浦島太郎は、やはりそんなに軽くはなかった。


最近テレビをつけると、非常に軽い3人の昔話のヒーロー、これはヒーローではなく英雄(au)でないといけないのですよね。が活躍しています。普通なら、昔話の英雄は、アイススケートの羽生君張りの受け答えができる落ち着いた常識人であって欲しいのですが、テレビで活躍する3人は、非常に軽い3人組に仕立て上げられています。携帯電話とはそういうノリで使って欲しいということなのかもしれません。いろんなことを感じさせてくれる、とてもよくできたCMです。
中でも、一番軽いお調子者として描かれているのが、浦島太郎です。我々の持つ、浦島太郎の暗いイメージを根底から覆してくれるキャラクター設定です。「ああいう奴いるよなー」っていう感じが引きつけるのかもしれません。


私たちが知っている浦島太郎は、『昔、昔、浦島は助けた亀に連れられて、竜宮城に来てみれば絵にもかけない美しさ』という歌でおなじみの世界です。浦島太郎は、浜で子供達にいじめられている亀を助けてあげます。すると、亀が竜宮城につれていってくれて、乙姫様が歓待してくれます。
楽しくて月日を忘れあっという間に3年が過ぎますが、故郷が恋しくなって家に帰ります。乙姫様は、「開けてはダメですよ」という玉手箱をお土産に持たせます。浜につくと、景色は変わり知らない人ばかりです。浦島太郎という人は300年前にいた人の話だとわかります。そして、玉手箱を開けると煙がでてきて、浦島太郎は、みるみるうちにおじいさんになってしまいます。

この話、ちょっと変だと思われたことはないですか?子供の時。「えー?」って思われませんでしたか?
浦島太郎はいじめている亀を助けた人です。竜宮城に連れて行ってもらい恩返しをされたまでは良いのですが、渡されたお土産の玉手箱。「開けちゃいめない」箱を、乙姫さんはどうして渡したのでしょう。誰だって、開けちゃだめと言われると開けたくなりますよ。そして、開けてしまった浦島太郎はおじいさんになってしまいます。それってあまりにも可哀想ではないですか。亀を助けたばかりに、実質3年間しか生きられなかったなんて、なんて残酷な話なんでしょうか。
浦島太郎のこの話は、何年もの年月を経て、末梢のくだりが変化して今の形に落ち着いたもののようです。多分、もともとの話は違ったのだと思います。それを無理やり変えてしまったから、こんな理不尽な話になってしまったのです。子供に分かる話に変えたことが一番大きいのかもしれません。私たちが知っているストーリーは、明治になり国定教科書に載った話の筋であり、国民全てがこの教科書を使って勉強したために日本中にひろまったということのようです。

浦島太郎の元の話はどんなはなしだったのでしょうか。そもそも、発祥の地はどこなのでしょうか。室町時代や江戸時代にも、御伽草子として本となっていたことから、日本の各地に浦島太郎の伝説の地が作られているようです。
香川県三豊市詫間町にある丸山島という無人島には浦島神社があります。この地に残る浦島伝説では、生里(なまり)という場所で太郎は生まれます。現在、荘内半島というのですが、この地を昔は浦島と言ったのだそうです。亀を助けた場所が「鴨の越」と呼ばれる場所で、太郎は「どんがめ岩」と呼ばれる場所で釣りをしていると亀が迎えに来たと言います。玉手箱を開けた場所は「箱」と呼ばれる場所で、今はここに浦島太郎の墓があります。地名とも連動してよくできているのですが、この地が発祥の場所ではないようです。
実はこの浦島太郎の話は日本書紀にも載っているのです。雄略天皇の22年、丹波国余社郡の管川の人で、端江浦島子が舟に乗って釣をしていた。そして大亀を釣り上げた。釣られた亀は女に化けてこの子の前に現れた。浦島子は魅せられてついて行き、2人で海に入っていった。蓬莱山である常世の国に到って、仙人に会い各地を巡った。物語は別巻に収められている。と、記載されています。
別巻を読んでみたいと思うのですが、日本書紀に別巻はありません。さては古事記のことかと思いましたが、古事記には浦島太郎の話はありません。日本書紀の編纂が完了したのは720年のことですが、それより以前の713年に風土記の編纂が命じられています。「釋日本紀」に残されている「丹後国風土記」には、この浦島太郎の話が詳しく残されています。
筒川の里、日下部首等の先祖に姿容秀美の筒川嶼子(しまこ)という者、即ち水江浦島子がいた。浦島子は小舟に乗り釣りに出た。三日三晩の間一匹の魚も釣れなかったが五色の亀だけ釣り上げた。眠っている間に、亀は他の誰よりも美麗な婦人になっていた。その娘は問答の中「天上仙家之人也」と自分のことを語った。彼女が眠るように命じ、浦島子はそれに従った。
目が覚めると、海中の大きな島に至っていた。館の門に入ると七人の童子、八人の童子が迎えるが彼らはそれぞれ「すばるぼし」と「あめふりぼし」だという。娘は父母と共に迎え、歓待の合間に人界と仙都の別を説いてくれた。館に留まること三年経ち、浦島子は郷里の事を思い出し、神仙之堺に居るよりも俗世に還ることを希望するようになった。
娘は別れを悲しみながらも、玉匣(たまくしげ)を渡し「戻ってくる気ならゆめゆめ開けるなかれ」と忠告しました。帰り着いて辺りが変わっているので郷の者に聞くと、浦島子は蒼海に出たまま帰らなかったということにされていた。
こうなってくると、不思議だった残酷な物語の意味もとけるのです。元々亀を助けたわけではなく、三日間なにも釣れず仙人の住む世界に入ったわけです。常世の国であったのかもしれません。つまり死後の世界の中で、現世に戻ることを許された。その時、また帰ってくる時に使うための玉匣(たまくしげ)をもらった。にもかかわらず、彼はなぜか現生にとどまることを選択し老いてしまったという話です。玉匣は、櫛などの化粧道具を入れる美しい箱のことです。
この話を聞いて思いこされるのが、徐福の伝説です。日本では弥生時代が始まる頃、中国の秦の始皇帝に仕えていた徐福は、東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと皇帝に申し出て旅立ちます。一度目は失敗、二度目は3000人の人々ともに、東へと旅立ち戻ってきませんでした。
中国から東に旅立ち辿りついた地は、多分、日本でしかありません。弥生時代日本に米を伝えた集団こそが、徐福であったかもしれないのです。彼らによって縄文の日本は、弥生文化、稲作文化の時代を始めることになります。九州に辿りついた一団は、いくつかの集団に分かれたのだと思います。一部は、そのまま日本海に抜けたのかもしれません。そして、彼らが辿りついたのが、丹後の地であったというのは決して絵空事ではないように思うのです。
仙人の存在、蓬莱山という地名には、道教の世界が描かれています。何も情報のない場所に道教の世界が広がるわけはありません。もちろん、日本書紀にしろ、風土記にしろ編纂されたのは8世紀になってから。その頃の日本には、中国文化も深く行き渡っていたかもしれません。このため、編纂者が作り込んだとも考えられます。
しかし、日本書紀が丹波国余社郡の話として記載し、丹後国風土記に残されていたのは、確実にその地に伝わる伝承があったからだと思われます。丹波国余社郡は、今、京都府与謝郡として地名を残しています。
雄略天皇の頃といえば5世紀。古墳時代の象徴として残される古墳では、丹後半島にある墳丘長190メートルの前方後円墳である神明山古墳が築かれたのがこの頃です。この近くにある竹野川、そして竹野神社は竹野媛の伝説を残す場所です。古事記にでてくる、旦波(たんば)の大縣主(おおあがたぬし)、名由碁理(ゆごり)の女、竹野比賣(たかのひめ)は日本の第九代天皇の開化天皇のお妃となりました。
丹波王国として栄え、かつ、欠史八代の時代に妃を出すほどヤマト政権にも影響を及ぼした古くからの大国には、徐福集団の一部が住みつき、豊かな国を起こしたのかもしれません。その時伝えられた道教の世界が、浦島子の話を作り出したのではないでしょうか。「すばるぼし」と「あめふりぼし」はともに中国の二十八宿の西方白虎の真ん中に並ぶ星です。西の端から入って東へと進むという意味なのでしょうか。いずれにしても、中国思想の中で物語が描かれているのです。
しかし、浦島子はどうして、玉匣(たまくしげ)を開けてしまったのでしょうか。自分の居場所がないと気づいた時点で、また、常世の快楽の地へと戻ろうとしなかったのはなぜでしょうか。そうすることが、人の道であるという戒めなのでしょうか。現実の世の中で、いろいろと苦労しながら年老いていくことが本当の生き方なのだよと教えようとしているのかもしれません。不老不死の薬など存在しないのだという結論に辿りついた徐福の教えのようにも聞こえるのです。

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