神武東征はあったのか? 和歌山和田遺跡の発掘

古代の謎の筆頭とも言うべき、「神武東征」。神武天皇こと神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)は、兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに、葦原中国を治めるために東へと向かいます。宇佐、筑紫を経た後、瀬戸内海を東へ進み、阿岐、吉備を経て大阪に辿り着きます。難波の地で上陸しようとすると、待ち構えていた長髄彦(ながすねひこ)の軍勢が待ち構えていました。長髄彦の放った矢が兄の五瀬命にあたります。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と進言し、難波の地を離れ紀伊半島を回ります。しかし、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で、射られたときの傷が悪化し死んでしまいます。古事記は、五瀬命を、紀国竈山(かまやま)で亡くなり、竈山に陵が築かれたと記しています。
竈山神社
この神武東征は、日本の国の成り立ちを考える上で、非常に重要な話です。出発点が日向の高千穂であることの議論、筑紫を回った理由、阿岐や吉備との関係、この後に上陸する熊野の意味等、謎の宝庫のようなお話です。それ以上に、そもそも本当に神武東征が行われたのであろうかという疑問は、誰しもが持つ謎のひとつです。
五瀬命の墓
五瀬命を葬ったとされる和歌山市和田には、竈山神社(かまやまじんじゃ)があります。祭神は、彦五瀬命。そして本殿の裏に彦五瀬命のものとされる墓が存在しています。
この和歌山市和田で、発掘調査を続ける和歌山県文化財センターが2月9日に、和田遺跡の一般公開を実施しました。和田遺跡は、弥生時代から鎌倉時代迄続く、複合遺跡であり各時代の集落の存在が確認されています。今回は、弥生時代から古墳時代にかけての素掘りの井戸跡や、土器片等が発掘され公開されました。
和田遺跡これが出土すれば、というような期待の品があるわけではありません。しかし、神武東征につながるようななにかが出てくれば、という期待が膨らむ発掘なのです。神武東征の道程において、宮跡や史跡地とされる場所はたくさんありますが、考古学資料として取り上げられるような場所はほとんどありません。五瀬命という代表者の一人を紀国に埋葬したとする記述は、大いに注目されるものです。今回の土器片と井戸跡だけでは、そこに人が住んでいたことしかわかりません。大規模集落であったという跡もなく、正直期待はずれではありました。しかし、この発掘、場所を拡げてでも続けてもらいたいと考えます。本当にこの地に五瀬命を埋葬したとするなら、この地にも神武東征軍が陣をひくだけの大きな村があり、また、この時渡された遺品が残るはずなのです。それは、九州の土器であるのか、阿岐や吉備の土器であるのかはわかりませんが。今度の展開を大いに注目したい発掘調査です。