一支国

一支国


又南に一海を渡ること千余里、名を瀚海(かんかい)と日う。一支國(原文は、一大国です。)に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。

魏志倭人伝に記載されている国の中で、唯一都が明らかになっている国が一支国こと、壱岐島です。
この地には、古代から続く言葉や伝承が未だに息づいている貴重は島です。全ての街には、浦か触(ふれ)という言葉がつきます。浦は海岸地域、触は内陸の村々につきます。古代朝鮮語では村のことを「フル」と言いました。その言葉が今でも生きて使われているのです。
一支国の都原の辻(はるのつじ)は、3重もの環濠で守られた集落でした。発掘された住居跡は130。海岸には面していませんが、船着場も発掘されました。この地の調査結果は、多くの驚きの事実を提供してくれました。海岸近くにあったであろうと思われた各国の都は内陸にあり、小さな川を小舟を用いて海岸へと出ていたこと、国の統治範囲が自然の作った地形の範囲であること、そして、千余里と記載された距離は、一日で進むことのできる距離を示していることもわかりました。原の辻の王は、今、郷ノ浦町大原触(たいばるふれ)の天神の森に眠ります。
この都原の辻は、卑弥呼の時代が終焉を迎えると、忽然と消えてしまいました。栄えた都が消えていった理由は、狗邪韓国からの海を渡って来た人々の侵略でした。シャーマニズムの国であった一支国を馬にのった武力集団が襲いこの地を征服してしまいました。亀石と呼ばれる地域を中心に、壱岐の人々を使い100年程度の期間に280基もの古墳を作らせたこの部族に対して、壱岐の島では鬼伝説が生まれました。江上波夫氏の唱える騎馬民族国家論は壱岐の島では現実のものとして実証することができるのです。
シャーマニズムの国であった壱岐では、対馬同様に海の神を祀りましたが、対馬と違ったのは太陽信仰ではなく月の神を祀ったことでした。対馬から、そして、北九州から丸一日船を漕がなければならない地では、月明かりを大切な神としたのです。月が出なければ船は到着しない。そんな想いが、月読命を生みました。


一支国ミニ写真館

原の辻遺跡と天手長男神社