甘樫丘で新たに建物跡発見、蘇我氏の汚名は晴れたのか

大化改新
中学校だったと思いますが、歴史の時間に聖徳太子を勉強した後、大化改新を学びました。崇峻天皇を殺害するなど、治世を我が物として好き放題したのが蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子。その入鹿を滅ぼし、治世の改革を断行したのが天智天皇になった中大兄皇子と中臣鎌足だったと教わりました。当時はテレビで水戸黄門が人気だったのですが、蘇我蝦夷・入鹿と悪代官のイメージが被さり、「悪いやっちゃなー」と感じたのを、未だに覚えています。それから、40年。私の中では、今や全く違ったイメージを持つ、日本の基礎を築くのに貢献した最大級の功労者の一人と写るようになりました。逆に、中大兄皇子と中臣鎌足を非常に愚かな指導者達と受け取るようになってしまっています。これはもしかすると、間違った理解なのかもしれませんが。
激動の7世紀。アジアが覇権争いで大きく揺れ動いた中、日本において仏教の導入により大きな思想の転換をはかり、シャーマニズムとの決別を行うとともに、隋や唐との国交を回復し、現代で言うところの文明開化を成し遂げた一族が蘇我氏であると言えると思います。何と言っても、中国と対等外交を行おうとしたその姿勢は、アジアの他国に真似のできなかった偉業なのです。また、大王家の安定のために、屯倉と呼ばれる全国に散らばった直営地を経営したのも蘇我氏です。渡来人の知識を重んじ、東漢氏などとともに、国家経営を支えた人物であったというのが私の評価です。
今回、新しく見つかった建物跡は明日香村の甘樫丘です。奈良文化財研究所の報告によれば、奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、新たに7世紀半ばごろの2棟の建物跡が見つかったと発表されました。2棟の建物跡が確認されたのは、邸宅跡の中心部とみられる場所の北約100m地点。1棟は東西4.5m、南北3.9m。柱穴の配列から高床式の倉庫跡などとみられるとのことです。別の1棟の規模は東西5.4m、南北3m。建物の性格は不明とされています。敷地内では、谷を最大で5.5m以上も埋め立てる大規模な造成工事がされており、飛鳥盆地を見下ろす丘を広範囲に邸宅として利用していた可能性も考えられるとコメントされています。
645年6月12日蘇我入鹿は、中大兄皇子に斬り殺されます。翌13日、父であった蝦夷は自分の館に火を放ち自殺したと日本書紀に書かれていました。この場所が甘樫丘です。蝦夷の家は丘の上、入鹿の家は谷にあったとも記載されています。この甘樫丘は、長い時間をかけて調査が続けられています。1994年度の発掘調査では、7世紀中葉の焼土層が確認され、大量の土器片や焼けた壁土、炭化した木材などがみつかっていました。これにより、日本書紀の記述が正しかったことが判明したのです。今回の発見は、蘇我氏の館の規模が、単なる邸宅レベルではなく、広範囲に渡る物だったということが判明したことに意味があります。

明日香村位置
ただ、私は、この邸宅と言われた場所が、単純な邸宅ではなかったのではないかと思っています。推古天皇の時、まさしく賢臣蘇我馬子の代ですが、この時、宮は小墾田宮(おはりだのみや)でした。この後、舒明天皇になると宮は飛鳥岡本宮に、皇極天皇は飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)へと移ります。小墾田宮は、甘樫丘の北西になり、岡本宮や板蓋宮は甘樫丘の南東になります。明日香村は南と東が山です。敵が攻めて来るとすると、北側か西側からです。甘樫丘があることで、岡本宮や板蓋宮は敵に宮をさらさずに済むのです。つまり、甘樫丘は砦の役割を果たすことができるのです。丘の上に住むというのは、見晴らしは良いですが、水の問題、また、宮へ出仕するのに厳しい上り下りが待っています。決して便利な場所ではないのです。そのような場所に、好き放題できる権力者が住むでしょうか。蘇我蝦夷の邸宅があった甘樫丘というのは、敵に対して宮を守るための見張り台であり、防御用の砦であったのではないかと考えるのです。馬子や蝦夷は、そこまで考えて、宮を設計し防備を固めたのではないでしょうか。今回は高床式の倉庫がひとつあったようですが、武器庫がなにかであったというような遺物が出てこないかと期待して見ているのです。明日香村
蘇我氏の大きな謎の一つは、蘇我稲目の代にいきなり、国政に登場してくることです。教科書には、蘇我氏の系図として、遡っていくと入鹿ー蝦夷ー馬子ー稲目ー高麗ー韓子ー満智ー石川宿禰ー武内宿禰と書かれています。高麗、韓子などがあり渡来人ではないのかと言う説もあります。「家諜」という家の系図にあたる書が、逸文という形で残っている物があります。「紀氏」の系図は、蘇我氏と同じ武内宿禰を祖とすることから、蘇我氏の系図も書かれています。その中には「馬背宿禰亦曰高麗」と書かれています。つまり、稲目のお父さんの本当の名前は馬背であり、高麗とも呼ばれたということなのです。「馬子」の名前はお爺さん譲りなのかと理解したのですが、どうして「高麗」と呼ばれたかを調べると、お母さんが高麗毘賣(こまひめ)なんです。高句麗の姫を妻に迎えていたんです。だからこそ、力が持て7世紀に国政の中心に躍り出ることができたのです。
今回の発掘結果だけでは、まだまだ不十分ではありますが、蘇我氏が汚名を晴らす日が来るのも、そう遠くないと思われるのです。