古市古墳群


百舌鳥古墳群の西に広がるのが古市古墳群です。古市古墳群は、百舌鳥古墳群と同じ時期に作られた古墳が並びます。現在の藤井寺市と羽曳野市にまたがるこの古墳群の中には、127の古墳が点在することが確認されています。多くが倍塚(はいちょう)と呼ばれる大きな古墳に付随する古墳です。31の前方後円墳に対し、37の円墳と51もの方墳が存在します。百舌鳥古墳群では、伝)仁徳天皇陵が突出して大きな古墳でしたが、この古市古墳群では伝)応神天皇陵が群を抜いて大きな古墳となります。同時期の古墳群として、畿内には、佐紀古墳群や馬見古墳群があることを説明させていただきました。佐紀古墳群が大和東南部の纒向遺跡の周りの古墳群からの延長線上にあるものであるなら、佐紀古墳群には古代大和王朝の王達が眠る古墳群となります。また、馬見古墳群は、葛城一族の古墳群であることを説明させていただきました。ここには、仁徳天皇陵や応神天皇陵のような巨大古墳は存在しませんが、200mを超す巣山古墳、新木山古墳、そして、少し南にはこの地域最大の210mの築山古墳が存在します。古墳の大きさが、その一族の力の大きさを示す物であるなら、葛城一族は大和王朝の王達に匹敵する力をもっていたことになります。
このように古墳群が、それぞれの一族の墓域を示しているとするなら、百舌鳥古墳群と古市古墳群に別れる河内の地域にも、2つの大きな一族が拮抗して住んでいたことになります。特に、競うように大きな古墳として作られた伝)仁徳天皇陵と伝)応神天皇陵は、その時代に存在したその地区の王が、日本のどの王よりも権力を有していた様子が伺えます。
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古市古墳群にある100m以上の古墳を年代順に並べると、右の表のようになります。右側の数字は墳墓の大きさで単位はmです。また、各古墳は下の図のように点在しています。
古市古墳群の図2

津堂城山古墳の謎

この古市古墳群、もしくは、百舌鳥古墳群と合わせ河内の地に最初にできた古墳は、津堂城山古墳でした。この古墳は、今は大きく壊されてその形すら満足にわからないようになって
水鳥
います。これは、室町時代、この地形を利用して小山城が築かれたため大きく削り取られてしまったためです。しかしながら、この津堂城山古墳の発掘により、驚愕の事実がわかってきました。まず、それまで作られた古墳には見られなかった、二重の濠と堤がめぐらされていたことです。この古墳の後、この形が受け継がれていくようになりました。続いて、壕の中に17m四方の方形の嶋が築城されていました。そして、そこには実に写実的な水鳥の形象埴輪が据えられていたことがわかりました。(写真は、藤井寺市のアイセルシュラホールに展示されている発掘された水鳥)それまでに前例を見ない、素晴らしい造形美を実現した古墳だったのです。出土した副葬品には、8面以上の銅鏡、巴形銅器、勾玉や管玉の数々、そして、環頭大刀をはじめとする刀剣と、国王の墓として間違いない品々が出てきました。この副葬品は、間違いなく九州の墳墓に埋葬されていた副葬品と同じ種類のものだったのです。
津堂城山古墳の築造年代は、350年頃です。該当する王は非常に限られ、成務か仲哀天皇しかいません。応神天皇陵は420年頃築造されていますから、応神の父親である仲哀天皇さへ該当するかどうかわかりません。日本書紀によれば、成務天皇は大和の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬ったとあります。これは、佐紀古墳群のことです。次の仲哀天皇は神功皇后が三韓征伐を終え、帰国した後、河内国の長野陵に葬ったとあります。これは、まさしく古市古墳群ですが、これが仲哀天皇であるとすると、続いて作られている仲津姫陵や墓山古墳より小さいことになり、最早大王としての権威が見られなくなります。
河内の地に、突如として作られた、みたこともない造形美を誇る古墳は、いったい誰の墓だったのでしょうか?

天皇系図

古墳の向く方角

古市古墳群と百舌鳥古墳群を比べると一番の違いは、百舌鳥古墳群の整然とした並びに比較し、全ての古墳が、まったく一貫性の無い方向をむいて作られていることがわかります。しかし、ここに大きな意味が存在するのだと思います。一番大きな、応神天皇陵は南東の方角を向いています。円墳に、埋葬された棺が納められていますから、北西の方向から拝むように作られていることになります。この方向の延長線上にあるのは、応神天皇が都を定めたとされる難波大隅宮(大阪市東淀川区)です。では、他の墳墓はどこを向いているのでしょうか。同様に考えると、最初にできた津堂城山は葛城市を向き、仲津姫陵は和泉を向き、仲哀天皇陵は紀伊国である和歌山を向き、允恭天皇陵は山城もしくは、その先の若狭を向いているのです。仲津姫は、応神天皇の皇后で仁徳天皇の母であることになっています。また、仁徳天皇が即位した時皇太后となるとの記述がありますから、応神天皇より長生きしました。従って、この中津山古墳を仲津姫に比定してよいかどうかは、疑問が残るところです。仲哀天皇陵にいたっては、時期的にどう考えても比定の誤りです。允恭天皇に関しては可能性が高いと考えます。しかしながら、允恭天皇は、書記によれば允恭天皇の母親は葛城氏です。また宮は明日香においたとされています。やはり墳墓の比定全体に大きな誤りがあると思われるのです。


倭の五王は2つの一族なのか

百舌鳥と古市古墳を見ると、非常におもしろいことがわかります。仁徳、反正、履中は百舌鳥古墳群に葬られ、允恭、雄略は古市、また、日本書紀に従うなら安康天皇は、菅原伏見西陵に葬られたこととなっています。しかし、この菅原伏見西陵に比定されている安康陵は、なんと古墳では有りません。
そこで、百舌鳥古墳群と古市古墳群の古墳を合わせ、かつ、古墳名をその地での呼称に直して記録し、歴史探求社が比定した一覧が下記のものとなります。

河内古墳一覧
太字として記載されているのは、築造時点において日本最大のものです。360年頃290mもある仲津山古墳が作られていますが、この時点では大和東南部にある310mの景行天皇陵が築造されています。ただ、これに劣らないだけの大古墳であることは確かです。ちなみに、崇神、垂仁、成務、神功皇后の墓は、佐紀古墳群の中に作られています。どれも200mを越える大きな古墳です。
宋書倭国伝の中では、倭の五王の記述に対して先代との繋がりを記しています。倭王讃没し、弟珍立つ」「済の世子の興」「興没し、弟の武立つ」これによりますと、讃と珍は兄弟で、済の子供が興と武ということになります。古墳の位置関係からは、允恭、安康(現在の宮内庁の比定地は古墳では有りません)、雄略が古市古墳群にあるため、この3人が親子で、済、興、武であったであろうと想像できます。宋書は、珍と、済の関係を書いていません。讃と珍が百舌鳥古墳群にいることを考えると、珍の一族と済の一族は異なった一族であったのではないかとも考えられます。古事記の崩御干支を西暦に読み替えて当てはめますと、応神394年没、仁徳427年没、履中432年没、反正437年没、允恭454年没、雄略489年没ということになります。どの角度から見ても、微妙に食い違うのが歯がゆいばかりです。

誰の墓なのだろうかと推理しながら、この古市古墳群を回ってみてはいかがでしょうか。
放生橋
左の写真は、応神天皇陵の裏に張り付くようにして作られた誉田八幡宮の中にある応神天皇陵とを繋ぐ橋「放生橋」です。津堂城山古墳の中にも、現在八幡神社が建っており、品陀天皇(応神)を祀っています。全国44000社の八幡神社は応神天皇を祀りますが、八幡神=応神天皇ではありません。平安時代、総本山である宇佐八幡宮から、京都の石清水八幡宮に勧請されたときに応神天皇と神功皇后を合わせて祀ることになったものです。逆に言いますと、それ迄は祀られない神であったのです。ここにも大きな謎が隠されています。

歴史探求社では、津堂城山に埋葬されている人物、並びに、応神天皇の謎を含め書籍として出版しています。興味をもたれた方は、是非、ご購入ください。