきて、鉱物資源を探すために日本中に散らばったのではないかと考えるのです。
鉱山の近くにある、6世紀から7世紀の古墳にはT字型の石室が作られている可能性が非常に多いのです。また、逆にT字型の石室が見つかるのであれば、近くに鉱物資源が眠っているとも言えると思います。和珥氏の本貫は、奈良県と京都府の境。ここにもまた、鉱物が眠っていたのだと思われます。鉄や銅を供給できる一族は、農耕の生産性を上げるため、そして武力の強化に書かせない一族であったはずです。だからこそ、第5代の孝昭天皇に繋がる血筋を描いてもらえる程、重宝されたのだと思います。鉱物を見つける、もしくは、見分ける技術を持った一族の力を改めて感じた発見だと言えると思います。