縄文人物部氏の痕跡 天理市布留遺跡と西乗鞍古墳

西乗鞍古墳
2014年11月6日、天理市教育委員会により、天理市杣之内(そまのうち)町の西乗鞍(にしのりくら)古墳(全長約118メートル)の墳丘周辺で、南北の周濠(しゅうごう)と外堤が見つかったという発表がなされました。これまで、西側で深さ約1.3メートルの周濠と高さ約5メートルの外堤が確認されており、墳丘全体を取り囲んでいたのではないかと指摘されていたのですが、今回の報告でほぼ間違いなく、周濠に囲まれた非常に立派な前方後円墳であるということがわかったことになります。
奈良地図

奈良盆地に入ると、一番北に奈良市があります。その南になるのが天理市、その南になるのが桜井市です。桜井市は、皆様の好きな箸墓古墳や三輪山があるところ。桜井市の南が明日香村になります。御存知のように、平城京のある奈良市には元明天皇の時710年に遷都されます。それ以前は、持統天皇の藤原京ですから、現在の橿原市です。橿原市は桜井市の西です。その前は、飛鳥の中を点々としていました。つまり、天理市の西乗鞍古墳は、纒向遺跡の北側で平城京の南側にあることになります。飛鳥の時代には都は少しだけ南側にはずれますが、それでも飛鳥の都までは半日歩けば着ける距離です。言い方を変えるなら、卑弥呼の時代から約600年間の間、河内王朝の時代を除けば、政権中枢のごく近くに有った場所ということになります。ここに土地を持っていた豪族こそ、天皇家(大王家)特に、古王朝(纒向王朝)を真に助けた一族だったと言えると思います。
布留遺跡
杣之内(そまのうち)古墳群は、有名な山辺の道の西側に大きな古墳が並んでいます。この古墳群の北側が天理の町のはずれ、天理大学が広がる場所となります。そして、その北には、また石上・豊田古墳群が広がります。この古墳群は、5世紀から7世紀の古墳群です。そして、丁度この二つの古墳群に囲まれた地域が天理大学の有る場所ですが、ここにある遺跡を「布留遺跡」と呼んでいます。布留川が真ん中を流れ、その川の扇状地として広がる場所です。
jyoumonndoki
この遺跡は、とんでもなく古く、縄文時代の早期には既に多くの住居があったようで、旧石器時代の石器まで発掘されています。水が有るとともに、豊富な食料を提供してくれる土地であったのだろうと思われます。この南西にいくと、開けた平地となり、そこにあったのが弥生の大遺跡である唐古・鍵遺跡。南へいくと、纒向遺跡です。そう考えると、布留遺跡あたりが最初に縄文人が住み着いた場所で、その後、稲作文化が入るとともに平地へ展開していったのではないかという移り変わりの姿が見えてくるのです。
この地で発見されたものに、有名な「布留式土器」があります。土師器が使われ出して、まずは庄内式土器が使われるようになったと言われています。庄内式土器は、古墳が作られる以前の土器です。その後、布留式へと移っていきます。布留式は全国で見つかっています。これまで、古代史レポートでは、前方後円墳や三角縁神獣鏡の分布からヤマト政権の勢力域をお話していましたが、布留式土器の分布も、ヤマト政権の勢力域を示す重要な要素の一つなのです。
さて、ではこの布留遺跡のある場所に住んでいた一族とは誰だったのでしょうか。
石上神宮
答えは、物部氏です。
この布留遺跡の一番東の山の麓にあるのが、
石上神宮(いそのかみじんぐう)です。日本最古の神社のひとつとされています、物部氏の総氏神です。この神社は、大神神社と同じで拝殿はありますが、本殿はありませんでした。禁足地として立ち入ることができない地域とされていました。(今は作られています。)主祭神は、この禁足地に置かれていた布都御魂(ふつのみたま)と呼ばれる神剣です。(地名と同じ布留御魂が正式だという方もおられますが、布都と布留は使い分けておられるようですので、このレポートでは布都御魂とさせていただきます。)明治時代には禁足地の発掘が行われ、素鐶頭太刀(そかんとうのたち)が見つかっています。これが布都御魂(ふつのみたま)だと言われています。社伝によりますと、ご神体は、葦原中国の平定の際に使われた剣で、神武東征でも使われた剣とされています。それって、神話の世界じゃないの。との声が聞こえてきそうですが、それ程古い物だと理解してもらえればと思います。また、ここに収められている国宝の七支刀(しちしとう)があります。4世紀に百済が献上した物ではないかと言われている代物です。剣がご神体であるだけでなく、宝物としても保管されています。
ふつのみたま
多くの方が、石上神宮はヤマト政権の武器庫だったと習われたのではないかと思います。物部氏が管理を担当したために、ここに置かれたのかもしれませんが、武器に霊力をつけるためにここに保管し祈ったのではないかと考えます。
布留遺跡の存在は、物部氏が縄文人の一族であったこと、そして、天孫族と呼ばれる渡来人が日本に入ってくる以前にこの奈良の地に住み生活をしていた人々だったことを証明しています。布留遺跡が、何等時間の断絶も無く延々と続いている複合遺跡であることが何よりの証拠です。
その後、渡来人が大和に入って来たことは間違いありません。しかし、その時物部氏は争わず融合し暮らすようになったのだと考えます。神武東征が物語る神話では、物部氏の祖先は饒速日命(にぎはやひのみこと)となっており、饒速日命が恭順を示すことで神武天皇として即位することになっています。饒速日命は、神武天皇の前に天磐船(あめのいわふね)で大和入りをしたことになっています。しかし、物部氏は天磐船でやってきた渡来人ではないと考えます。神武東征が描いているのは、縄文人に対する弥生人の征圧です。
大和の地に入った渡来人が持ち込んだのは、間違いなく稲作です。その地の原人であった縄文人は狩猟を営みやすい山裾に住み、渡来人達は稲作を持込み平地を開拓して田畑としていったと考えられます。平地に住んだ弥生人の遺跡こそが、
唐古・鍵遺跡です。稲作が広がるにつれ、渡来系の人々は階層社会を生み出していくことになります。これが、纒向遺跡へと発展していき、ヤマト政権に形を変えていったに違いないのです。
古来より暮していた狩猟民族であった物部氏は、その技術を兵力として使うようになったことは明らかです。収穫後の米を守るために警備が必要となり、ヤマト政権は物部氏を警備の一族として活用するようになったのでしょう。これに伴い、ヤマト政権と物部氏は主従関係ができあがり、ヤマト政権を武力の面で助けるようになっていったのだと考えられます。
西山古墳
杣之内古墳群の中に「西山古墳」があります。183メートルの日本最大の前方後方墳です。築造されたのは、古墳時代前期。すなわち、箸墓古墳が作られた頃か、少し後です。私は、前方後方墳は武力の長(いわゆる、将軍)の墓であると言い続けていますが、この西山古墳こそが、それを裏付けていると考えているのです。前方後方墳を狗奴国の墓だと言っている方々は西山古墳の存在自体をどう説明されるのでしょうか。
西山古墳の後、杣之内古墳群には前方後方墳は作られず、前方後円墳へと姿を変えます。非常に早い時期に、武装集団を卒業し天皇家と同じ祭祀を司る一族へと変質していったのかもしれません。今回報告された西乗鞍古墳(前方後円墳)は、杣之内古墳群(4〜7世紀前半)で最大の古墳です。墳丘長は118メートル。出土した須恵器や円筒埴輪(はにわ)などから、築造時期については5世紀末頃(古墳時代中期末)とした。天皇陵には及ばないまでも、非常に立派な古墳を作り上げていました。
5世紀末と言えば、倭の五王「武」の時、雄略天皇の時代です。阿閇臣国見(あべのおみくにみ)は斎宮であった雄略の皇女を陥れようと嘘をつき、皇女は無実を訴え自殺します。嘘がばれたとき、助からないと考えた阿閇臣が逃げ込んだのは他でもない、石上神宮でした。西乗鞍古墳が築造された頃、物部氏は天皇に対抗できるだけの力を有していたに違いないのです。
物部氏が縄文人であったという説は大胆な説ではありますが、そう考えると納得のできる話は沢山あります。まず、天照大神を信奉していなかったこと。すなわち、太陽信仰を持っていたのではなく、全てに精霊が宿ると言う八百万の神の信仰を行っていました。蘇我氏が仏教を推し進める中、それを反対したのは精霊を祀る一族であったからです。これは、石上神宮が、鏡でなく剣をご神体としていることにも表れています。
物部氏は、ヤマト政権の重鎮であったことは間違いありませんが、例えば和珥氏、蘇我氏、大伴氏に比較して天皇家に出した妃の数は明らかに少ないことが上げられます。もちろん、大物主命や、事代主命を物部一族と考えると別ですが、例えそれを入れたとしても、神武(大物主)、綏靖(事代主)、安寧(事代主)、孝霊(磯城縣主)、孝元(磯城縣主)、開化(孝元と同じ)までで、全てが欠史八代の天皇です。
歴史上、天皇の妃に物部の名前で出てくるのはたった2名で、景行天皇の時の物部胆咋宿禰女である五十琴姫命、崇峻天皇の時の物部守屋の娘布都姫だけです。景行天皇はご存知のとおり、信じられない程多くの妃がいたことになっている一人ですし、崇峻天皇は蘇我氏に殺されてしまっており血が継承されたわけではありません。また、どちらの記録も、先代旧事本紀に記載されているだけの内容です。正直、これほどの家柄ながら天皇家の中で血が入っている人が誰もいないというのが現実です。すなわち、名目上大事にされたが、同じ一族になるような交わりがもたれなかった一族とも言えると考えます。ここにもまた、渡来人でないが故に血が混ざることが嫌われたのかもしれないと思わされる痕跡が残っているのです。